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7.日々は短し迷えよ男子 後半

 

 三限の美術史の授業が始まる直前になって、俺は忘れていたことを思い出した。

(そうだった、電話!)

 露野先生が教壇に立って、授業の準備を始めた。いつもの白衣に、ぼさぼさの髪、丈の足りていないズボン、素足と下駄。パソコンをスクリーンにつなぎ、マイクの調子を確かめて、授業が始まる。眼鏡の奥の細い目が、一瞬俺の方を向いたように思えた。

「授業を始めます。今日はバロック時代から―――」

 元々は社会の教員を目指していた、というだけあって、先生の話は詳細だ。時代背景から思想まで、また絵画だけでなく、芸術と大別されるものなら演劇から文芸までなんでも、筋に沿って事細かに聞かせてくれる。大抵の生徒は、その内容と昼飯後という時間帯のコンボにやられ、開始二十分で眠りに落ちる。しかし、俺は好きだった。すべての話は創作に通じる。歴史も、思想も、宗教も、哲学も、理科も、創作活動には何だって入れ込む余地がある。

(……英語も、そう思えたらいいんだろうな……)

 残念ながら、英語だけはどうしてもそう思えず、苦手なままだった。

 先生の説明は淡々と進んでいく。俺は先生の眼鏡の縁を見ながら、頬杖をついて、じっとその声に耳を傾けていた。

「絵画が自立した芸術になりつつある時代だが、ルネサンス期が安定と調和と求めたのに対し、バロックでは不安定な激しさが求められた。これまでの宗教画や何かと違い、躍動感をもたせた残虐なシーンがよく描かれるようになっていく。『ホロフェルネスの首を切るユディト』や『イサクの犠牲』などが、その移行期に現れる代表作になる。オランダのレンブラントの『夜警』もバロック期に描かれたものだ。ここでは、光と闇の対比が明確に描かれる。また、これは市民からの依頼によって描かれた作品とされる。貴族ではなく、市民も絵画を買うようになる、という、近代的意識の目覚めはこの辺りから始まっていると言えよう。ベラスケスの『ラス・メニーナス』では―――」

 先生はあまり雑談を好まない。いや、本題から外れることはままあるのだが、それがたとえば私生活のことであったり、昔話であったり、と、そういうことが無いのだ。突拍子もない話は決してせずに、美術史の話の沿線にある物事を話す。俺はそういう、何気なく紹介されたエピソードが好きで、本筋の授業はさておき、そういう部分だけをノートに書き留めておくのが昔からの癖だった。それ以外の部分はほとんどが落書きで埋まっている。

 ふとページをめくると、前回か、前々回だったか覚えていないが、適当な木々の絵の隙間に走り書きがしてあった。どんなに汚い文字でも、自分の字であれば不思議と読めるのであって。それは、自分で書いたという記憶があるからこそ読めるのかもしれないが、とにかく俺はそれを読んだ。

『そうだ、絵画とは嘘だ。嘘を通して、真実を伝えるのだ』

(あれ、これ、誰の言葉だったかな……)

 内容だけを書き抜いて、出典を書かないとはとんだ迂闊さである。書いた当時は、後になって読み返して困るかもしれない、とは毛ほども考えなかったのだろうから、仕方がないのだが。

「――この時代の人々は、ドラマティックを求めるあまり、少々浮き足立っていたのかもしれない。ヴァニタス、メメント・モリ、カルぺ・ディエム、などと言った言葉でその当時の精神は表されるが、詳しくは次回の授業でやっていく。即興的に、その場その場で生きることを楽しんでいた時代だが、裏を返せば、未来に展望を持てなかったということでもある。静物画や自画像が積極的に描かれるようになったのもこの頃からだ。特に、自画像を描くことによって、自分とは何か、絵を描くとは何か、ということを考えていたのだろう」

 俺は弾かれたように顔を上げた。自分とは何か。絵を描くとは何か。その先にある答えを、どうやら俺は求めているらしい。それは、自画像を描けば分かるのだろうか。それとも。

