6.日々は短し迷えよ男子 前半
母から送られてきた電話番号を、俺はしばらく持て余すのだった。自分から尋ねておいて情けの無い話であるが、仕方のないことであると言っても罰は当たるまい。そも、電話をかけて、本人が出て、俺は一体どのような第一声を発すればいいのだろうか。名前を名乗れば察してくれて、何も尋ねぬ内に勝手に喋りだしてくれれば非常に楽でいいのだが、そう簡単にいくとは思えない。それに、俺は一体何を聞きたいがためにこの番号を手に入れたのだったろうか。――そうだ、露野先生と、緑川皐月さんについてだ。過去、二十年前の露野先生と緑川皐月さんとの間に、何かあったのか。何故、皐月さんは死んだのだろうか。それを聞きたいのだが、ここでふと俺は冷静になる。そうだ、皐月さんは死んだのだ。自らの手で。もしもそれに露野先生が関わっているとしたら、皐月さんのお母さんにあたる文代さんは、露野先生に対してどのような感情を抱いているのだろうか。果たしてそれは、俺が不躾に聞いてもいいようなことなのだろうか。そのようなことを考え始めたら、途端にこの数字列が重たくなった。たった十桁の数字列なのに、とんでもなく太い境界線のように思えた。だとしたら、これを飛び越えたらどこへ行けるのだろう。何と何を区切る境界線なのだろう。
結局、俺はその番号を打ち込むだけ打ち込んでおいて、発信ボタンを押すことなく、一夜を明かしたのだった。
窓の外は澄み渡る青空だ。柔らかな五月晴れの日差しを眺めていると、宿題やらレポートやらをやる気にもなれず、かといって部屋に閉じこもっているのも何だか落ち着かなくて、俺はそっと起き上がった。
意味もなく駅前へ出る。何の目的もない探索というのは案外面白いものだし、俺自身はとても好きであった。さすがに日曜日というだけあって、駅前はたくさんの人で賑わっていた。活気づく人波に乗っていると、なぜだか俺まで嬉しくなってくる。楽しげな人並みは鮮やかな色彩。精緻ではないが力強く、温かみがあって、豊かな感情を内包した絵画。見ているだけでも充分楽しい。
若い女性向けのデパートから、女子高生の一群が勢いよく飛び出してきた。一瞬飲まれそうになって、慌てて脇に逃れる。逃れた先で、また人にぶつかりそうになって、反射的に頭を下げながら壁――正確には、チェーン経営の喫茶店の大きな窓――に引っ付いた。
途端、背中にバンッ、と振動をぶつけられて、俺は「ひえぁっ?」などというような奇妙な声を喉から放り出した。
慌てふためいて振り返れば、
「あ」
目が合った。
知っている顔がガラス越しに俺を見上げて、にこりと笑った。
「やぁ、クラウディ。奇遇だね、このような喧騒の最中で会おうとは。運命の女神も、なかなか粋な計らいをしてくれる」
「こんにちは、掛川さん」
最初の一言が挨拶であるのは常識だと思って、俺はそう返した。
彼女は掛川由比さんと言って、数か月前に街中で出会った女の子だ。ここからさして遠くない総合病院に長らく入院し続けているらしい。少々奇妙な事件を介して出会ったのだが、お互い絵画鑑賞を好むなどの共通点を通して意気投合し、以来、時折見舞いへ行くようになっていた。
つられるように買ってきたアイスココアをカウンターに置いて、隣に座る。
「病院抜け出しちゃって大丈夫なの?」
「案ずることはない。たとえ純白の悪魔がボクの目の前に立ちはだかろうと、真の意味でボクの魂を縛り付けることなど不可能なのさ」
「そっか。また食べ過ぎて数値が上がっちゃわないように気を付けてね」
彼女は三枚ほど重ねられた空のケーキ皿を見て、「ふふん……――」と、遠い目になり笑った。「いやなに、恐れることなど無い。過つのは人間でなく、人間に住まう悪魔の仕業だ、という言葉がボクの胸中に息づいている限りはね」
「それ、誰の言葉?」
「人類科学が創造した、小さな箱庭の偉大な盗人さ。かの者は非道なる裏切りに遭って神の御許へと送還されたが、残された者たちは正しい形で復讐を遂げた。あれほど正しい復讐劇を、ボクは他に見たことが無い」
「へぇ、そうなんだ。何て言う映画なの?」
「……正直、その件に関しては、異言語間に横たわる大きな溝を感じざるを得ないね。この世に絶えず争いが存在し続けることにも頷ける出来だ」
壮大な前置きとともに告げられた邦題は、確かに笑いを誘われるものだった。
しばらく、何の腹の足しにもならない雑談で時間を潰して、彼女は帰っていった。
俺はいつも、彼女にしか動かせない不思議な時計があるように感じるのだった。喋り方の所為か、持って生まれた雰囲気の所為か、それとも長い入院生活がそうさせたのか――彼女と話している間は、時間という概念が意識から綺麗に外れてしまうほど、時の流れが穏やかでささやかになる。それはまるで、絵を描いている時の気持ちの良い集中のようである。
俺は早速、街中のレンタルビデオ店で、教えてもらった映画のDVDを借りた。いくつかのCDと一緒に。特に興味はないが流行っている歌手と、昔から時々聞いていたロックバンドのアルバムを二枚ずつ。
家に着くとすぐに、DVDプレイヤーを兼任しているゲーム機に起動を命じた。ソフトを差し込めば、しゅんしゅんと軽快な音を立てて薄い円盤が回転していく。
やがて、黒かった画面に光が差し、俺は雄大なイタリアの街並みを収めた箱庭を覗き込む。
