15.番外編2:五月曇となる前に 鬼門組
木志両祐には、ヒトに知られていない幾つかの面があって、地元のフリーマーケットを好むのもその内の一つだった。
(追試の時は全然起きれねぇのに、こういう時は起きれんだよなぁ、不思議なことだ)
まだ涼やかな朝の風を全身に纏って、両祐は軽快に自転車を走らせていた。通学路の途中を、喫茶店とは逆の方向に曲がり、森林公園を目指す。お目当ては、毎月第三土曜日に行われるフリーマーケットだ。活気に満ちたフリマの朝は早く、やる気のない部活のスタートは遅い。部活が始まる前に、露店を一通りひやかして、それから学校へ行くのが恒例となっていた。
しかし、なぜ蚤の市が好きなのか、と問われると、両祐は途端に言葉を詰まらせてしまうのであった。強いて言うなら、その空気感だろうか。商売をする人、製作をした人、いろんな人々の呼吸が、この小さな市場に凝縮されて、穏やかに脈打っている感じ。
両祐は、生まれつき人の呼吸を読むことに長けている。リラックスしているか緊張しているか、警戒しているか油断しているか、或いは、悪い人間か良い人間か、自分と気が合うか合わないか、呼吸一つですべてを読み取ることが出来る。呼吸で、というよりは、その人間の纏う空気で、と言うべきかもしれない。両祐自身も感覚のみで捉えているため、これ以上の詳しい説明はしようがない。
とにかく、こういう鋭い感覚を持った野生動物のごとき両祐によれば、骨董品市の空気は重たくて、あまり好きにはなれないのだそうだ。古本市など更に独特で、生来の活字嫌いとも相まってか、息苦しいとしか感じなかった。その点フリーマーケットは、全体的に明るく、軽く、和気藹々としている。空気を吸って心地好い、と思える場所などそうそう無いから――ましてや、あのようなバイトをしていると特に――有り難い。
(この間んのは楽だったなー……楽すぎて、つまんねぇくらいに)
両祐は自転車から降りて、押し歩きながら思った。両祐が昨年、高校生になるとほぼ同時で、『鬼門組』とあだ名される怪盗コンビの片割れとなったことに、大きな理由は無い。両祐はただ、相棒――色峰海人に乗っかっただけなのである。本当は、一度だけ協力してそれきりにしようと思っていたのだが、そのたった一度で虜になってしまった――非日常に生き、犯行を達成するスリルの。こうなってしまった今となっては、最後まで――海人が金儲けの裏に隠した、本当の目的を果たすまで――付き合おう、と決意していた。
『犯行に及んで、罪悪感より先に興奮を覚えたなら、お前らは本物の犯罪者だ』
初めての窃盗の後、足沢が苦笑しながら言ったのを、よく覚えている。――それに対し、海人が仏頂面でこう呟いたことも。
『だとしたら、この世は犯罪者だらけだな』
海人は色々と難しく考えすぎなんだよ、と両祐は常々思っていた。俺みたいな単純馬鹿には全然理解できねぇよ、もっと楽に生きればいいのにな。
車道を挟んだ向こう側で、フリマは既に始まっている。朝とはいえ、通勤ラッシュを終えた時刻の道に車は少なく、遠くから柔らかい喧騒が聞こえてくる。
両祐は立ち止まって、辺りを見回した。横断歩道はもう少し向こうだが、そんなところまで行くのは面倒くさい。今向かってきている車が行ったら、ここで渡ってしまおう。
風が吹いて、公園の外周に立ち並ぶ木々が揺れる。
ざわざわと葉が擦れる音の中に、車のエンジン音と、不意に犬の声が混ざった。
それから、人の声。
「――――って、待ってってば、ちょっと!」
両祐は顔を上げた。公園の奥からこちらに向かって、男が一人、必死の形相で走ってきていた。その前を小さな犬が走っている。リードは繋がれていない。車が来ている。犬はそれに気付いていない。
(あ、これ轢かれるな)
両祐は冷静に未来を予測すると、自転車を放り出した。
「お願い、止まってっ! 止まれぇっ!」
飼い主と思しき男性の声など一切聞かず、犬は勢いよく車道に踊り出た。飼い主の足は遅く、あれでは到底間に合わない――けれど自分ならば間に合う! 両祐は思い切り一歩目を踏み込むと同時に体勢を低くし、二歩目の踏み込みで爆発的に加速した。
(ごじゅうめーとる、ろくてんぜろごー!)