 先生は不意に言葉を切って、一度だけ教室内を見回すと、おもむろに言った

「さて、中間レポートのことだが」

 皆の背中が示し合わせたかのようにびくりと動いて、一斉に起き上がった。


「ただいま」

 誰もいないと分かっていながら、声を上げてしまうのは、長年かけて染みついた習慣ゆえのことだった。部屋に向かって言っているのだ、と言い訳をするように思って、俺はリビングに寝転がる。

 昨日借りてきたDVDとCDがベッドサイドに散らばっていた。このままでは踏んでしまいそうだと思い、まとめて机の上に置く。それからリュックを開けて、教科書やら何やらの奥底から、携帯を掘り出した。右上の小さなバッテリー表示は、三分の一も減っていない。俺はゆっくりと深呼吸をした。今日こそ、電話を掛けよう。打ち込んだまま放置してあった番号を眺めて、発信ボタンに指を伸ばす。

「っ、あっ」

 触ったという認識は無かったのだが、どうやら震えた指先が微かに画面をタップしていたらしい。最近のタッチパネルは非常に過敏である。あっという間にダイヤルが回され、呼び出し音がかかる。

 こうなってしまってはもう後戻りはできないと、俺は唾を飲み込んで、携帯を耳に当てた。心臓の拍動がどんどん強くなっていって、その内コール音を掻き消してしまうのではないかと思った時、錆びた錠前を無理に開けたような音がした。

『―――はい、もしもし』

「あっ、えっと、もしもしっ?」向こうから聞こえてきたのは男性の声だった。反射的に返答し、それから言葉に詰まる。「あ……っとー、その……」

『どちら様でしょうか』

「あっ、はいっ、ええと、俺は、月時曇と申しますっ」

『つきどき……?』

「はいっ。ええと――」何と言えば良いのだったか……そうだ。「――緑川文代さんは、ご在宅でしょうか?」

 電話の向こうで男性は黙った。ノイズ混じりの沈黙が耳に突き刺さり、俺は何か言葉を間違えたのだろうかと不安になって、意味もなく目を瞑った。

 しばらくして、と言うほど、そんなに間は空いていなかったかもしれない。けれど俺には永遠のように感じられた沈黙の後、男性の声は沈痛な響きをもってやってきた。

『……母でしたら、先日亡くなりました』

「……えっ?」

『脳梗塞による急死です。なので、申し訳ありませんが』

 俺は言葉を失った。せめてお悔やみの言葉のひとつでも言うべきではあるまいか、と常識では分かっていたのだが、いざ人の死に直面すると――たとえそれが電話越しであっても――喉を何かで塞がれたようになってしまうのだった。

「……そう、ですか……それは、その……」

『僕で良ければ、ご用件お聞きしますけど……その……』

 男性――母、と言ったからには息子さんだろう。つまり――緑川さんは、まるで俺のように言い淀んで、それから、こちらを窺うように切り出した。

『違ったら申し訳ないんですが……もしかして君は、姉さんが――緑川皐月が産んだ子ども、では、ないですか?』

 俺は一瞬だけびくりとしたが、すぐに頷いた。

「……はい、そうです」

『あぁ、やっぱりそうだったか』緑川さんはそう言って、どこか吹っ切れたように、しかしどこかに疲れを滲ませた声音で、喋りだした。『君のこと、姉さんから、本当に少しだけだけど聞いているよ。僕は、一応血筋上だけは、叔父さんにあたるのかな。母さんに、写真を見せてもらったこともある。……どうかな。元気にやっているかい?』

