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8.金糸雀の静寂 前半


 翌朝、携帯を見ると、足沢さんからメールが入っていた。昨夜の日付だった。例の依頼の詳しい日取りを決めたいらしい。依頼主の古美術商の方と明日にでも打ち合わせをしたいのだが、何時頃なら店に来れるだろうか、という内容だった。俺は起き抜けの頭でしばし考えて、今日は一日空いているのでいつでも構いません、と嘘を書いて返信した。本当は一限から四限まで四つの授業がびっしりと詰まっていたのだが、どうにも行く気になれなかった。それで、すまないけれど今日は休むから何かあったら教えてほしい、という旨のメッセージを侑介に送り、再びベッドに寝転んだ。

 早朝の白い光がカーテンの隙間を縫って、室内を横切っている。光は机の上に達して、本の背表紙にその時限りの帯を付けていた。太陽から空へと宛てた紹介文。俺に読めないのは当然のことである。鳥の囀る声がカラフルに響き渡り、日和の良さを物語っている。俺は自分をカメラに変えて、シャッターを切るつもりで、ゆっくりと瞬きをした。風景を網膜に焼き付ける。

 携帯が手の中で震えた。

〈侑介→りょ。珍しいな、クモが大学休むなんて。熱でもあんのか?〉


 喫茶店Milky Wayは、相も変わらず閑散としていて、なのに、それが当然だと言わんばかりの落ち着いた佇まいで、俺を出迎えた。時間はちょうど三限が始まる頃で、それとない罪悪感を覚えながら、俺は店の扉を開けた。

「いらっしゃい―――あぁ、来たか、月時」

「こんっちわーっす」

 軽く頭を下げながら敷居を跨ぐ。足沢さんは、「宇佐美(うさみ)さん。彼が、依頼を受けてくれる美大生です」と、彼の前に座っている恰幅の良い男性に向かって言って、俺の方を掌で示した。男性は、腹の重石を――自ら付けたにもかかわらず――忌々しそうに見ながら、立ち上がった。

「はじめまして。私は、《黒兎堂》店主の宇佐美常彦と言う者だ」

「あっ、はいっ、はじめまして! 月時曇って言います。そこの美大で大学生やってます。専攻は油絵です。よろしくお願いします!」

 宇佐美さんは特に目立った特徴も無い、普通のおじさんであった。おそらくビールで膨れたのであろう大きな腹に、後退を余儀なくされつつある額。目は細く、眉はぼさぼさで、狸を彷彿とさせる人物だった。彼はカウンターの縁に施してある金糸雀(カナリア)の彫刻をさらりと撫でて、言った。

「この彫刻、君がしたんだってね」

「はい」

「他の絵もいくつか見せてもらったが――うん、充分、金になる実力だ」そう言ってから、彼はこちらを一瞥した。「すまんね。職業柄、ついつい金の話になってしまって。気を悪くしたかい」

 内容とは裏腹に、俺を案じるような調子ではなかった。けれど、俺も別段気になったわけではなく、それどころか素直に嬉しいと思ったので、へらりと笑って答えた。

「いえ、そんなことは。むしろ、認めてくださって、ありがとうございます」

 俺の態度に何を思ったのかは知らないが、宇佐美さんはニヤリと片頬を上げて、俺に椅子を勧めると、自分も元通り腰かけた。

「依頼のことは聞いているかな」

「はい。油絵の上書きをするんですよね」

「そう」

 カウンターにつくと、足沢さんがさりげなく水を置いてくれた。俺はそっと会釈をして、早速口をつけた。ちょうどよく冷えた透明な液体は、喉を抵抗なく滑り落ちていって、胃の底に淀んでいた黒い塊の色素を薄めた。

「どんな風に描き直してくれてもいい。テーマもモチーフも君に一任しよう。サイズはF50だが、どれくらいの時間が欲しい」

「うーん……」俺は少しだけ考えた。F50。それなりに大きい。授業は、課題は、割ける時間はどれほどか。夏休みをどれほど割くか。「……少なくとも、四カ月は欲しいです」

「では、切りよく五カ月でお願いする。十月の末を納品日にしようと思うが、どうかね」

「はい、いいっすよ」

「じゃあ、そういう感じで頼む。これが依頼の品だ」

 宇佐美さんは、横に置いてあった筒状の風呂敷を、カウンター上で滑らせて、俺の前に持ってきた。

「鬼門組とか言う怪盗グループが、これを盗む際に木枠から外したらしくてね。このような状態で申し訳ないが、その分報酬には上乗せさせてもらう。もちろん、かかった経費は漏れなく保証させてもらうから、必ず申告するように頼むよ」

