1.あえて竜を野に放つ 前半
画竜点睛を欠く、という言葉がある。最後の仕上げを仕損じる、という意味だ。画竜、とは、竜の絵を描く、点睛、とは、目を描き入れる、という意味であり、二つを合わせて『大事な仕上げ』の意を持つ。それを欠くから、詰めが甘い、となるのだ。さる高名な画家が竜の絵を描き、最後に目を描き入れたところ、たちまち竜は本物となって天へ昇っていってしまった、という中国の故事が由来である。
思うに、この話で最も重要なのは、目を描き入れた途端に竜が実物となってしまった、ということであろう。それだけ、絵描きの腕が良かったということでもあるし、目を描き入れる作業の重要さを物語ることでもある。
かねてより、『目』という存在は呪術的力を備えるもの、と考えられてきた。人を石にする蛇の話にも目が関わるし、エジプトなどで古代から伝わる魔除けの多くも目をモチーフとしている。
オカルトじみた話から離れてみようとも、目の持つ力の強大さに変わりはない。目とはもとより、人間の五感の内で最も多くの情報を捉える器官である。五感の長、などとも言われ、実に九十パーセント以上の情報は、目から得ているものだ。その情報量の多さや重要性は、『目は口程に物を言う』とか、『目は心の鏡』とかいう諺にも表れている。意識せずとも、目は相手を見て、自分を語ってしまうものである。一般人の目でそうなのだ、貴方のような特別な目であれば尚更、扱いには気を付けなくてはならない――
「――と、俺が特別に講義してやったことを、お前さんは忘れたのか?」
「や、忘れたわけじゃあ、無いんすけど……」
「じゃあどうして、こう頻繁に騒ぎを起こしては、俺のもとに駆け込んでくるのだ?」
「それはほら、不可抗力と申しますか……」
俺がへらりと笑ってみせると、先生は眉間のしわを一層深くして怒鳴るのだった。
「いい加減にしろ、月時! いつも言っているようだが、何度言えば分かる! 君には自覚が足りないのだよ、自覚が!」
「そんなこと言われましても……良い作品があったらずっと見ていたくなりますし、その時傍に作者がいるかどうかなんて、分かりようがないことじゃないっすか」
先生は深々と溜め息をついた。骨張った長い指が、銀縁の眼鏡を押し上げる。狐のように細い目は常に厳しい光を湛えていて、学生たちの間では冷血人間だなんだと評されている。しかしそれは早計であり浅慮である、と俺は断言しよう。よくよく見ればすぐに分かるが、先生の目の最奥には、他人に対しての計り知れない思慮深さがあるのだ。これが分からないなど、まさに『見る目がない』としか言いようがない。
「だとしても、だ。お前さんが《そういう》力を持っている以上、気を付けるのはもはや当然の義務なのだよ。望むと望まざるとに関わらず、な。―――まぁ、起きてしまったことは仕方がない。大事に至る前に、早急に片を付けに行こうか」と先生は言った。
露野久森先生は、彫刻と美術史を担当する先生であり、俺の唯一の理解者だ。出身はどこにでもあるような総合大学であったが、そこを卒業した後、改めて美大に入り直して、あれよあれよと言う間に准教授まで登り詰めたという、辣腕の持ち主である。
俺の『目』に異常が現れたのは、この美大に入ってからのことであった。異常と言っても、病気の類ではない。そのような類であったのなら、俺がこうも頻繁に先生のもとへ行くことはなく、物語は始まらぬまま終わっていたはずだ。
あれはおおよそ三か月前。一年生ももうすぐ終わる、二月初頭のことであった。不可解な事件に首を突っ込んだ直後に、再びやって来た不可解な事件であったから、よく覚えている。(ちなみに、最初に遭遇した『不可解な事件』は、今回の件とは全く関係ないので割愛させていただく。)
そう、二月。俺は、趣味のDIYのために廃材を貰おうと、彫刻科に顔を出したのだ。教室には、締め切りを間近に控えながらギリギリまで制作に取り組む三年生が一人と、その完成を待つ露野先生がいた。