「はい。ええと、おかげさまで」

『そうか、それは良かった』

 気まずい沈黙が電波の間を埋めて、その無音の波に飲まれるのを恐れたかのように、彼は早口になって言った。

『それで、君は何の用で電話をしてきたんだい? 母が亡くなったのを知って、ってわけでもなさそうだし……何か、聞きたい事でもあったのかな』

 俺はもう一度唾を飲んで、乾いた喉に湿り気を含ませた。ほとんど効果は無かったが、何もしないよりはマシだろう。乾燥に痛む喉を震わせて、俺は口火を切った。

「……緑川皐月さんが亡くなった理由を、知りたいと思って、電話しました」

『……』

「その、すごく、失礼な質問だと分かってて、それも、えっと、文代さんが亡くなった時に、本当、申し訳ないんですけど、でもその、俺……」

『いいよ、大丈夫だから。気になって当然だよ』

 緑川さんの愁いを帯びた優しい声に、俺はむしろ罪悪感を覚えた。

『とはいえ、僕が知っていることはほとんど無いんだよな。……姉さんが、自殺したってことは、知ってる?』

「はい、聞きました」

『うん、そうだよね。……姉さんは、自殺する半年くらい前に、付き合ってた男と別れてる。たぶん、君の父親じゃないかと思うけど……』

 露野先生のことだ、とすぐに思ったが、『そいつが、本当に酷い男だったらしい。姉さんは平気だって言ってたけど、殴られたりとか、していたって』続けられた言葉に、俺は首を傾げた。露野先生のことではないのだろうか。

『でも、君を授かって、別れた後は、君を産んで――それで、死んでしまうまで、そいつとは一度も会ってなかったみたいだから、たぶん自殺とは関係ないんだろうね。分からないけどさ』

「そうですか」

 不意に、緑川さんは押し黙って、それから声を低めて続けた。

『……母さんには言わなかった……言えなかったんだけど』

「……?」

『姉さんはたぶん、精神を病んでいて、それで自殺したんだと、そう思う』

「精神を……?」

 電話口の向こうで、頷いた気配が伝わってきた。『言わないでって頼まれてたから、ずっと黙っていたんだ。……母さんも、そういうこと無駄に気にする性質(たち)だったし……でも、それきり、タイミングを見失って、それっきりになってしまって。だって――』

 俺は直感的に、続きを聞くのを怖いと思った。何か、何かは分からないがとにかく、聞いてはいけない言葉が出てくるような悪い予感を覚えた。それで、咄嗟にこちらから話を逸らそうと考えたのだが、まったく遅かった。

 自嘲気味に乾いた笑いをひとつ挟んで、彼は言った。

『だって、おかしいじゃないか。絵から声が聞こえるとか、彫刻が動いたとか。……こんなことになるんだったら、約束を破ってでも、病院に連れていくべきだった』

 心臓を鷲掴みにされた。


 何と言って電話を切ったのか、覚えていない。暗くなった画面の携帯を片手に、俺は床に座り込んで、ベッドに背を預けていた。日は完全に落ちてしまって、部屋の中は暗闇に包まれている。しかしそんなこと気にもならなかった。

“おかしいじゃないか。絵から声が聞こえるとか、彫刻が動いたとか”

 その言葉ばかりが頭の中を駆け巡っている。

 それが普通の反応なのだ、と、今更ながらに思い至る。むしろ今までが恵まれ過ぎていたのだ。先生だったり、リョウやウミだったり、そういう人たちに偶然会えていたから、いま俺は普通に生きていられるのであって――たとえば彼らがいなかったらどうなっていたのだろう、と考えて、ぞっとした。

 思わず口元を覆って、膝を抱え込む。

 そんな世界耐えられたはずが無い。しかし、そんな耐えられないような世界こそが、いわゆる普通の世界なのだった。特異は排除され、異質は除去される、そんな世界。

(……俺、やっぱり、おかしいんだな……)

 事実を突きつけられた。言葉に悪意が無かっただけに、尚更性質(たち)が悪い。同時に、弱さと甘さを自覚させられた。こんな自分が、どうして、将来に希望を持てるのだろう。普通の人達に混ざって生きていくことが、どうして出来ると思い込んでいたのだろう。

 俺は一体、何になれるのだろう。

 夕飯はまだのはずなのに、何故か俺は空腹をまるで感じておらず、着の身着のままベッドへ潜り込んだのだった。

 

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