「わかりました」

「報酬は全額後払いでいいかな」

「はい、もちろん」

「ありがとう。相場通りの報酬に、出来次第で追加させてもらうから、よろしく頼む」

 宇佐美さんはそう言って、カップに残っていたコーヒーを一息に干すと、お代を置いて出ていった。俺の手元には不思議な形状の風呂敷と、割の良い仕事と、客観的な評価が残されて、昨日からなんとなく落ち着きを無くしていた足場が固まったような感じがした。

「何か飲むか?」

 先程まで完全に存在感を消していた足沢さんが、空のカップを回収していく。

「何か、甘くて冷たいものってありますか?」

「レモネードとかでいいか?」

「あっ、はい、じゃあそれを」

「はいよ」

 足沢さんが機敏にカウンター内を動き回り、さほど待たずにグラスが差し出された。綺麗な薄黄色(シトラス)がゆらりと震えて、光の影をカウンターに描いた。

「ありがとうございます」

「ところで――」俺がグラスを傾けた瞬間を狙ったかのように、足沢さんは言った。「――今日は授業無かったのか?」

 唐突な質問に核心を突かれて俺はむせた。

「おいおい……分かりやすすぎるだろ」

「……すみません……」

「いや、別に、責めてるわけじゃねぇんだけどな」と、足沢さんは、カウンターの向こうの自分用の椅子へ、両足を投げ出すようにして座った。「月時って、バイトのためだけに、わざわざ授業休むような奴には見えなかったから。何かあったのか?」

 俺が答えあぐねて黙り込むと、足沢さんは「ま、別に、聞きたいわけじゃねぇから、言いたくないなら言わなくていいんだけど」と飄々とした態度で言った。「ただ、まぁ、もし依頼されたのが嫌になったら、それはすぐに言えよ。そこは俺の評判にも関わるからな」

「……はい」

 俺は意識的に笑って頷いた。

 それから、足沢さんは自分のためにコーヒーを入れて、タブレットを片手に何やらやり始めた。本当に呑気な店主である。入れたてのコーヒーの香ばしい香りが店内に立ち込めて、空気をとっぷりと染め上げた。爪の間からコーヒーの成分が染み入ってくるような感覚がある。そんな中で飲むレモネードは、また格別な味わいがあった。

『―――不幸でも幸福でもないという微妙な情勢の最中に置かれて、ささやかではあるが確かな幸せを感じる瞬間というのは、まさに特別なものだろうね』

 不意に、俺でも足沢さんでもない声が響いた。店内に他の客はおらず、足沢さんは変わらずタブレットに視線を落としたままである。俺はすぐにこの声の主が誰であるか――正確には、何であるかを察して、唇を引き締めた。

 この声は、俺がかつて彫刻した、金糸雀だ。

『話しかけるのは初めてだったかな。そう、僕は自分というものをきちんと弁えているからね。金糸雀たるもの囀ってなんぼという面はあるが、必要以上のおしゃべりを好まないのはこの店の風潮だ。郷に入っては郷に従えという言葉にある通りに、僕は必要を超えて囀ることはしないのだよ。もちろん、僕がそのようになったのは、君がきちんと、僕をこの店にそぐうように彫り込んでくれたおかげなのだけれど』

 鈴の鳴るような声だった。だというのに、それは男性の声なのだった。奇妙な聞き心地である。よくあるモザイク処理のように、男性の声と女性の声を重ね合わせているという感じはない。しかし、その声は成人男性のものでありながら、鈴を鳴らしているような可愛らしさも持ち合わせているのだった。よくよく考えてみれば、金糸雀は人間でないのだから、この程度の不思議は当然なのかもしれない。

『ところで、君は随分と落ち込んだような顔をしているね。いや、落ち込んだ、という表現は相応しくないかな。とはいえ、絶望という言葉では強すぎるね。まったく言葉とは難しいものだ。威力は大きいくせに使用法は複雑で不明瞭。使いどころと使い方を間違えようものなら、思いもよらない結果を生じさせることとなってしまう。沈黙は金、雄弁は銀とはよく言ったものさ。これはすなわちそもそも言葉を使わなければ、誤った方向へ行くことも無かろうというある種の極論なのだからね』

 金糸雀は息継ぎもしないで――彫刻に息継ぎなど不要なのだろう――実に滑らかに言葉を並べ立てた。聞いている俺の方が喉の渇きを覚えてしまって、ひっきりなしにレモネードを口に運んでしまう。