「――――――できた」
静かな完成宣言は、俺が扉を開いたと同時になされ、俺は今まさに完成したばかりの熱気に満ちた作品を目の当たりにする。
それは、小さな木彫りの竜であった。小さいのに、とんでもない迫力を持っていた。鱗の一枚一枚は精巧に彫り込まれ、俺は血流の拍動を感じた。尻尾は華奢かつ繊細で、力強い後ろ足との対比を成している。宝玉を掴む前足は、割らず、放さず、絶妙な加減を保っていた。渦を描きながら天を目指す竜の周囲では、風が唸り、稲妻が走っているように見えた。優美な曲線の髭は、雨粒を弾いてしなやかに翻る。口を大きく開いて竜は哮り、鋭い眼光を携えた双眸が天を見据えていた。
不意に、竜がこちらを見た。
目が合った。
あの時の感覚を、俺はありありと思い出せる。完全に目が合った、いやそれどころか、目と目を通路に脳と脳がつながった。癒着した、とすら感じた。筆舌に尽くしがたい、実に衝撃的な感覚だった。作品の持ち得るすべてのパワーが一瞬で俺に注ぎ込まれ、途方もない高揚感と充足感、それから、心臓の底を冷たい手で撫でられたような感じがした。
頬を打つ冷たい風雨に、ふと気が付けば、教室は嵐の真っ只中に放り込まれていた。無論、窓の外は晴天である。室内、というあまりにも局地的すぎる局地に発生した、常識外れの春の嵐。現世に顕現した竜が天井を徘徊し、周囲を真っ黒い雲が塗り込め、大粒の雨が床を打つ。風が吹き荒れ、スケッチブックを巻き上げる。雷鳴と咆哮が轟いて、窓ガラスを震え上がらせる。
俺は呆然としたが、露野先生の方がもっと呆然としていた。そして、そこにあったはずの三年生の姿はどこにもなかった。
先生が、順応が早く、機転が利き、柔軟な対応の出来る人であったことは、実に幸いなことであった。先生のおかげで、俺の力により作品に取り込まれた三年生は無事に救い出され、竜は元通り木彫りに戻り、事件は公になることなく済んだのである。
「完成した瞬間、竜に乗って空を飛ぶ夢を見た。なんか……なんかもう、凄かった」
とは、その三年生の言である。
作者の『目の前』で、俺と作品の『目が合う』と、作者の想像したことが現実になる。これが俺の目に起きた異常であり、病院でどうこう出来るものではないことは、誰からしても一目瞭然なのであった。
「それで、」と先生は速足で歩きながら言った。
「今回は誰のどんな作品だ?」
「油絵っす。俺と同じ学科の子の。なんか……眠れる森の美女、的な世界観の絵でした」
「眠れる森の美女?」
「はい。なんてーか、こう……」
俺はどうにかして雰囲気を伝えようと、両手をくねらせる。
「……こう、蔦だか茨だかがわちゃわちゃってなった古いお城があって、ひときわ高い塔の一番上らへんに、金髪の女の人がいたんすよ。で、あーなんだか寂しそうな顔してるなーって思って見てたら、その人と目が合っちゃいまして」
「作者がいると分かっていて、どうしてじっと見ていた?」
「いやだって、その人が『まだこれは完成品じゃない』って言ってたんで。それなら大丈夫かなーと」
先生は不可思議そうに首を傾げた。
「完成品じゃない? それなのに現実に出てきたのか?」
「はい。突然、キャンバスからとげとげの茨がぶわーって」
「……そうか」
いつものことながら、俺の貧困な語彙に、先生は呆れを隠せない様子であった。
「あ、そこっす」
俺が指差した教室は、さして広くない一室である。前後の扉はどちらも引き戸で、上部にガラスがはめ込まれており、中を覗けるようになっているのだが、どちらも茨に覆われて真っ暗になっていた。
「この様子じゃあ、中も茨で埋まっているのだろうな……」
先生は、脳裏に浮かんだ幾つもの手段を精査しているように押し黙って、やがて懐から一本のペーパーナイフを取り出し、俺に差し出した。
「とある名工が作ったものだ。合わせられるか?」
「あっ、はいっ、やってみます」