この間の体育で叩き出した記録をバネに、全身の筋肉をフル稼働させる。自慢だが足は海人より速い。間に合え! 間に合わないと俺まで死ぬ!
命の危機に晒されて、それでも両祐の頭はクリアだった。この一年で散々経験してきた修羅場に鍛えられたのだろう。確かに、車は速い。けれど、拳銃よりは遥かに遅い。その上、運転手は犬を見てブレーキを踏んだ。減速してくれるなら、勝ち目は広がる。
「―――っ!」
鋭く息を吐いて、両祐は踏み切った。抱えて走り抜けるのでは遅すぎる。引っ掛けて飛び込んで潜り抜けるのだ。後のことなど知ったことか。今は、ただ、死線を飛び越えられさえすればそれだけで良い。
すれ違いざま、小柄な柴犬の胴体を右腕に引っ掛ける。
前方に向かって身を投げる。
甲高いブレーキ音が朝の空気を切り裂いて、両祐の爪先の数ミリ向こうを掠めていった。死の匂いを纏ったパワーの塊が、危機一髪のところを通り去る。
案の定、片手で受け身など取れず、両祐は肩からコンクリートに突っ込んで、歩道の上を無様に滑った。
「いっ………でぇぇぇええええっ」
「大丈夫ですかっ?」
飼い主が走り寄ってきて、両祐を覗き込んだ。人の好さそうな顔が、心配に歪んでいる。
両祐は半身を起こして、頷いた。
「大丈夫っすよ。はい、犬」
「あっ、ありがとうございます……!」
飼い主は両手で犬を受け取ると、顔全体をくしゃくしゃに縮めた。「勘弁してくださいよ、本当にもう……!」
犬に対してなぜに敬語? と両祐は思った。
キキキィッ、と再び大きな金属音がした。反射的に両祐がそちらを向くと、当の車が慌てた様子で方向を整えているところだった。そして次の瞬間、走り出す。
「はあっ?」両祐は思わず、痛みも忘れて立ち上がり、吠えた。「ちょ、おい、いくら何でも、それはねぇだろ、おいっ!」
両祐の叫びなど意にも介さず、車はあっという間に走り去ってしまった。
(……◇◇3○○、お、××‐△△……よし、覚えた。見てろよ)
怪盗の記憶力を嘗めてはいけない――たとえそいつが、週一の小テストで毎回不合格者リストに入っていようと。車のナンバーを瞬間的に覚えることぐらいは造作もないのである。
「ったく、ムカつくなぁー」
いつかぜってぇ仕返してやる、などとぼやきつつ振り返り、
「―――……えっ?」
両祐は固まった。目の前で展開された不可解な光景に、全身全霊を以って己が目を疑った。ここまで自分の目を疑ったのは生まれて初めてかもしれない。
犬の飼い主が、犬を持ち上げ、その目をじっと見ていた。それは別段変なことではない。ところが、両祐は異様な空気を鋭敏に感じ取っていた。何かおかしなことが起きる、いや起こされるのだ、あの飼い主によって、と予感した。そして、両祐が一度瞬きをしたその次の瞬間、先程まで舌を出し尻尾を振っていた生きた犬が、明らかに置物へと変わっていたのである。ふさふさの毛並みは木に彫りこまれた模様になり、パタパタと揺れていた足も尻尾もぴんと揃って固まって、生物は完全な無機物に変貌した。その上、膝をついた彼の傍らに、いつの間にどこから来たのか別の男性が横たわっていたのだ。
呆気に取られて声一つ出せずにいる両祐をさておき、飼い主――という呼び方も今となっては正しいのかどうか分からないが――の男性は、置物となった犬を地面に置いて、スッと立ち上がった。
途端、大きくよろけたので、両祐は慌てて手を貸した。
「っと、すみません」
「いや……それより、今のは……?」
飼い主だった男はハッとしたように両祐を見て、「えっ、嘘っ、まさか、今の……見ちゃ、ってた?」
「あー、まぁ、バッチリ」
彼は「しまったぁ……」と囁いて、俯いた。その隙に両祐は彼を観察することにした。
