10.画竜点睛を欠く 前半
夢を見ていた記憶は無い。それだけ深い眠りの中にいたということなのであろう。だからだろうか、目覚ましの鳴る音が聞こえなかった。それで、俺は予定よりも二時間ほど遅く起きたのである。
俺はしばらく、目覚まし時計と睨めっこをしたまま動けなかった。自分の目が針を読み違えているのではないか、という希望的観測を捨てきれなかったためである。けれど、どれだけ睨んでも針は一向に怯むことなく、俺の視線を跳ね返して一方的に時間を進めていくのだった。諦めて俺は起き上がった。なんとなく気落ちするが、起きられなかったものは仕方がなく、かといって学校に行くのを止める気にもなれなかったので、俺は遅めの朝食とも早めの昼食とも言える食事を摂ると、風呂敷包みを抱えて部屋を出た。
一面の曇り空に、梅雨前線の接近を感じる。今年もあの鬱々とした時期が来るのかと思うと、自然に溜め息が零れ落ちた。雨自体はどちらかというと好きなのだが、あまり連日降り続けられると、好き嫌い以前に困るのである。主に洗濯物の都合で。去年は結局、近くのコインランドリーに頼り、それでも間に合わず、実家から服を送ってもらったりしてどうにか凌いだのだった。
遠く空の向こうから、飛行機が飛ぶ唸るような音が聞こえてきて、ふと過去のことを思い出した。ずっと昔はこれを、雲の向こうで巨大な竜か何かが飛んでいる音なのだと思い込んでいて、心臓をどきどきさせたものだった。心臓を動かすのは半分が恐怖で、半分が好奇心だったことを覚えている。
竜が風を切って飛んでいく。俺はいつも、見送ってばかりいる。
木曜日は休講の人が多いため、構内はいつになく閑散としている。もちろん講義を行っている教室もあり、いくつかの教室からは指導の声が聞こえてくるが、休み時間でもない今、出歩いている人はほぼいない。
俺は、がらがらの学生協の売店で、ちょうど割引セール中だったお茶とおにぎりを適当に買い求めた。これがお昼頃になると戦争の様相を呈してくるものだから、先に買っておいて損は無い。どうせ今日は一日中実習室に籠るつもりだ。朝を食べた時間が時間なものだから、きっと昼など食べずに過ごしてしまうのだろうけれど。何故かは分からないが、継続して絵を描いている最中の俺は、食事をする、という基本動作を忘れてしまうようなのである。よくよく顧みてみると、むしろ食べない方が良い、と思っている節すら感じられるのだ。そう、先生に言ってみたことがある。すると、『お前さんの場合、人間の三大欲求と言われているものが、睡眠欲と性欲と、あと食欲でなくて、美術になっているのではないか』と言われた。先生の言う通りだとすると、もし描かなくなったら―――描けなくなったら、俺はどうなるのだろう。
(……まぁ、インポテンツの人だってその所為で死ぬわけじゃないし、大丈夫なんだろうなぁ―――って、何考えてんだろう俺)
自分からくだらないことを考えておきながら無駄に赤面し、俺は足を速めた。昨日木枠を置いておいた実習室は、授業が無い限り自由に使ってよい教室だ。俺はその静謐ささえ湛える空き部屋に踏み込む。木曜日にここが空いていることは既に承知の上であった。同じ四階の他の教室で授業が行われていないことも。あまり知られていないが、同じ棟の中ではこの教室が、最も使用頻度が低く、また連続して空いている教室なのである。おそらく年度ごとに違ってくるのであろうが、俺としては非常に助かっている。
机の上に荷物を置く。よく冷やされていたお茶のペットボトルから水滴が滴り落ちて、早速小さな水溜まりを作った。預かった絵が濡れてしまわないように、風呂敷だけは別の机の上に置いて、木枠を取り出しに行く。だんだんわくわくしてきた。元が不吉な絵だろうが何だろうが俺には何の関わりもないのだから、あえて気にするものではない。そういえば、ドアは開けっぱなしだし窓は開けてないし、環境としては最悪だなと、他人事のように思った。そんなことより早く描き始めたい。やはり、俺の三大欲求は少し歪んでいるらしい。そのことがもはや誇らしい。
風呂敷を開け、再びあの絵を拝む。しかし、何故か一昨日見た時のような恐怖は感じなかった。前と同じようにじっと見てみたが、気力を奪われるような感覚も無い。やはり、こういう絵は夜に見るべきものではなかったらしい、と結論付けた。それで、いざ木枠に張り付けようと絵を持ち上げて、はたと気が付く。
「あ、道具持ってきてないっけ」
これでは張り付け作業など出来ようはずがない。俺は隣の倉庫に足を向けた。ドアを開けっぱなし、絵を机上に広げたまま。
キャンバスの作成は、釘や金槌、キャンバス張り器などを使用して行う。それらの用具が揃っていないと、しっかりピンと張れないのである。
隣の倉庫はごく狭い縦長の部屋で、油絵の具のにおいが充満している。絵の具のにおいは嫌いではないが、さすがに、これだけ濃いとあまり長く居たいとは思えない。幸い、使いたい用具はすぐに見つかったので、俺はそれらを抱え持ち、踵を返した。
元の教室に戻ると、絵の傍に人がいた。俺は一瞬びっくりしたが――ぼさぼさの頭、白衣、素足に下駄、いつものスタイルだ――それが誰なのか分かると、思わず微笑んだ。
「露野先生!」
