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4.五月曇となる前に 前半

 

「んっ……ん~――――……はぁっ!」

 俺は大きく伸びをして、思い切り息を吐いた。カーテンと窓を開け放つと、見渡す限りの良い天気。これぞまさに、五月晴れというやつか。アパートの目の前の森林公園から、清々しい風が吹き込んでくる。俺はもう一度伸びをした。ついでに欠伸も。

 五月二十一日第三土曜日、今日は絶好のフリマ日和だ。

 適当な服に着替えて、適当な食事を摂って、俺はアパートを出た。

 ここへ越してきた当初、定期的にフリーマーケットが行われていることはすぐに気が付いたが、俺が参加するようになったのは去年の十月頃のことである。出店していた地元の工房の方に頼み込んで、半ば無理矢理仲間に入れてもらったのが始まりだ。それからというもの、週一ぐらいの頻度で工房へ行っては、好き勝手に彫刻をしたり製作をしたりして、完成品は工房の他の人の作品と一緒に運んできてもらっている。まさに至れり尽くせりというやつだ。本当にありがたい。

 森林公園は案外広く、整備された散歩道が曲がりくねって続くエリアと、いくつもの遊具が置かれたエリアと、ただ芝生だけが広がっているエリアがある。フリーマーケットは芝生のエリアで行われていて、俺がそこに着くと、すでに複数のテントが建っていた。

 その中でも最も目立つ、蛍光ピンクのテントに駆け寄る。

「おはようございます、四之宮(しのみや)さんっ……」テントを覗き込んで、俺はつい固まってしまった。そこには確かに、木材工房《リンカーネイション》の経営者、四之宮綴木(つづき)さんがいたのだが、少々常軌を逸した体勢で鎮座なさっていた。詳細に述べると、片胡坐をかき、股座に覆い被さる形で顔を埋めていたのだ。どこからどう見ても、明らかに、落ち込んでいる人間の姿だった。

「あのー、四之宮さーん。どうしたんすか?」

 冬眠中の熊のように丸まった大きな背中を、何度か揺さぶると、ようやく反応らしい反応が返ってきた。

「………あ、あら、曇くん……おはよう、良い朝ねぇ……」と、ゆっくり上体を起こした四之宮さんの顔は、すっかり泣き腫らした目で、乾いた笑みを浮かべていた。「うふふふ……本っ当に、良い朝……はぁ……」

「何かあったんすか?」

 尋ねると、四之宮さんは盛大に鼻を啜って、「聞いてくれる曇くんっ?」と詰め寄ってきた。「あたしっ……あたしの、可愛い可愛いおまめちゃんが……」

 おまめちゃん、というのは、四之宮さんが飼っている柴犬の名前である。俺が四之宮さんと知り合った時点ですでに飼っていて、知り合いから捨て犬を貰ったのだけれど可愛いでしょう、可愛いでしょうっ? と何度も何度も聞かされていた。フリーマーケットにも毎回連れて来ていて―――ここで、俺ははたと気が付いた。そういえば、今日はいない。

 四之宮さんは顔をくしゃくしゃにして、涙ぐみ、言った。

「おっ、おまっ、おまめちゃんが……じっ、事故に遭って……」

「えっ?」息が止まった。「……事故?」

「そうっ、そうなのよっ、うわっ、わぁああああああああっ!」

 俺の足にしがみついて泣き崩れる四之宮さんに、俺は何も言えなかった。この世の至宝と豪語して、子どものように可愛がっていたのを間近に見ていて、何を言えるはずもなかろう。俺自身、衝撃を受けていた。ころころと転がるように駆けてきては、足元に纏わりついてくる、毛玉のように愛らしかった柴犬が、事故に遭っただなんて。

 ふ、と、テントの隅に、おまめが見えた気がして、反射的にそちらを向いた。

 置物だった。木彫りの柴犬。四之宮さんの手の物だと、一目で分かった。大方、事故に遭った直後に彫ったのだろう。全体を見ると荒い造りだったが、体つきや座り方などは本物そっくりだった。触れたら毛の柔らかさと温もりが感じられそうなほど、どこまでも優しく表現されている。ぺたんと折れた耳。歯の隙間から覗く小さな舌。瞳は丸々と、一途な輝きに満ちていた。