若い。おそらく、両祐より一つか二つ上という程度だろう。背丈は高いが薄っぺらい印象で、両手に持てば折れそうだと思った。焦げ茶色の髪はあまりに自然すぎて、地毛なのか染めてあるのか判別付け難く、一房だけ流れに逆らって跳ねていることを除けば、至って普通の髪型だった。顔立ちも平凡で、特筆すべき点は見当たらない。全体的に気の好さそうな、穏やかな好青年であることが窺えたが、先程犬を置物にした瞬間を思い出すと、その印象は覆る。あの時の彼の目たるや、底知れぬ闇を湛え、どこか違う世界の深淵を凝視しているようだった。
唐突に彼は顔を上げて、すぐさま、今度は頭ごと下げた。
「助けてくれてありがとうございました。でも、どうかこのことは忘れてください。それじゃあ」
「待った」と両祐は彼の腕を掴んだ。
「な、なに……?」
「死にかけてまで助けたんだから、お礼があって当然っしょ?」
「それは……うん、そうだね」
彼はやや怯えながらも、めっぽう素直に頷いた。両祐はにっこりと笑ってみせる。
「安心しろよ、そんな大層なモン要求する気はないからさ。ここから少し行ったところに、Milky Wayっていう喫茶店があんの、知ってる?」
「あっ、うん、知ってる!」
「んじゃ、そこでちょっと奢ってよ。俺今から部活あるから、そうだなぁ、一時にそこ集合で。すっぽかすなよ、月時さん」
「へっ?」
両祐は、彼――月時の財布から掏った学生証を、ひらひらと見せびらかしながら、くるりと踵を返した。面白いことになりそうだ。いや、面白いことになってきた!
★
『緑川文代という方が亡くなったらしい』
「えぇ、そのようですね」
足沢は平然と肯定した。鬼門組に依頼をしてきた緑川文代が死んだ、とは、昨夜の時点で聞いていた。電話の相手は古美術商《黒兎堂》の主人、宇佐美常彦である。確実に掛かってくるだろうと予期していたから、さほど驚きはしなかった。回転ダイヤル式の黒電話が、重たく手の平にのしかかる。今時珍しくも古臭い固定電話であるが、足沢が所有するこれは、普通のものとはかけ離れた逸品であると補足しておく。
『さすが、耳が早いな。うちにも、今朝方、警察から連絡があってだね。脳梗塞による急死だと。その彼女の家から、先日鬼門組に盗まれた〈五月革命〉が見つかったとか。――彼女からの依頼だったのだね』
「緑川さんとは、お知り合いでしたか?」
『いや、面識は全く無い。だから、なぜ盗まれたのか、とんと見当が付かんのだが』
「彼女の目的は、《黒兎堂》ではなく、〈五月革命〉だけでしたので、気になさることはありませんよ」
『ふぅん、それなら、まぁいい。それでだな』
ここからが本題である、とばかりに宇佐美は間を置いた。
『警察からうちへ、〈五月革命〉が返還されることになった。それで―――いい加減、気味が悪いのでね。お祓いをした上で、別の絵で上書きしてもらおうと思うのだよ。祈祷については、馴染みのある坊主にお願いするのだが、上書きの方、誰か良い画家を紹介してくれないか? 別に、有名でなくていい。いや、むしろ無名な方が良い。こんな依頼でも、それなりの値段で引き受けてくれるような、都合のいい奴はいないかね?』
「おりますよ」と、足沢は即答した。「二、三人、伝手があります。彼らに話してみましょう」
『そうか、それじゃあ頼むぞ。お代は』
「情報料と紹介料、しめて二万になります」
『分かった。いつも通り、振り込んでおこう。絵の返還が明後日の予定で、その後にお祓いをしてもらうから………来週のどこかで、一回その人に会っておきたいな。セッティングしてくれないか』
「かしこまりました」
『なるたけ早くお願いする。絵が帰ってきたらまた連絡する』
「はい。では、それまでに、こちらも準備を済ませておきますので」
