6、事情を聴くだけ
香織さんがいなくなって一か月になる。
たっくんは蛍の正体を理解し、私と共に窓の外を眺めるのが日課になった。
まったく、救いようのないくらい変な姉弟だ。
呆れつつも、私はひだまり保育園へたっくんを迎えに行く。
「たっくん、今日も蛍見る?」
「見るー!」
私よりも頭二つほど背の低いたっくんと手をつないで歩く。しっかりと手をつないでいないと、どこへ行ってしまうかわからないのだ。
ほんと、手のかかるとこまでコロに似ている。でも、コロよりも断然聞き分けがいい。それだけは私が保証する、
「……にしても、寒いねー」
ねー、とたっくんが可愛らしい相槌を返した時だった。
空から、はらりと白いものが落ちてきた。
「……雪?」
次から次へと落ちてくる雪は、地面に小さな染みを作っては消えていく。
――まずいなー。
私は雪が嫌いだ。雪が降ると、蛍が見られなくなる。今日の降り方では根雪にはならないだろうが、それにしても深刻な事態だ。
お父さんの仕事も決まってないんだから、灯油なんて買ってる余裕ないんだよ。
苛立つ私をよそに、たっくんは無邪気にはしゃいでいた。
今日もまた、ユッコに付き合いが悪いとなじられた。
事情を事細かに説明して、お涙ちょうだいなんてくそくらえだ。だから、私は曖昧に笑ってごまかした。
――毎日誰かのご機嫌伺いなんてもうごめんだ。いっそ、ユッコたちとの縁なんて切れてしまえばいいんだ。
これが、社会不適合者の私なんだから。
「痛い!」
ぐ、と手に力を込めると、たっくんが小さな悲鳴を上げた。自分の世界に没頭しすぎて、たっくんと手をつないでいたことをすっかり忘れていた。
――ごめんね、こんなお姉ちゃんで。
雪は夜になっても降り続いた。
「たっくん。もうすぐ蛍見れなくなるから、今のうちにちゃんと見ておくんだよ」
私は至極真面目にたっくんに言い聞かせた。たっくんも、地球の危機とばかりの顔で真剣に聞いてうなずいている。
お父さんが帰ってきても、夕飯だと声をかけられても私とたっくんは蛍を凝視した。
六時のラッシュが過ぎ、七時のラッシュが終わる。そして、蛍がまばらになってから、ようやく窓辺を離れた。たっくんを抱いていた腕は、感覚がなくなるくらい痺れていた。
「気が済んだか」
「まだまだ」
私とたっくんが同時に返す。お父さんは苦笑していた。
夕飯を終えて、八時台のバラエティー番組をたっくんと見ていると、お父さんは煙草を買いに行くと言って出て行ってしまった。
雪はまだ降っているだろうか。予報では、山に近い地域ではうっすらと積もる所もあるらしい。
冬。蛍の見られない、憂鬱な季節。私は何を楽しみに生きればいいのだろう。
「おーい」
外でお父さんが呼んでいる。アパートの裏手、私の部屋の方だ。寒い中外へ出るのが億劫だったので、部屋の窓からお父さんを探した。
「おーい」
間抜けな声を上げながら、お父さんがふらふらと自転車をこいでいる。
――あれ? お父さんって自転車乗れたっけ?
事故で左手が悪くなってから、車も自転車も乗らなくなったはずだったのに。
「お父さん?」
窓を開けて、思わず声をかけた。
お父さんは自転車をコントロールするので精いっぱいで、こちらを見る余裕もない。
錆びついたペダルがキィキィと甲高い音を立てる。おまけに、自動ではないライトがヴヴヴヴ……と低い唸りをあげていた。その音のせいで、お父さんの声は途切れ途切れにしか聞き取れなかった。
「ちょっとぉ、何してんの」
私の問いかけに対する返答すら、自転車の音にかき消される。
あまりにも要領を得ないので、窓越しではなく直接話を聞きに行くことにした。家の中にひとりにして、もしものことがあったら困るのでたっくんも連行する、
寒さに体を丸めながら、アパートの裏手に急いだ。
「何やってんの!」
目いっぱいの声量で問いかけると、けたたましい音を立てて自転車が止まった。断末魔のようなブレーキ音だった。
「どうだ、父さんの『蛍』は」
「はぁ?」
思わず眉間にしわがよる。口元も歪んでいるし、ほうれい線や他のしわが深くなったらどうしてくれるんだ。
「好きだって言ってただろ、自転車のライトを見るのが」
――なんか絶妙に勘違いしてるよ、この人。
訂正するのも面倒だ、と思っていると、ビコン、キュイーン、ガガガと怪しげな音が近づいてきた。何事かと思って辺りを見回すと、赤、青、緑と様々な光が夜空に交錯した。たっくん危ないよ、と手を引こうとして、肝心のたっくんがいないことに気付く。
「たっくん!?」
「はーい」
脱力してしまうような返事が聞こえたのは、あの光が発せられている方角だった。
よくよく目を凝らして見ると、音と光の発生源は三輪車だった。そして、その三輪車を操るのがわが愛しの弟、たっくんその人だった。
ビコンは照準を合わせる音、キュイーンで力をためて、ガガガで連射する。かなり昔ののヒーローがデザインされた三輪車だった。
「たっくんも、ほたる!」
意味のわからん理屈とともに、たっくんが必死に三輪車を漕いで突撃してくる。たっくんに触発されたのか、お父さんまで自転車をこぎ始めた。
キィキィ、ヴヴヴ、ビコン、キュイーン、ガガガ……。
いろんな騒音と、頭がちかちかするような光の応酬劇が巻き起こる。
私は呆然とその光景を見つめるしかなかった。
「どうだ? 蛍だろう」
「ほたるー!」
いやいや、あなた方。それは違いますって。蛍はもっと静かだし、ちゃんとまっすぐ走りますし、カラフルな光なんて発しません。
どっちかっていうと、狂った小鳥。おなか空きすぎてビィビィ鳴いてる小鳥です。仮に蛍だとしても、かなり泥酔してます。宴会終わりの、酔っぱらったおちゃらけ蛍です。私が好きなのと全く以て違いますから!
力説したくても、声が出ない。
呆れすぎてものも言えないとはこういうことなのですね。ありがとうございます、お父様。娘はひとつ賢くなりました。
私が深く頭を下げようとしたとき、頭上から声が降ってきた。
「うるせぇ!」
「ちょっと、あなたたち、人の家のものを勝手に持っていくなんて。警察に通報しますよ」
あちらこちらから声が飛んできて、冬も間近だというのにいやな汗が噴き出した。
「たっくん?」
驚きすぎて、声が裏返る。
「たっくん、それ、どこから持って来たの?」
「あのねー、そこ」
そこ、と指差したのは、私たちが下りてきたばかりの階段の下だった。確かにそこは、確かに住人たちの駐輪場になっている。でも、どうしてそんなところから……。
「ち、ちなみに、お父さんのは泥棒したわけじゃないよね?」
焦りながらお父さんの背中に問いかけると、一瞬背筋が伸びて、そのままアパートから離れる方向へふらふらと漕ぎははじめた。
「ちょっとぉ!」
慌てて追いかけると、ビコン、キュイーンという音と一緒にたっくまでついて来てしまった。このままでは警察に通報されてしまうので、アパートへ引き返す。
そして、たっくんを連れて三輪車の持ち主の部屋に謝りに行った。持ち主のご夫人は、あまりいい顔をしていなかったけれど、今回だけという約束で許してくれた。
あとは、お父さんから事情を聴くだけだ。