『しかし、先にも述べた通り、言葉とは大きな威力を持つものだ。故に、沈黙が常に金であるとは言い難いのだよ。それだけ大いなる力を持った言葉たちを、すべて身の内に溜め込んだら、一体全体どうなると思う?』

 疑問形で尋ねておきながら、金糸雀は答える間を一瞬も置かずに続けた。間を置かれたところで答えるわけにいかなかったのだが、なんとなく出鼻を挫かれたような感じがして、俺は無意味にグラスを揺らす。

『僕が思うに、言わなければ良いことと、言わなければ悪いことというのは、同じ量だけあるのだよね。例えば、言いたいと思ったことが十個あったとする。その内五個は言わない方が良いことで、五個は言った方が良いことだ。また、その良し悪しは時と場合に応じても変動する。それらをきちんと見分けて、言うべきことを言うべき時に言える人間、というのが、真に空気を読める人間と呼べるのではないだろうか。あぁ、失礼、先程の問いに戻ろう』

 先程のものが問いであった、という自覚はあったらしい。と思って、ふと、彫刻に自覚や感情や何かというものなど存在するのだろうか、と疑問を抱いた。

『さて、言葉をすべて溜め込んだらどうなるか、という話だったね。繰り返すようだが、言葉というものは強い力を持つものであって、この国には言霊信仰という形で現れているだろう。そんな言葉たちを、例えば言いたい言葉の十個中十個を、言わずに秘めておくということはどういうことか。それはつまり、その十個の力をすべて体内に留め置くということに他ならない。そんなことでは、いつか暴発するだろう。そうなるくらいならば、十個中十個、全部外へ放り出してしまった方がずっとマシだと思うのだよね。まぁ、君がどう思うかなど、僕の知ったことではないけれど』

 グラスはもう空になってしまった。これ以上やることもないし、金糸雀の独白を聞き続けるのもなかなか疲れる。俺は立ち上がって、久々に声を出した。

「ごちそうさまでした。いくらですか?」

 足沢さんは液晶の画面に視線を落としたまま、ひらひらと片手を振った。

「いいよ、奢りだ」

「えっ、いいんすか?」

「あぁ」と、足沢さんは俺の方を見てにやりと笑った。「宇佐美さんから、月時の紹介料をたんまり貰ってっから。この程度サービスさせろ」

 その言い草に俺は笑って、お礼の言葉と一緒に頭を下げた。

 風呂敷を抱えて店を出る直前、金糸雀が呟いた。

『……気付きたまえ。君は言えないのではない。言わないのだよ』

 知ったような口をきくな。俺は心中で吐き捨てて、静かに扉を閉めた。


 家に帰って、さっそく風呂敷を開けてみた。丸められたキャンバス生地は、長らくこの状態のままで保管されていたのだろう。解放されたにも関わらず、丸まったままほとんど動かなかった。とりあえず全貌を見ておきたいと思い、俺は床を適当に片付けて、丸みをほぐしながら丁重にそれを広げた。

 全容が明らかになった瞬間、背筋が粟立った。

 確か、タイトルを《五月革命》というらしいその絵―――綺麗なバスルームに裸体の女性が横たわっている。バスタブは血のような赤黒い染みに(まみ)れていたが、女性自身には一筋の傷も無い。ただ微睡んでいるだけといった風の穏やかな表情で、血の海に半身を浸している。

 真っ先に目が行くのは女性だ。普通はそれだけを見るだろう。だが、この絵の主人公は彼女ではない、と直感した。それは彼女の上にいた。本当に見るべきは画面の上半分なのだ。そこには黒い靄がぼんやりとした輪郭をもって立ち込めていて、それがどうしようもなく不吉な雰囲気を纏っていた。少し見ていればすぐに分かる。

 その姿は、死神だ。

 女性の美しい黒髪が、一房だけ不自然に切り取られている。髪を切り取るのは死神タナトスのすることである。また、女性の左肘の辺りが、バスタブの縁に引っ掛けているというには無理がある姿勢で持ち上がっていて、よくよく見ればそこに黒い筋が何本か纏わりついている。死神が掴んでいるのだ。

 作者が本当に描こうとしたのは、女性の魂を刈り取る死神だ。

 しばらく見ていると気が滅入っていくような感じがして、この絵が『呪いの絵』と呼ばれていたことを思い出す。俺は途端に怖くなって、素早く絵を元通りに丸め、風呂敷をきつめに結び直したのだった。

   ★


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