表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/16

3.《雨でもなく、晴れでもなく》 前半

 

「私は曇り空が一番好き」

 と、彼女は言った。

「変化の無いようで、塞ぎ込んでいるようで、本当はどの空よりも表情豊かな、優しい色が好き。時折、ほら、何て言ったかしら、天使の階段? ああいうのも出るでしょう。雲の流れが速い時もあるし、真っ白い時もあれば真っ黒の時もあって、グラデーションになっている時もある。入道雲、鰯雲、飛行機雲、空に表情を付けるのはいつだって雲なのよ。だから私は、曇りの日が一番好きなの」

 実に変わっている女だった。


 二十年も前の話である。

 俺はとある田舎の総合大学で、教育学部の社会学科にいた。歴史好きが高じて教職でも取ろうかとしていたのだった。大学は山の上にあって、構内はほぼすべて坂と階段で構成されていた。坂と、木と、竹藪と、あとは教室。大学の周囲には、学生を目当てとした粗雑な料理屋が軒を連ねていたが、それも極めて数少なく、退屈な環境だった。

 当時俺には、その退屈な日々を補う恋人がいた。緑川(みどりかわ)皐月(さつき)という、芸術学部美術専攻、油絵コースの女。学内の美術展で出会い、妙に馬が合ったので、自然に付き合う流れとなった。可愛いが変人、というのが周囲の大まかな評価であったが、その彼女に惹かれた以上、自分もまた変人ということに他ならないのだろう。

 彼女の絵は、非常に上手かった。上手かったが、学科内やコンクールなどでは常に二位くらいの、ある種無難な絵でもあった。職とするには一味足りないが、趣味で収めるには少し惜しい、という微妙な境界線上。けれど、彼女自身は絵を職としたがっていて、一時も鍛練を怠らなかったから、あのまま生きていればやがて夢を現実としていたかもしれない。そういう実直で、勤勉なところが、ごく稀に俺の癇にさわることがあった―――早々に夢を諦めてしまったことを、愚かな選択だったと思わされて。努力を知らない奴だ、と、嘲笑されているようで。

 有り体に言えば、嫉妬していたのだ。彼女の才能と、生き方に。

 ずっと、俺も、絵を描いていた。小さい頃から絵画教室に通って、中高と美術部に入って、何度もコンクールに挑戦したし、何度も賞を貰った。しかし、年を重ねるごとにだんだんと落選するようになって、大学に入る頃には絵を描くこと自体が面倒になってしまった。今なら分かる。俺は要領が良い。センスがある。器用だ。そして、努力が嫌いだ。なんでもそつなくこなす代わりに、何かを突き詰めることが出来ない。そういう人種なのだと悟るのは、大学を卒業する頃だった。悟るに至らぬ内は、諦めることも出来ず、自分を変えることも出来ず、見苦しく嫉妬しては当たり散らすような、そんな人間だったと思い返す。


「ねぇ、久森(ひさもり)くん、どうしよう」

 と、彼女は泣きそうな声で言った。

「最近何だか、変な声が聞こえるの。自分の描いた絵から聞こえるってことは今までもあったんだけど、最近、他人の絵からも聞こえるの。幻聴だと思うわ。たぶん、私の頭がおかしくなっちゃったの。でも、本当に、どうしよう。なんだか凄く怖いの」

 実に変わっている女だった。


 その頃、俺は彼女に頼まれて、彼女をモデルに絵を描いていた。彼女の下宿先は、大学からは遠いが広く、隙間風が酷いが安いアパートだった。彼女自身が改造したのだろう。部屋全体はアトリエのようになっていて、俺はそこへちょくちょく通っては、少しずつ彼女を描いていった。

 椅子に座って微笑む彼女。シンプルで、何のひねりもない構図の油絵。

 久々に描く絵は思っていたより楽しくて、思っていたほど腕も落ちていなかった。落ちるほどの腕など無かったのだ、と自分で自分を貶めつつ、それでもこの一枚だけは描き切ろうと決心していた。

 徐々に完成に近づいていく絵を見ながら、彼女は執拗に俺を褒めた。褒められて、嬉しくなるか、怒るかは、俺のその時の気分次第だった。どうしようもなく苛立った時は、パレットを彼女に叩き付けて出ていったりした。直接手を上げたりすることもあった。それでも、俺は描くのをやめなかったし、彼女もやめろとは言わなかった。一緒に出掛けて、一緒に寝て、一緒に絵を描いて、一方的に殴って―――不可思議な関係だったと今でも思う。自分を痛めつけるために絵を描きに行く俺。俺に痛めつけられても笑っていた彼女。変人同士の奇妙な傷の付け合い。

