5.五月曇となる前に 後半
四之宮さんはすぐに目を覚まして、呆然と「おまめちゃん……助かったのね……」と呟くと、テントと品物を置いて帰ってしまったのだった。四之宮さんは、普段から大概自由なお人であったから、他の皆は『あぁ、またか』と苦笑するのみだった。それで、さしたる不都合が生じることもなく、今月の分のフリーマーケットを終えた。
あっと言う間に時間は一時になっていて、俺は言われた通りに、喫茶店《Milky Way》の扉を開けた。この喫茶店は、去年の十一月頃、四之宮さん経由で店主の足沢雪人さんという人に頼まれ、家具のすべてに彫刻をした店である。それ以来、ちょくちょく飲みに行っている。大学の近くにも喫茶店はあるが、目玉であるはずのコーヒーが不味い上に、近場なだけあって知り合いが多すぎるため、面倒だなと思う時は、いつもこちらを選んでいた。
Milky Wayは、とても良い店なのは確かだが、言っては悪いけれど、いつも閑散としている。こんな状態でよく経営が続くものだ、と感心してしまうほどに、客がいない。夜になるとお酒も出す、というから、もしかしたらそちらの方で稼いでいるのかもしれないけれど、少し心配になってしまう。心配になるのは、気に入っている証拠であった。
「いらっしゃいませー」仄暗い店内に、足沢さんの鮮やかな金髪はよく目立つ。俺を見るなり、「あぁ、月時か。いらっしゃい」と、改めてそう言った。
「こんっちはーっす」
「お、来た来た。よぉ、さっきぶり!」
カウンターの奥の方に、ジャージ姿の青年が座っていて、俺に向けて片手を上げた。朝見た時も思ったけれど、まるで染めたように明るい茶髪だ。顔立ちは綺麗で、タレントにでもなれそうな雰囲気がある。その彼の向こうにもう一人、別のジャージの青年がいて、つまらなそうな顔でアイスコーヒーを啜っていた。こっちは黒い短髪。だけどやはり、端整な顔立ちで、誰だったか有名な俳優を連想させた。
「何だお前ら、知り合いだったのか?」と、足沢さんが茶髪の青年に聞いた。
「いや、今朝、フリマで会ったんだ。なぁ」
「うん、今朝は本当にありがとう!」
「いーっていーって。ほらほら、座れよ。あ、そだ、学生証。返すな」
青年は早口でそう言って、カウンター上に俺の学生証を放り投げた。それを見てなぜか、足沢さんが彼を睨んだが、彼はまるで気にしていないように微笑み、オレンジジュースを吸い込んだ。グラスの中で涼やかに氷が鳴る。
どうやらここの常連客のようだ、と思いつつ、俺は青年の隣に座って、学生証を財布にしまった。
「月時、何飲む?」
「えーっと、じゃあ、ココアを、アイスで」
「はいよ」
足沢さんがひょいと背を向けて、それに代わって青年が俺の方を向いた。
「俺、木志両祐。あず高の二年。よろしくな。えーと、つきどき、くもり、さん?」
あず高――県立東高校の略称だったろうか。地元勢でないから詳しくはないが、確か進学校の一つであったと思った。それにしても、高校生だったとは。てっきり同い年くらいだと思っていた。俺はへらりと笑った。
「クモとかでいいよ」
「そ、じゃあクモ。早速で悪ぃんだけどさ、朝のあれ、詳しく聞かしてくんね?」
やっぱりそう来たか、と俺は思った。木志くんの目はキラキラと輝いていて、純粋な好奇心に満ち溢れている。俺は自分でも分かるほど情けない顔になって、頭を掻いた。
「あー、やっぱ、気になっちゃう……?」
「そりゃあ気になんだろ! ついさっきまでふつーに走ってた犬が、一瞬で置物になったらさぁ!」
「何それ。どういうこと?」と、低い声で聞いてきたのは、もう一人の青年だ。木志くんと同級生なのだろうと推測できる。
「いや、俺もよく分かってねぇんだけどさぁ、朝さ、森林公園の中から犬が飛び出てきて、轢かれそうになったんだよ。んで、それをギリッギリのところで助けたんだけど」
「轢かれそうになった犬を助けるとか、お前はどこの少女漫画のヒーローだ」
「飼い主が女の子じゃなかったのがガチで残念だっての。んでな、その犬をクモがじっと見てたんだけど、そうしたら一瞬でさ、俺の目の前で、犬が木彫りの置物に変わっちまってさぁ」
「へぇ」
「何か別の人は倒れてっし、わっけわかんねぇ! って思って――で、ここに来てもらったんだ」
「なるほど、拉致ってきたと」
「いや拉致ってねぇし!」