先生と幾つか実験をして、分かったことが二つある。
一つ。作者と作品が揃っている時に、俺の目が作品と合うと、意識的無意識的関係なく、作者の世界観が現実のものとなり、作者は世界の一部として作品の内部に取り込まれる。
二つ。作品だけがある時、自分から意識して目を合わせようとし、上手く合わせることが出来れば、自分の想像力のもとに作品を現実化することができる。
俺は、普通より少し大振りなペーパーナイフを凝視した。
「うっはぁー……」
思わず、溜め息が出る。
「めっちゃかっこいいっすねぇこれ。サーベル?」
「十九世紀後半、イギリスで使われていた剣を模したものだ。どちらかというとレイピアに近いな。ペーパーナイフ用に、グリップが長くされ、刃幅も実際よりは広がっているが、それ以外は実に忠実に再現されている。歩兵将校用、一八九五年型がモデルとなっていて―――」
先生の説明を俺は途中から聞いていなかった。
剣士の手の防護を役割とするバスケット・ヒルトは、緩やかに湾曲し、完全に拳を覆うだろう。切っ先は刺突用に細くなっていて、戦闘を制する威力を。剣身はフラットに伸び、戦闘に耐えうる頑丈さを、それぞれ持ち合わせている。攻防に対する信頼性の高さは、すでに第一線を退きつつある時代の剣とはいえ、武器として欠かしてはならないことだ。
が、それらを完璧に満たした上で、施されている装飾の美しさと言ったら。むしろこういう武器類の装飾というものは、戦闘を第一に想定しているからこそ際立つ美しさがあると俺は思う。バスケット・ヒルトは、蔦の絡まるアラビア紋様の透かし彫り。剣身にも同じように、しかし数段細かく複雑で、細密な紋様が描かれている。彫刻ではなくて、エッチングだろう。剣身の根本、グリップに程近いところに、中央に宝石のようなものが埋め込まれた、六角の星があった。六芒星? 籠目? 洋風に言うと……ダヴィデの星?
正解、と言うように宝石が輝いた。
目が合った。
『貴方なら私をどう描く?』と聞かれ、俺は想像する。一九世紀末のイギリスの軍服。将校。礼装。金糸で豪華に飾られた赤い上着に、大量の勲章が付いている。脇に金の太線が入った黒いズボン。そして制帽。右手に、抜き身のこの剣を持ち、縦に構える。すらりと空を刺す剣は、勝利の栄光を朝日に確約する。ダヴィデの星があしらわれているということは、少々複雑な立場を持っているのかもしれない。けれど、いや、だからこそ、彼の振るう剣は何人をも貫く―――
「上出来だ」
パン、と背中を叩かれて、俺ははたと我に返った。さっきまでは無かった手中の重みに、自分で作っておきながら、ぎょっとする。
「っわわっ、っと」
慌てて握りしめると、銀の鞘が手の平から温度を奪っていった。
どこからか持ってきた黄色い立て看板――【立入禁止 清掃中につきご協力ください】――を設置しながら、
「とりあえず、中に入るぞ。部屋全体が絵の一部となっているようだ。世界観を聞くに、そう危険なことは無かろうと思うのだが、何せ何が起きてもおかしくない世界だ。警戒は怠らないように。いいな」
そう言うと、先生は俺が《そうぞう》した剣を取り、鞘から抜いた。先生は、薄汚れた白衣を羽織っていて、脇に白い線の入った黒いジャージのズボンで、素足に下駄、鳥の巣みたいな頭をしている。英国陸軍将校とは程遠い出で立ちである。というのに、剣は先生の手にすっぽりと納まって、妙にしっくりとくるのであった。
剣は落ち着き払った態度で語る。
『ここが、私の居場所で、戦場なの。お分かりかしら、坊や?』
「……流石、先生の持ち物っすね」
「これのことか?」
「はい」
「学生時代から使っている物だ。お前さんと同じ頃に、友人から貰って……―――」
先生はしばし過去に沈んで、言葉を半端に途切れさせた。ダヴィデの星がきらりと光る。
「―――と、そんな話をしている場合ではなかったな。行こう」