『頼んだぞ。では、失礼する』
足沢は受話器を置いて、堪え続けていた溜め息を解放した。
宇佐美は呪いの絵の存在に、それなりに怯えているようであった。ヤクザ付きの古美術商であれど、やはりその手の話は怖いらしい。彼の後ろにいる連中は、鼻で笑って蹴飛ばしそうであるが。
「……ま、兎澤組は女系だからなぁ」
呪いの絵は男を食い物にしているともっぱらの噂である。それが余計に宇佐美を怯えさせているのだろう。正直足沢も、もう二度と関わるまいと思っていた。だというのに。
足沢はもう一度、深く溜め息をついた。
「ほんと、亡くなっちまうとは思ってなかったな……」
などと口では言いながら、実は少しだけ、不謹慎にも、ぽっくり逝ってくれて良かった、とも思っていたのだった。彼女の口からこの店のことが暴露されたら、何かと面倒なことになる。過去にも似たようなことはあったが、あれは本当に面倒くさかったのだ。二度と御免被る。
足沢は時計を見て――午前十二時二十三分――立ち上がった。
(……さて、誰に依頼しようかな)
考えながら、暇潰しにカウンターを拭き始めた。
扱う絵が絵だ、男でない方が良いのかもしれない。けれど――と、足沢は、カウンターに施された優美な彫刻を見ながら思った――美大生、専門は油絵、コンクールでの賞歴も華々しい。やはり、彼が適任ではなかろうか。
カウンターの縁や、椅子の背や、テーブルの脚などに、バランスよく散りばめられた金糸雀の彫刻。昨年、フリーマーケットで自作の家具を売っていた美大生のその腕に惚れ込んで、わざわざ彫ってもらったのだ。今にも羽ばたきそうなほど精巧に彫られたそれらは、とある高名な彫刻家に彫ってもらったのだ、と言っても充分通用する出来栄えであった。これで専門が彫刻でないのだから、世界には大きな偏りがある。
「うん、やっぱ月時に頼んでみるかな」
決意を固めるつもりで足沢は呟いた。
★
『動揺するなよ、鬼門組』
と、あの時足沢は唇だけでそう言ったのだった。実際、そう警告されていなければ、明らかに動揺してしまうような内容だった。
月時が店を出ていって、お代わりのオレンジジュースとアイスコーヒーが卓上に置かれて、それから両祐は口を開いた。真剣そのものの表情に、高校生らしさは微塵も残っていない。海人もまた同じように鋭い眼光で、足沢を見据えていた。
「で、詳細は? なんで〈五月革命〉は持ち主に戻された?」
「依頼者が死んだんだ」
「はぁっ?」
「緑川文代。六十五歳。死因は脳梗塞。孤独死だ。警察が入った結果、彼女の家から〈五月革命〉が発見された。で、鬼門組に繋がる証拠が出てこないか、一通り調べてから、《黒兎堂》に返還される手筈になったらしい」
「はー、なるほどね」
両祐は呆れたように眉を顰めてそっぽを向き、今度は海人が口を開く。
「俺らに繋がるような物が残っている可能性は?」
「ゼロだ。それはあり得ない。万が一何かが見つかったとしても、辿り着けるのは――」と、足沢はカウンターを指先で叩いた。「――ここまでだ。ここから先は、たとえ国家権力が相手でも探れないし、探らせない。お前らがしくじらない限りは、な」
「それなら良いんすけど」
海人は厳しい声音でそう言って、コーヒーを掻き回した。からんからんと、涼しげな音が鳴る。
「……そういや、もうすぐ梅雨だよな」
「なんだよ突然」
「いや、別に」
そう言うと、海人は一気にアイスコーヒーを飲み下した。
「ただ、俺、雨って嫌いだから」
「へー、じゃあ六月は休業だな」
「あぁ、それいいな。そうしよう。ってわけなんで、アシューさん、何か依頼があったら五月中にお願いします」
飄々とそう言い切る二人に、足沢は苦笑するしかなかった。
「雨が降ったらお休みとか、どんな怪盗だよ……」