「大変っすね、コイツの好奇心に付き合わされて」
突然、俺に向けて言葉が飛んできたので、驚いて反応が少し遅れてしまった。
「……あっ、いや、何にせよ、お礼はしなきゃなって思ってたから、別に」
「ふぅん」と、彼は無愛想に頷いた。「俺は色峰海人。リョウと同じ学校。よろしく」
「うん、よろしく。木志くんと、色峰くん」
「あ、リョウでいいよー」
「俺も、ウミでいいっすよ」
「分かった」
「若者は仲良くなるのが早くていいなぁ」
足沢さんが、年寄りのようなことをぼやきながら、アイスココアを俺の前に置いた。それから、カウンターの向こうの椅子に腰かけ、頬杖を突いた。
「お、アシューさんが拗ねてる」
「おっさんが拗ねても可愛くねぇな」
「まったくだ」
「うるせぇよてめぇら、叩き出すぞ」
軽快なやり取りに、俺は思わず噴き出した。本当によく来ているらしいと分かるやりとりは、閑古鳥が嘴を突っ込む隙間など与えない。
「で、さぁ、クモ。あれは一体なんだったわけ?」
改めてリョウに尋ねられて、俺は答えに窮した。それで、上手くはぐらかすのでなく、すべてを話してしまおうとしている自分に気が付いたのだった。今朝会ったばかりの人物であるはずなのに、いつの間にか木志両祐という名前は俺の交友関係図の中に違和感なく配置されていた。
「うーん、どこからどう説明したらいいのか……」
アイスココアを一口含む。糖分が体内に染み入ると、ふっと肩から力が抜けたような感じがして、言葉が滑り落ちた。「実はさ、俺、美術品を本物に出来るんだ」
「へ? どゆこと?」
「んーとねー、美術品があって、その傍に作者さんがいる時に、俺が作品と目を合わせちゃうと、作者さんは作品の中に取り込まれちゃって、美術品の世界観が現実に出てきちゃうんだ。ぶわーって。作者さんがいなくても、良い作品は本物に出来るし、俺一人だけなら、普通に、大体いつでも、作品の声とかって聞こえたりするんだよ」
リョウとウミは黙って、互いの顔を見合わせた。それから、
「すっげぇえっ!」
と、リョウが叫んだ。
「なるほど、それで犬が作品に戻ったら、作者も出てきたってわけか! なるほどなぁ、すげぇ能力持ってんだな、クモ!」
すげぇ、すげぇ、と連呼するリョウの向こうで、「やっぱ世界は広いな……面白い」とウミが呟いて、足沢さんまでもが「ほー、そう言う奴もいるんだなぁ」と感心したように言った。
その反応に、なぜか俺は戸惑ってしまった。そこはかとない困惑を胸の内に覚えながら、いやむしろ俺は一体どんな反応が返ってくることを想定していたのだろうかと思い直した。改めて思えば、どうやら俺は、こんな風に受け入れてもらえるとは考えていなかったらしい。第一、先生以外の人にこのことを話したことすら、初めてだったのだ。こんな、これほど簡単に、異質な存在が認められるなんて。嬉しいのか、感動したのか、よく分からなかったが、胃の辺りがふわりと温かくなってきて、俺はゆるゆると笑った。
「あ、じゃあさ、」と、リョウが笑みを収めて俺の方を見た。「もしあの時、俺が間に合わなくって、犬が轢かれちゃってたらさ、作者さんってどうなってたんだ?」
その問いに俺は心臓を掴まれた心地になった。
「……たぶん、死んじゃってた、かな」
「あー、やっぱ? ガチで?」
「うん。先生曰く、作者が入ったままで、作品が外から壊されると、作者さんは心臓発作で死んじゃうんだって」
リョウはぎゅっと顔全体を中心に寄せた。
「うっわ、やっべぇじゃんそれ。俺間に合って良かったー」
「たまにはリョウも役に立つんだな」
「まぁなーってそれどういうことだウミ!」
「他意は無い」
「嘘つけこらっ!」
「なぁ」
足沢さんが、リョウとウミの掛け合いを両断して、カウンターに身を乗り出してきた。
「月時が今言った、先生、っていうのは……その、どっか、病院にでも行ってるのか?」
「いや、行ってないっすよ。先生は、大学の先生で、唯一俺のことを知ってるっていうか、一番最初にこれが出た時、ちょうど居合わせちゃったっていうか、そんな感じで。それ以来、何かと協力してくれるんす」
「へー、そっか。良かったな、学校に味方がいて」
「はい。本当に」