きちんと見終えたところまでは覚えている。彼女がこれを、正しい復讐劇、と評したことにも納得がいった。邦題の付け方を間違えている、と酷評したことにも。それから俺は、雨の音を聞いて目を覚ましたのだ。目を覚ました、ということは、それまで眠っていた、ということに他ならないのであって。
窓の向こうを見遣れば、悲惨な姿となった洗濯物が悲しそうに身を捩っている。
あぁ、取り込まなければ、とぼんやり考えたが、俺の体は動かないのであった。動きたいのに動かせないのではなく、そもそも動こうという気が無いのだから、これはもう仕方がない。洗濯物は雨天に放り出されたまま、冷たい粒に打たれ続けている。
いやに頭がボーッとしている。靄に覆われているように、あるいは脳味噌そのものが靄になってしまったように、白く煙ってまとまりがなくなっている。
「やぁ、随分と酷い天気だな」
曇天に白い光が走った。俺は反射的に数を数えようとして、しかし次の瞬間、轟いた雷鳴に遮られ息を飲む。
竜が落ちた。
咆哮は猛く、彷徨はせず、方向は西に。天から地へと真っ逆さまに落ちて、轟音を響き渡らせた。ガラスが慄き、びりびりと震えた。
「どうやら天帝は酷くお怒りのようだ。そうだね、ミニ・クーパーに乗って逃避行と洒落込むのはどうだい?」
雷はその一撃のみ振り落として、もはや一音も発することなく去ってしまった。雨も雷に追従し、取り残された曇り空が情けない表情を浮かべる。
竜が噛み付いたその辺りから、煙が立ち上るのが見えた。不吉な黒い煙。曇天よりなお黒く、なお恐ろしく、地から天へと鎌首をもたげる、それは蟒蛇。奴がとぐろを巻いて大火を吐き散らす、その場所は――
「ねぇ、君、ボクは少々恐れているよ」
――大学だ。
君が何かに、飲み込まれていくようで
「――ぇっ」
自分の声で目が覚めた。
全身が重たい汗で覆われていて、喉は渇きに貼り付いていた。唾を飲むことすらままならず、俺は肩で息をして、ゆっくりと起き上がった。
点けっ放しのテレビの画面に、DVDの再生メニューが映っていて、テーマソングが繰り返し繰り返し歌われている。俺はそれを消した。きちんと見終えたことは覚えている。非常に面白かったし、彼女がこれを、正しい復讐劇、と評したことにも納得がいった。邦題の付け方を間違えている、と酷評したことにも。もっと良い訳が充てられていたら、たぶんもっと流行っていただろうに。それから俺はベランダに出た。星空が広がる下、洗濯物はからからに乾いていた。夜風に当たって冷たくなってはいたが、濡れた様子はまったくない。
俺はそれらを取り込みながら、夢を反芻した。つい先程まで見ていたはずの夢なのに、不思議とほとんど思い出せなかった。洗濯物を取り込まなければ、と思っていた事は覚えている。誰かは分からないが、うちにいるはずのない人がいたことも。全体を通して、愉快とは言い難い夢であったこともなんとなく残っているが、詳細は靄に包まれていてまるで見通せない。
「……変な夢だったなぁ」
それとなく呟いて、借りてきたCDをかける。
強い口調で愛を歌う、その人の声は好きだった。
★
翌朝目が覚めた瞬間、何か忘れている、と思ったのだが、それを思い出すような間は無かった。目下の問題は一限で開始時に出欠を取る再履の英語だ。取れないでいると卒業に差し障る。どうにか滑り込んで教授に懇願し出席を認めてもらい、寝落ちる寸前の朦朧とした頭で九十分間を耐え凌ぐと、俺は大きく伸びをして教室を出たのだった。
外は変わらずの五月晴れで、俺は洗濯物を干してこなかったことを少しだけ後悔する。
二限を前に構内は賑わってきていた。次の授業のために棟の階段を上っていると、後ろから声を掛けられる。
「よお、クモ、はよう」
「はよー」
「お前って教職取ってたっけ?」
「取ってないよー」
「マジか、誰か取ってるやついねぇの。次のレポートガチめに鬼畜でさー」
「大変だねぇ。侑介は、小学校の先生になるんだっけか」
「いや、目指してんのは高校の教員。免許だけは全部取るつもりだけどな」
真っ直ぐ前を向いて言い切った友人に、俺は得も言われぬ不安感を覚える。
「……凄いな。俺はまだ、何になるかなんて考えも出来ないや」
侑介は意外そうな顔で俺の方を見た。
「クモは画家とかになるんじゃねぇの?」
「え?」
「はぁ? お前、まさかマジで考えてねぇの?」
呆れを隠そうともしない声音で、侑介は俺を詰るように言った。
「お前、あれだけのもん描けんのに、プロの道を選択肢にも入れてないとか、それはねぇよ。せめて考えろっての。せっかく上手いんだから―――っつーか、お前の絵、なんかすごく良いのに」
もったいない。と、言われて、俺は何も返せなかった。自分の実力は分かっているつもりであった。結果として手元に残っている以上、分かっているも何も無いだろう。これから更に伸ばしていける自信も、傲慢ながら、持っている。けれど、それが即座に仕事に結び付けられるとは到底思えないのであった。絵に対して真摯な努力はしてきたと思う。暇さえあればずっと筆を握っていたし、鉛筆を動かしてきた。きっと、いや確実に、これからもそうしていくだろう。しかしそれらは、あくまで趣味の延長線上にあって、たとえそれが評価され価値を付けられ気に入られたとしても、仕事になるかと言われたら少し違うような気がしたのだ。絵は俺の生き甲斐だが、生き甲斐と生きる手段とは、別物のように思えるのだ。
では、俺は一体、何になりたいのだろう。