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白雪姫の憂鬱

作者: 佐々原 比乃

 喉がひどく渇いたんだ。


 首をちょっと傾けて、私は台所に向かった。やけに体に力が入らない。胸のあたりに、今まで重いものを持ってたみたいな、重さの名残と相対的な軽さを感じる。頭がぼんやりとする。でもなんか、頭の芯の芯は、私の知らない所でめまぐるしく動いてるみたいだ。やだなぁ、ぼぅっとする。なんだろう、あれだ。大声で叫んだ後、みたいな。

 台所にりんごが置いてあった。これでいいかな、と思ってひとつ手に取る。なんだか全部、億劫だった。冷蔵庫から飲み物を出すのも、食器棚からコップを出すのも。

 さっと表面だけ洗って、私はりんごに歯を立てる。


 ーーー行儀悪いぞ。


 声が聞こえた気がして、私はまた首を傾げた。聞き覚えのある声だ。

 でもたぶん、幻聴だよ。かいとくんがいるはずないもの。


 りんごはとっても甘い。溢れた果汁が私の口元から顎を濡らす。拭うのも、面倒くさい。

「……白雪姫は、」

 私しかいない空間に、私の声が落ちる。声に出してしまったのは、他に人がいないから。静寂に怯んだから。

「毒りんごで、死んだのだよね」

 当たり前じゃないか、そう、そうだよ。でもある時から私の胸に疑問は生まれた。あの美しい少女は本当に、りんごに仕込まれた毒で死んだのだろうか、てね。だって昔、かいとくんが言ったから。白雪姫は、りんごを喉に詰まらせて死んだんだって。


 本当に死ねるのかしら。興味から私は、齧った一口分のりんごを噛まずに飲み込んでみた。しかしりんごは、喉に鋭い圧迫感と痛みを残して、無事に体内へと滑り落ちてしまう。


 なんだ、死ねないのか。


 人の体は、存外やわではないらしい。そこで、白雪姫の窒息に、かいとくんは割とそれらしい根拠を持っていたことを思い出す。


 ーーー白雪姫はなにも、平常な精神状態でりんごを詰まらせた訳じゃない。

 ーーー何かしたの?

 ーーー焦って食べた、もしくは、緊張していたんだろう。

 ーーーどうして。

 ーーーりんごをくれたのが、継母だったから。


 かいとくんの口元はいつも笑っていた。でも私は思う。あんなのはパフォーマンスだ。かいとくんは笑わない人だった。


 ーーー自分を殺そうとした人が差し出したりんごだよ? 怖くならないはずがない。


 白雪姫は継母だって気付かなかったんじゃないの、と私が問うと、かいとくんは首を振った。


 ーーー本物でなくても、短い間でも、母と呼んだ人だ。嫌でも気付くだろう、母のことは……。


 でもね、私はやっぱり、白雪姫は毒で死んでしまったと思うの。だって、りんごを詰まらせただなんて、かっこ悪いじゃない。それに、継母は白雪姫を殺そうとしていたんだ。喉に詰まらせるかも、なんて不確定な賭けに挑むより、りんごに毒を仕込む方が、よっぽど殺しやすい。

 ふと私は手元のりんごを見た。半分まで減ったりんご。毒は入っていないな、なんて、当たり前のことを思った。


 かいとくんは白雪姫。あの人の本当の母親はとうに亡くなっていて、今のお母様は、お父様の再婚相手なんですって。

 母は俺の死を願っている、ってかいとくんは言った。新婚生活の邪魔だから、かいとくんが前の奥さんに似ているから、かいとくんの父親の遺産相続の段になって邪魔になるから、かいとくん自身の保険金目当て……。どれが本当の理由かなんて分からないけれど、とにかくかいとくんは、殺されそうだ、と言っていた。あの女はいつか僕を殺す気がすると。

 継母に殺されるなんて、白雪姫みたい。可哀想なことにかいとくんの物語は、素敵な王子様が助けてくれる展開にはならなそうだったけれど。立場的には私がそうなんだろうが、なんだかかいとくんは、目覚めのキスに含まれた私の愛を受け取ってくれない気がした。