 この時すでに、呪いは始まっていたのだろうか。


「彫刻が突然動き出したの」

 と、彼女は無表情で言った。

「この間の神隠し事件、知っているでしょう? あれが起きた時、私が傍にいたの。私が、あの子の創った彫刻を見ていたら、突然、目が合ったような感じがして。気が付いたら、あの子はいなくなっていて、彫刻が動いていたの。小さな兎の彫刻。あっという間に窓から外に飛び出して行ってしまって、私は何も出来なかった。きっと、すべて私の所為なんだろうな。作者さんはたぶん、今もまだ、あの彫刻の中にいる」

 実に変わっている女だった。


 あの兎はどうなったのだったか……そうだ、思い出した。アーチェリー部の射場に入り込んだ挙句、矢に当たって死んだのだ。彫刻に“死んだ”という表現を使っていいのかどうかは分からないが、兎に角、矢に当たったのだ。俺はその話を、アーチェリー部にいた友人から聞いたのだった。七十メートル先の的を狙って、外して、外れた矢を探しに行ったら、木彫りの兎に刺さっていたらしい。

 そして、その兎の横に、制作者が倒れていたのだ。

 外傷は一切なく、死因は心臓発作だったと伝え聞いた。警察も入ったが、事件は度を超えた奇妙さゆえに、公にはならず、学生たちの会話をしばし盛り上げる格好のネタとなるだけだった。アーチェリー部の友人は、ノイローゼになってしばらく休学した。

 皐月は、その話に、こちらが嫌になるほど怯えた。私の所為だ、と繰り返し繰り返し呟いて、嘔吐し、泣いた。そうこうしながら、三年の冬、年が変わるか変わらないかという頃から、大学を休むようになった。俺の電話にも応えなくなった。

 神隠し事件は他にも二件ほど起きていたらしい。すべて芸術科内で起きたことだった。そして、それらすべてに、皐月が関わっていた。

 ―――潮時なのだろうと思った。このまま自然消滅してしまえば、それですべてが済む。俺は解放される。何が済むのか、何から解放されるのか、よく分かっていなかったが、それでもそう直感したのだ。そしてたぶん、それは正しかったのだ。直感に逆らって、今ここにいる俺には、正解がもう一方の道であったと断言できる。

 彼女が休み始めてから半年と二カ月後。ちょうど夏休みだったと思う。何を思ったか、俺は彼女のアパートを訪ねたのだった。彼女に会いたかったからか、と言われたら、完全に否定はできない。けれど俺は、自分の絵を引き取りに行かねばならない、ということを義務に据えて、別れた女のことなどどうでもいいのだが、などと言いつつ行ったのだった。

 部屋の鍵は開いていた。

 インターホンを鳴らしても出てこなかったものだから、勝手に開けて中に入った。

 誰もいなかった。アトリエがいつもの顔で俺を迎え入れたが、俺は少しだけ違和感を得た。半年前と比べて、少し物が減っているように見えたのだ。こまごまとしたものや、大量の画材などが、雑多に置かれていた部屋が、全体的にすっきりとしていた。俺の描きかけの絵も無かった。

 名を呼びながら部屋を見回したが、反応は返ってこなかった。常日頃からぼーっとしているような変人とはいえ、鍵もかけずに外へ出ることなど無いはずだ。俺はまず寝室のドアを開けた。寝ているのではないかと思ったからだ。いなかった。ベッドは綺麗に整えられていた。それなりに広いアパートであるとはいえ、部屋数はそれほどない。あと見ていないのは浴室くらいだ。

 浴室の前まで行って、俺は動きを止めた。浴室の扉は全面すりガラスとなっていて、室内がおぼろげながら見えた。ガラスの向こう側の床の上に、立体的な長い影があった。大きさ的には人間一人ほどだろうか。

 人が倒れている、と認識し、それが皐月である、と確信するのにそう時間はかからなかった。俺の頭の中は真っ白になって、ドアを開けようだとか、救急車を呼ぼうだとか、そういう考えにはついぞ至らなかったのだった。俺の足元に白い封筒が置かれているのを見つけて、反射的に、彼女が自殺に及んだのだと察する。どうしようか、と考えた覚えはない。混乱していたのだと、その一言で済ませてしまう気もない。要するに、ただ、俺は、関わり合いになりたくなかったのだろうと思う。

 ――半年前から関係を断っているのだ、彼女に付けた傷や痣などすっかり消えているはずである。そうなれば、俺が自殺に関与したと思われる可能性は低いはずだ。もしかすると遺書に俺の名が書かれているかもしれないが、それでも、半年前の話だ。ここで遺書を持ち去った方がよっぽど疑わしい行いと見なされるだろう。何もせず立ち去るのが一番の保身の方法だ――

 俺は踵を返した。


『ごめんなさい』

 と、彼女は書いた。

『疲れてしまったの。本当にごめんなさい。描きかけの絵は、画材と一緒に送っておきます。これが届いた頃には、私はもうこの世にいないでしょう。もし良かったら、完成させてください。あなたの絵の中で生きていけるならば、私はそれで満足です。それから、ずっと秘密にしていたけれど、あなたの子どもを産みました。言わなかったのは、関わらないでほしかったからです。子どもには、私とも、あなたとも、切り離された環境で、幸せに生きてほしいと思ったからです。勝手な真似をして本当にごめんなさい。どうか、縛られることなく、この先を楽しんでください。 緑川皐月』