これ以上のことを言うつもりはなく、俺は曖昧に微笑んだ。母さんに聞いた話では、俺は認知されていないので、俺の戸籍に生みの父親の名前は載っておらず、事実の証拠として残っているものは何一つとしてないらしい。それこそ、DNA鑑定でもしない限り。だとしたら、俺が認識を改めないでいれば、先生は先生のままだ。それ以外の何者でもない。どうやらそうらしいと気付いてしまった直後は、つい気になって鎌をかけるような物言いをしてしまったが、どうしてあんなことをしてしまったのだろう。真実が判明したからと言って、何をするつもりもないのに。今思えば不思議である。案外、自分は過激派なのかもしれない。
「なんか、悩んでる?」
突然にリョウがそう言った。気遣わしげな顔が俺の方を向いている。俺は首を傾げた。
「……誰が?」
「クモが」
「俺が? そんな風に見えた?」
「うん、見えた。俺さぁ、そういうのすぐに分かっちゃうんだよねー。隠し事とかさ。アシューさんなんか特に、すっげぇ分かりやすいんだけど、クモも隠すの下手だろ?」
図星であった。「分かりやすい、とはよく言われるけど」
「やっぱな。だと思った」へへっ、とリョウは不遜に笑って、「ま、あんまし溜め込みすぎねぇ方がいいと思うぜ。ヒトには話しにくいってこともあるだろうけどさぁ、そういうのって、溜めるだけ無駄だぞ。ためていいのは金と運だけ、悩みとクソはとっとと出せ、ってな!」
「おい」ウミが尖った声を出した。「悩みとクソを同列に並べんなよ」
「だって似たようなもんじゃん」
「良い話かと思って聞いてた俺が馬鹿だった……」
俺は大いに笑った。彼らはなかなかに良いバランス感覚を持った二人組である。
「んで、」不意に、リョウの矛先は足沢さんへと向けられた。「アシューさんは何を悩んでんの?」
「はぁ? ……別に、悩んでなんか」
「いーや、悩んでんね。俺には分かる。話そっかなー、どうしよっかなーって顔してっから」
足沢さんは、ぐむむと唸ると腕を組んで、足を組み替えた。それから、何かを言いたいのだが、どうしても言葉が音にならないのだというように、口をパクパクと動かした。何だったのだろう、と俺は首を傾げたのだが、尋ねるより先に足沢さんの言葉は音に変わった。
「知り合いの古美術商から、画家を紹介してくれって頼まれてんだ。この間、鬼門組って呼ばれてる連中が盗んだ〈五月革命〉っていう絵、あるだろ。呪いの絵だって噂の。あれが返ってくることになったから、お祓いした後に、誰かに別の絵で上書きしてほしいんだってさ」
「え、呪いの絵とかって、普通焼いたりすんじゃねぇの?」と、リョウ。
「あぁ、言われてみれば……まぁ、キャンバス生地って燃えにくいし、一応商品だった物だから、抵抗があるんじゃねぇの? よく知らねぇけど」足沢さんはいかにも興味無さそうに肩を竦めて、ふと俺に向き直った。「で、だ。やる気はないか? 月時」
俺は口に含んでいたココアを慌てて飲み込んだ。
「………えっ、俺っすか?」
「あぁ、ぜひお前に頼みたい」
「でも俺、まだ学生ですし……」
「その方が良いんだよ。安く済むから」
こういうことをはっきり告げるところは足沢さんの美徳であると思う。余計な気遣いや遠慮を一切しなくて済むから、気が楽で良い。
「確か月時、油絵が専門だったよな? 上手いけど学生だから安い、ってのが、頼む方としては非常に助かるんだよ。報酬は先方が提示することになるから、いくらになるか分かんねぇけど、下手な日雇いよかずっと良い稼ぎになるはずだぜ。な、引き受けてくれないか?」
「良いっすよ。俺なんかで良ければ、喜んでお引き受けします」
躊躇いなく、俺は頷いた。
足元がふわふわしていた。俺はそれを自覚していて、ついつい出てしまいそうになる鼻歌やらスキップやらを抑えて、公園の中をゆっくりと歩いていた。
朝の一件は本当に驚いたし、肝を冷やしたけれど、リョウが好い人で本当に良かった。リョウの友達のウミも、好い人だった。また会いたいと思えたのだから、たぶん、良い友達になれる。―――俺の『目』についても、すっかり話してしまったことだし。
秘密というものは、関わる人間が少ないほど重たくなるのだ、と何かの本で読んだのを思い出した。その通りであった。先生と二人だけで共有していた俺の秘密は、今日一日で随分と軽くなってしまった。ばれないように大事に抱え持っていたのが、馬鹿らしく思えるほど。
だからと言って、誰彼構わず言いふらすつもりはまったく無いのだが。