 幸いなことにというか当たり前というか、かいとくんの今の母親はかいとくんを殺すような真似はしていない。かいとくんが家を出てから、かいとくんの父親と自分の連れ子とで、幸せな家庭を築いているんだって、何かの拍子にかいとくんはそう、私に教えてくれた。


 幸せな家庭。三人だけの。


 かいとくんが入る隙間もないほどの。



 りんごはもう、四分の一程度しか残っていない。胃袋がりんごの水分でたぷたぷしているのが分かる。正直もう十分だ。だけどなぜだか、喉が渇いたような感覚は消えない。

 りんごが一口、また一口と減っていく度に、ひどく緊張し恐れている自分がいた。このりんごを食べきるまでが猶予だ、と思う。なんの猶予だろう? 分からない。なんの猶予だか考える事への猶予なのかもしれない。指先が冷たくなって、体が小刻みに震える。今ならこのりんごを喉に詰まらせることもできるような気がした。そうしたら私も、死ねるのだろうか。


 かいとくんには、子種が無いらしい。この間、自分でそう言っていた。いつの間に調べたのか。調べたのは、私がいつまでたっても妊娠しなかったからか。それとももとから、どこかで勘付いていたのか。


 少なくとも言えるのは、かいとくんは子孫を残せないということ。


 かいとくんはずっと、ひとりぼっちだということ。


 私はりんごを、芯だけ残して食べきってしまった。


 三角コーナーに芯を投げ入れ、私は口元を乱雑に拭い、立ち上がった。

 私がかいとくんを支え切れればよかったんだろうか。いや、でも、きっと、それもなんの意味にもならない。例えば私がずっと彼のそばにいたとして、養子とかをもらったとして、かいとくんはひとりぼっちのままだ。自分でひとりぼっちだと思ってしまった時からもう、彼は独りきりだったんだ。


 私は慣れたアパートの廊下を歩き、さっきまでいたリビングに足を向ける。


 今ならわかる。かいとくんは、白雪姫がりんごを喉に詰まらせたこと自体を言いたかったんじゃない。継母はりんごに毒なんて入れてないって、そう言いたかったんだ。

 全部白雪姫の被害妄想だった。実の母親を失った白雪姫は、急に現れた継母に、今度は父親まで取られてしまうと思った。また一つ居場所を失ってしまうと。そして継母を敵視する。その敵意は、白雪姫の中で、継母からの殺意として認識された。自分の感情を相手のものとして置き換えるのは人間の防衛機制の一つだ。ありえない話じゃ、ない。

 継母は逃げ出した白雪姫を心配して何度も森を訪れる。その度に白雪姫は自分の妄想に怯えた。そしてついには、りんごをうまく飲み下せなくなってーーー……。


 私はリビングの明かりをつける。そこに横たわるかいとくんを見つめる。


 かいとくんは、継母が毒を仕込んでないって、気付いていたのに。


 かいとくんはもう、自分は家族という居場所を作れないと悟ってしまったんだ。



 かいとくんの首には、縄が緩く一周回っている。



 私が帰宅した時にはもう、彼は天井から伸びた縄に下がって微動だにしていなかった。私は叫んだ。彼の足にすがった。驚きと恐怖でむしろ涙は出ず、ずっと私は叫んでいた。どうかこれが嘘でありますようにって。

 少し経ってから私は、茫然と倒れていた椅子に登って、かいとくんを吊るす縄を天井のフックから外した(洗濯物とかを室内干しするためのフックだった)。かいとくんの重みで、私の手と縄が擦れて血が出た。やっとの事で縄を外すと、かいとくんの体はべしゃりと床に落ちた。とても生きているとは思えない落ち方だった。私はまた叫んだ。もう嘘だとは信じられそうにもなかった。

 ほんの数分前の話だ。


 なんとか姿勢を仰向けに整えたかいとくんの体を私はしばらく見つめる。呼吸が止まっているだけで、仮死状態なのかも、とか、おとぎ話の辻褄合わせみたいなことを思った。それならかいとくんは、私がキスをすれば生き返ってくれるのだろうか。


 いや、と私はひとりかぶりを振る。もし仮死状態でも、かいとくんは愛のキスでは目覚めてくれないだろう。もはや彼に私の愛は届かないと、そう私は確信していた。

家族いなくても人間なんとかなるし、死なないでね。

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