 実に変わっている女だった。


 変人で身勝手でわがままで、俺が好きになった女だった。


 手紙と一緒に届いた荷物は、書いてあった通り、描きかけの絵と画材一式だった。

 俺は、キャンバスの中で微笑む彼女を見詰め―――まず、最初に、それを塗り潰した。完全にすべてを塗り潰して、白紙に戻してしまってから、まったく違う構図のものを、改めて描き始めた。不思議なことに、驚くほどすらすらと描けた。起きて、描いて、街を徘徊して、描いて、酒を飲んで、また描いて、眠って、と、リズムなど無視した生活を繰り返した。皐月に取り憑かれていたのかもしれない。これも、呪いの一部だったのだろうか。

 それにしてもおかしな話である。関わらないのが一番だと結論付けておきながら、まだ彼女の願いを叶えるために動いているだなんて。死人に口なし。たとえ俺がこの絵を描かずに、手紙ごと焼き払ってしまったとしても、何も言われないだろうに。むしろ、そうしてしまった方が良かったのだと、今ならそう思うのだが。

 ただひたすらに描きながら、俺はとりとめもなく考え続けた。当時は色々考えることがたくさんあったはずなのだが、今思い返してみると、何を考えていたのかまったく思い出せなかった。あるいは、考えているつもりだったが、実は何も考えていなかったのかもしれない。

 すっかり描き上がってしまうと、俺はそれに〈五月革命〉という何の意味も持たない題を付けて、適当に梱包し、皐月の住所に送った。これですべてに片が付いた。皐月の願いは叶えられた。もう俺を呪う理由もないはずだ。

 やるべきことが終わってしまうと、俺は一気に暇になった。晩夏の暑さに舌を出しながら、ジャージとTシャツと下駄で、意味もなく街を徘徊した。そうしながら、これから先をどうしようかと考えていた。教員免許は取れたが、試験には落ちた。非常勤講師としての働き口を探すか、それとも、一般就職をするか……。

 ふと、死にかけの蝉が路上でのたうち回っているのを見つけた。死にかけの蝉。死にかけの―――その姿を見ていたら、不意に、禍々しい映像が脳裏に浮かんだ。

 これは―――そうだ、これは、彼女の家でガラス越しに見たものだ。

 そうだった、何故忘れていたのだろう。何故何も思わなかったのだろう。

 あの時、ガラスの向こうで、黒い影が、ゆったりと動いたのだ。おそらく手であろう影が、小刻みに震えて、こちらに伸ばされた。手は、ペタリ、と、ガラスに張り付いて、すぐに力を失い落ちて行ったのだった。

 ――あの時、皐月はまだ生きていたのだろうか。

 不吉な考えを振り飛ばすように、俺は走って家に帰った。貰った画材をすべて捨てて、安酒を呷って、布団に潜り込んだ。いろんな不安が綯交ぜになって、俺の頭はどうにかなってしまいそうだった。


「久森くんには、教師ってすごく似合っていると思うわ」

 と、彼女は無邪気に言った。

「教えるの上手だし、話も面白いし、人を見る目あるし、きっと先生が天職なんじゃないかなって、私は思うよ。でも、あえて言うなら、中学とか高校の先生っていうより、大学の教授の方が合っているような気がするな。どう? 大学教授。かっこいいよ。美術史の先生とか、すごく向いていると思うけど」

 彼女の、そのすべてを見通しているような目が、俺は嫌いだった。


 彼女の言葉を思い出した。俺の誕生日に、サーベル型のペーパーナイフと一緒に、贈られた言葉だった。中学高校の先生より、大学教授の方が似合う。だって、子どもの相手をするのは疲れるでしょう? 最初は良いけど、途中で投げ出したくなるでしょう? 自己責任だ、と突き放せるくらいの年齢でないと、まともに授業も出来ないでしょう? あぁ、その通りだ。

 俺はどうしようもなく苛立って、枕を壁に叩き付けた。縛られずに生きてほしい、と書いておきながら、あいつの言葉は執拗に俺に纏わりついてきて、俺の人生を縛っているじゃないか。結局、俺はあいつに縛られたまま、言われた通りに絵を描いて、言われた通りに人生を選択するのだ。

 けれど、この先には、もうあいつはいない。

 これ以上、新たな鎖が掛けられるということは無いのだ。

 死者の影は、過去の壁に貼り付いて、二度と動きはしない。こうなったら、どんなに重たい足枷だろうと、無理にでも引きずって歩いて、振り返っても壁など見えないほど向こうにまで、行ってみせる。死者の影など届かぬ果てまで、行きついてみせる。

 それが、生きている者の特権だ。

 死人に口なし。もう、呪いの文句は言わせない。


   ★


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