また、軽くなったことに少し寂しさを感じてしまったのも、確かである。
(先生しか知らなかったのにな……)
秘密に秘密を重ねて、雪だるまのように重たくして、勝手に息苦しさを感じていたこれまでの時間が、嫌いだったとは言えない。秘密は結束を強くする、とも言う。
(もしかして俺は、先生を独り占めしたかったのかな)
―――それか、先生に独り占めされたかったのかな。
などと思って、俺は顔をしかめた。身勝手な話だ。誰かにとっての特別になりたい、とは思うけれども、自分だけの一方的な願いで、人の意思を縛るのはご法度だ。
(……そっか、だからかな。あんな風に、鎌かけたの)
一方的ではなく、相互反応として。先生がその意思を、自分から俺の方へ傾けてくれるように、仕向けたのかもしれない。
事実を確かめよう、と思ったのが最初だった。母から聞いた事実から、先生が俺の産みの親であるとは、ほぼ確信出来ていたけれど。真正面から『俺を産ませたのはあなたですか?』などとは聞けなかったから、過去の話をして、反応を窺おうと思ったのだ。それで、それが本当なら本当で、違うなら違うで、新しい秘密を共有したかったのだ。友人には話しにくい、自分には隠されていた二人目の親がいる、なんて話を、先生にならしても大丈夫だと、そう確信していたから。
どんな反応が返ってくることを期待していたのか、願っていたのか、など覚えていない。
けれど、現実に先生がした反応は、酷く怯えていたように見えた。
(緑川さんとの間に、何かあったのかな……)
もしかして、俺がいることで先生が苦痛を感じるような、そんな過去があるのならば。そんな秘密を抱えているのだとしたら。
(知りたい。教えてほしい。―――力に、なりたい)
俺に一体何ができるのだろう。まったく見当は付かないが、とにかく今まで助けてもらった分のほんの少しだけでもいい、恩返しがしたい。先生の教え子として、助けになることをしたい。
心からそう思って、手始めに俺は携帯を取り出した。
「―――……もしもし、母さん? 俺だよ、曇だけど。―――ちょっと、聞きたいことがあって……―――うん、緑川皐月さんについて。突然ごめんね。覚えてるだけでいいんだけど、教えてくれないかな。頼むよ―――」
俺は木陰のベンチに腰掛けて、空を仰いだ。
折り重なった葉の向こう、初夏の突き抜けるような青空に、雲は一欠片も無い。けれど、大きく吸い込んだ空気には、ほのかに湿り気が混ざっていて、そういえばもうすぐ六月になるなと思い至った。
美しい空を眺めながら、おっとりとした母親の声を聞いていたら、ふと、あの絵の中で尋ねられたことを思い出した。
〈これで、私は歩いていけるわ。―――あなたは、どう?〉
「……どうだろうね」
たぶん、この一件が片付くまで、俺は歩いてなどいけない。
『あら、なにが?』
「あ、いや、何でもないよ。こっちの話。それで?」
『これくらいよー、私が知っているのは。皐月さんのお葬式には行ったけれども、ねぇ。あら、そういえば、最近文代さんと連絡取ってないわー。お元気かしら』
「ふみよさん? って?」
『皐月さんのお母さんよー。曇くんのことも知っていてね、時々、写真を送ったりしていたもの』
「え、いつの間にそんなこと」
『うふふ、だって、そんなことあなたが知っても仕方がないじゃない』
「うーん、まぁ、そうだけど……あ、その文代さんに聞けば、もっと詳しく分かるかな?」
『そうねー、分かるんじゃないかしら。連絡先が欲しいならあげるけれどー』
「欲しい! ちょうだい!」
『いいわよー、それじゃあ、今度送るわね』寸の間、沈黙が気遣いの音を立てて『――でも、曇くん? どうして突然、調べ始めたりしたの? 気になるのは分かるんだけれど……何か、あった?』
聞かれるとは思っていた。本当に、母親という存在は漏れなく鋭い勘を備えている。だから、俺はあらかじめ用意しておいた答えを返した。
「別に。ただ、二十歳になるまでに、片を付けたいなって思っただけだよ」
決して嘘ではない。黙っていることは多いけれど、嘘は何一つ言っていない。誕生日まであと十日。それまでに、きちんと自分を理解しておきたいと思うのは、ごく自然な気持ちだ。ただ、思い付いた順番が逆なだけで。
母は、まるですべてを理解しているように、『そぉ、ならいいけれど。……気を付けてね、曇くん』と言った。