扉を一息に開けると、上から下まで茨でびっしりと埋まっていた。先生が無造作に剣を振るうと、人一人がどうにか通れるくらいの道が開く。切り拓いていく様がやけに決まっていると思った。
俺はゆっくりと扉を閉めた。黄色い立て看板だけが、俺たちの旅立ちを見送っていた。
ずっと、気になっていることがある。
なぜ、先生は俺に良くしてくれるのだろうか。
どうして、こんなに非現実的なことに寛容なのだろうか。
ずっと、気になったまま、聞けずにいる。
鬱蒼と茂る茨の森を、先生の白衣が切り裂いて行く。俺は、転ばぬようにその背を追いかけるので精一杯であった。
「思い出すな……」不意に、先生が呟いた。
「え、何をです?」
「山菜採りだ。俺の実家はかなりの田舎でな、よく裏山に、山菜を採りに行かされたのだよ。蔦を切って、獣道を歩いて、崖を登って……それはもう、毎度毎度、命辛々採ってきたものさ」
「へぇー、それはそれは」
「筍の掘り方を知っているか?」
「いえ、掘ったことなんてありませんし」
「宝探しみたいで面白いぞ。土から頭を出すか出さないかくらいのを狙って掘るからな。小さければ小さいほど美味しいが、そんなものはまず見つけられんし、田舎ではそんな食べ方贅沢すぎる。かと言って、大きすぎれば硬くて不味い。丁度よく育ったものを、土の盛り上がり具合から、どうにか探し出すのだ」
先生はこういう空間に来ると、途端に饒舌になるのであった。俺以外の誰にも聞かれないと分かっているから、話しやすいのかもしれない。それでも、仕事に対する愚痴などは欠片も言った試しがないし、今もそうだが、作業をする手は決して休ませないのだ。
「見つかったら、その先っぽがどちらを向いているかを見る。向いている方向に根っこがあって、筍はそこから反対側に反って生えているのだ。だから、先っぽが向いている方の地面から掘ってゆけば、途中で折ってしまう可能性を極限まで減らせる。
いっちょうば、という、筍掘り用の鍬があってだな。それを使って、慎重に掘っていくのだ。自分だけで丸々、綺麗に掘り出せた時は、感動ものだぞ。一度、ぜひやってみると良い」
そう言って、先生はちらりと振り返って、俺の顔色を窺ったようだった。俺は笑って、「筍を掘る機会なんて、普通はないっすよ」と言った。
「まぁ、それもそうだな」
「でも、機会さえあればやってみたいっす。宝探し、って言われると、わくわくしますもんね。あー、実家の方に農家の子いなかったかなぁ」
「お前さんの実家はどこだったか」
「岐阜っすよ」
「そうか、岐阜か」
「はい」
俺がそれ以上何も言わないでいると、先生も何も言わぬまま、後はバサバサと茨を断ち切っては、それを踏んで歩いていくのみとなった。
すると、まるでその代わりのように、剣が喋り出した。
『茨に囲まれた城なんて、幻想的ねー。まぁ、そこに囚われるお姫様なんて、地雷だらけで厄介な女であること間違いなしでしょうけど。ついでに、それを描いたっていう女もね。ほら、茨だってそう言ってるわ』
促されて、俺は聞き耳を立てる。
剣が茨を分断する音、落ちた草を踏み潰す音、風が隙間を通り抜ける音、それらに混ざって、確かに、聞こえた。
『……姫様をお救い下され……どうか、どうか……』
切々と訴えかけてくる、悲痛な囁き声。それが、四方八方から細波のように押し寄せては引いていく。一度気付いてしまうと、もう聞かずにはいられなくなってしまった。
『ね、地雷の香りがするでしょう? 本当、陰鬱で嫌になっちゃう』
剣は一方的にそう言ったきり、口をつぐんだ。気付かせるだけ気付かせておきながらなんて無責任な奴だ、と俺は思ったが、結局は何も言わずに俺も口をつぐんだ。
『お救い下され……』
『お救い下され……』
『どうか、どうか……』
囚われたお姫様を救いに行く。となれば、さしずめ先生は、白馬ならぬ白衣の王子様か。我ながら上手いこと言ったものだ、と自己満足し、ふと、それじゃあ俺はどんな顔をしていけばいいのだろうか、と思った。