 その瞬間、犬が瞬きをした。

 目が合った。

 電流が脳髄を走った。視界が狭まって、世界が暗がりに落ちた。黒と白と灰色の光が、互い違いに点滅しては、俺の目線をいたずらに引っ掻き回す。蝿が耳元を掠め飛ぶ時のように、細い金属音が鼓膜に引っ付いて離れない。脳味噌が雑巾になったようだ。力を込めて絞られるほどに、四肢の感覚が徐々に薄らいでいって―――

「わんっ!」

 ――鳴き声にはたと気が付くと、足元から四之宮さんの姿が消えていて、一匹の柴犬が思い切り尻尾を振っていたのだった。

「あっ……やばい」

 俺は、自分の顔から血の気が引いていくのを自覚した。しまった、やってしまった。こんなところで、先生もいないのに、美術品を現実化させてしまうだなんて。これだから俺はいつまでたっても、自覚が足りないと怒られるのだ。

 とにかく困った。どうにかして元に戻さなければ、大事になってしまう前に。俺は静かに深呼吸をして、おもむろにしゃがみ込むと、笑みを浮かべた。

「お、おいで~。ほらほら、おいでー」

 犬はしばらく俺を見詰めていた。

 が、突然、何かに呼ばれたように全身をぴんとさせると、「わん!」と一声鳴くなり、ぱっと俺に尻尾を向けて走り出した。

「えっ、ちょっ……待って!」


 そもそも、人間は犬に追いつけるほどの脚力を有していない。俺のような運動音痴となれば尚更、差は開く一方である。ふわふわの尻尾が楽しそうに上下しては、森林公園を袖にして、どこをも目指さず駆けていく。終わりの見えない鬼ごっこ、それも異種族が相手となれば、絶望を覚えても仕方のないことだろう。けれど俺には、勝負を下りる権利など無い。万一車道に出てしまって、車に轢かれでもしたら、大変だ――

 ――俺はひやりとした。以前、本当にだいぶ前のことだ、先生がこう言っていたのを思い出したのだ。

『作者が取り込まれた状態で、作品が外から壊されると、その作者は死んでしまう』

 四之宮さんが、死んでしまう――俺の所為で。

「っ……」冷や汗が噴き出してきて、咄嗟に俺は叫んだ。「止まって!」

 公園の出口が見えた。犬は止まる気配を毛ほども見せない。この先は車道だ。それほど交通量は多くなかったはずだ、と保険を掛けるように記憶が囁く。ところが視界の端には車の姿が映ったのだ。なんという不幸だろうか。このまま行ってしまえば、餌食となるのは確実だろう――タイムラグをほとんど生むことなく死を刻む、ある種死神じみた金属の塊の。

「待って、待ってってば、ちょっと!」

 風が吹いて葉擦れの音が、まるで俺を絡め取るように。己の鈍足をここまで恨むことがかつてあっただろうか。車道を挟んだ向こう側に人影が見えた。その人に用があるかの如く、無邪気な犬は勇猛に鳴いて、最後の階段を下り、死地へと飛び込んでいく。小さな体が赤を纏って宙を舞う、最悪の想像が脳裏をよぎって、俺はそれを振り払うために声を振り絞った。

「お願い、止まってっ! 止まれぇっ!」

 間に合わない。恐怖と諦めが俺の目を閉ざした。金属が擦れる甲高い音が響き渡り、やがて消える。事故による衝突音は、想像よりかずっと小さいものであるらしく、まったく聞こえなかった。

 俺は立ち止まった。心臓が爆音を立てているのは、体力にそぐわぬ全力疾走の所為だろう。それと恐怖だ。明確に一つに絞れないほど、何もかもが恐ろしかった。しかし、いつまでも瞑目していて、それで済むことなどこの世には無いのだから、遂に俺は意を決して、恐る恐る目を開けた。