先生はびくりと全身を震わせて振り返った。唇が何かを言いたそうに動いたが、それは音にならず、俺の目にはただ戦慄いただけのように映った。その様子が少し気になって――俺が、自分の生まれを話した時の反応を思い出して――俺は首を傾げた。
「おはようございまーす。どうかしたんすかー?」
「………この、絵は」無理やり絞り出したような声で、先生は言った。「一体、どこで……」
「あ、先生、その絵のこと知ってたんすね。実はそれ、俺の知り合いの方から依頼をいただいて――」と、言いつつ俺は近付こうと一歩踏み出して、
「来るな!」
鋭い声に制された。突然の怒声に全身が凍り付いたが、落としそうになったプライヤーはどうにか落とす前に抱え直せた。俺は呆然となってしまった。先生がこんな風に、苛立ちの感情を剥き出しにして怒るところなど、初めて見たからだ。それも、俺一人に向けて、強い敵意をもって。
「え、あの……先生……?」
「やはりお前さんは全部知っているんだな」
一周回って感情を捨て去ったように平淡な調子で言って、俺の方へと近づいてくる先生。その目は確かに俺の方を向いているのに、俺を映してはいない。奇妙に据わった漆黒の瞳が、どこか、俺の背後の方を、見据えている。
「知っていて、それで、俺を殺そうと……」
「は? ちょ、あの、何を言って――」
「二十年!」
再び響いた怒鳴り声に、今度こそ俺はプライヤーを落とした。狙いすまして足の上に落ちられて、俺は痛みにしゃがみかけたが、許されなかった。
先生がそれを許さなかった。
胸倉を乱暴に掴まれて、窓際の壁に叩き付けられた。強い衝撃に襲われたが、背中が壁にぶつかる音や、落とした用具が散らばる音など、ろくに認識できなかった。それよりずっと早く、肺から空気が無理に押し出されたことによる息苦しさが、その次に痛みが、それから、混乱と動揺が怒涛のようにやってきた。俺は咳き込みながら、真っ白になった頭で必死に考えた。けれど状況は一片も理解できないまま、一方的に進んでいく。
先生が、俺の胸元を握りしめたまま、深く俯いて言う。
「……二十年も経ったんだぞ、あれから。なのにどうして、何故、まだ、お前さんは俺を縛る?」
「何の、話ですか、先生」
「頑張って頑張って頑張って頑張って、ようやくここまで辿り着いたというのに……そんなに俺のことが嫌いか? そんなに恨んでいるのか? 自分から死んでおいて、それを見捨てた俺を――」
と、言いさして、先生は不意に頭を振り上げた。
「いや、俺は見捨ててなどいない! あの時皐月は既に死んでいたんだ! 俺は殺していない、あいつが自分で勝手に死んで、俺が見た時にはもう死んでいた! 俺を恨むのは筋違いだ!」
先生の血を吐くような叫びが耳に刺さる。けれど話を理解していない俺には何も言えず、ただただ聞いていることしか出来ないのだった。
その時、ふと、左腕に圧力がかかったので、俺は視線を落とした。
黒い靄のようなものが幾筋も、肘の辺りに纏わりついている。それを見た瞬間俺は寒気を感じて、息を飲んだ。見たくないのに、目はその靄の先を追ってしまう。靄はぐるりと先生の背後に回って――そこに、死神がいた。輪郭を曖昧に溶かした不吉な存在は、先生に覆い被さって、何事か囁いているようだった。
背筋が粟立った。
絵の呪いが作用していると直感した。一昨日感じたものよりずっと強い恐怖が、俺の脳味噌を揺さぶった。死神と女性は、殺すモノと殺されるモノの対比。今の状況だと、誰と誰がそれにあたる?
まずい、と思ったのは当然のことだろう。俺は咄嗟に先生の両肩を掴んで、引き剥がそうとした。しかし先生はびくともせず、淡々と言葉を紡ぐ。
「なぁ、どうしてそこまで俺を呪う。二十年もかけて、月時まで巻き込んで、そこまでして俺を殺したいのか。俺はお前さんの言う通り、絵も描いたし、大学の先生にもなったじゃないか。これでもまだ足りないのか。俺の命まで奪わなければ満足しないのか?」
「せ、先生、ちょっと、落ち着い――」
「黙れっ!」
先生が一喝し、俺を睨んだ。
目が合った。
銀縁の眼鏡の向こう側で、先生の目が、急速に色を失くしていくのが見えた。何かを悟ったように、或いは諦めたように、もしくは決意を固めたように、黒を滔々と湛えた瞳が俺を飲み込むように捕らえた。先生の目は深淵だった。深く苦しい境遇に渦巻く恨み辛みが、今、深淵を覗き込んだ俺に牙を向かんとしていた。
不意に、先生は微笑んだ。
「もう、呪いの言葉なんか聞きたくないんだ……」
目と一緒に箍が緩む。
―――許してくれ。
そう言って、先生の両手は俺の喉を包んだ。
きっと、後悔だったのだろう。
先生は真面目な人だから、過去の過ちを、もうとっくに時効になったはずの罪を、ずっと背負い続けてしまったのだろう。
それは秘密と同じで。
抱える人数が少ないほど重たくなっていき。
それは嘘と似ていて。
長く抱え続けるほど、より重たくなっていき。
きっと、耐え切れなくなったのだろう。
懺悔の場所すら与えられなかった、或いは自らそれを拒んだ先生は、その真面目さゆえに己を壊してしまったのだろう。
実情は知らない。
何も知らない俺には、何も言えない。
だけど、いや、だからこそ。
たとえ何が起ころうと、先生を恨んだり呪ったりは決してすまい、と、思ったのだ――