 車が少し右手側で停車していた。不吉な赤色はどこにも見えない。「いっ………でぇぇぇええええっ」という呻き声が、脈絡なく階段下から聞こえてきて、俺は視線を落とした。男性が一人、横向きに倒れている―――その腕の中には柴犬が。

 心臓がひときわ大きな音を鳴らして、冷え切っていた血流が熱を思い出した。高揚と安堵と歓喜と、色々な、しかし総じて正の感情が、綯交ぜになって体温を上げていく。俺は泣きそうになるのを堪えて、階段を駆け下りた。

「大丈夫ですかっ?」

 その若い――同い年くらいだろう――男性は、ゆっくりと上体を起こした。

「大丈夫っすよ。はい、犬」

「あっ、ありがとうございます……!」

 丁寧な仕草で差し出された犬を受け取って、俺は思わず呟いた。「勘弁してくださいよ、本当にもう……!」

 俺の目と鼻の先で小刻みに息を吐く小さな柴犬は、確かに体温を持っていて、生命を持っていた。四之宮さんの命を糧に、この犬は息をしている。

 目が合った。

 つぶらな瞳がこちらをじっと見ていたので、俺もそれを見返した。光を照り返す黒。ビー玉のような光沢の中に、俺の顔が映って、俺は俺の目を見る。合わせ鏡の無限ループと同じ現象だ。やがて、俺が今見ているのは犬の目なのか、自分の目なのか、判別が付かなくなった頃、意識がふっと遠退く感覚がやってきた。お前が深淵を覗き込む時、深淵もまたお前を見返すのだ、という有名な言葉を思い出す。俺は今、人間から放れている――

 不意に、すぅと色が戻ってきた。手の中に木の重みと、独特――少なくとも生物的ではない――温度がある。足元に四之宮さんが倒れていて、俺はその姿に安心した。これですべてが元通りである。

 俺は犬の置物を手に立ち上がって、その瞬間大いによろめいた。咄嗟に何かを掴んで体を支えていたのだが、刹那の後にぐらつきが去ると、それが人間の腕であったことに気が付いて、慌てて体勢を整えた。

「っと、すみません」

「いや……――」

 高校生らしき男性は、呆けた表情で俺を見て、言った。

「――それより、今のは……?」

 胃の辺りがひゅっと縮こまったような感触がした。

「えっ、嘘っ、まさか、今の……見ちゃ、ってた?」

「あー、まぁ、バッチリ」

 困ったような薄笑いを浮かべながらもはっきりと肯定した彼を前に、俺は俯いた。思わず、息の中に「しまったぁ……」という音が混ざる。一体全体どうしたものか。出来るだけヒトには言うなと先生に言われているし、俺自身もそうするべきだと思っている。しかし、直に目撃されて誤魔化そうなど不可能極まりない。本当に迂闊だった。

 俺は唾を飲んで、頭を上げた。それで、一息に言い切る。

「助けてくれてありがとうございました。でも、どうかこのことは忘れてください。それじゃあ」

「待った」

 上手く押し切って立ち去ろうと画策していたのだが、あっさり腕を掴まれて阻まれた。

「な、なに……?」

「死にかけてまで助けたんだから、お礼があって当然っしょ?」

「それは……うん、そうだね」

 当然の理論だったので、俺は素直に頷いた。すると、彼はにっこりと笑って、

「安心しろよ、そんな大層なモン要求する気はないからさ。ここから少し行ったところに、Milky Wayっていう喫茶店があんの、知ってる?」

「あっ、うん、知ってる!」

「んじゃ、そこでちょっと奢ってよ。俺今から部活あるから、そうだなぁ、午後の一時にそこ集合で。すっぽかすなよ、月時さん」

「へっ?」

 名乗った覚えの無い名で呼ばれ、俺は驚いた。さらに驚いたことに、彼は俺の学生証をその手に掲げていたのだ。財布の中に入れておいたはずの学生証が、一体どうして彼の手の中にあるのだろう。

 開いた口が塞がらないでいる俺を放って、彼は満面の笑みを浮かべたまま、素早く自転車を起こすと、あっという間に通りの向こうへ消えてしまった。

 

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