4、距離ができた気がした
夕方、授業が終わったと思わしき時間になると携帯の着信音が鳴った。
メールの送り主は、いつも友達ごっこをしているユッコだった。
「なっちー、今日どうしたの?」
涙を流した顔文字が、私を小馬鹿にしているようだった。
「ちょっと具合悪かっただけだよ~。明日は行くから心配ナシ!」
私もユッコに合わせて相手を小馬鹿にする顔文字を添える。ユッコからはにっこりと笑った顔文字だけが返ってきて、その笑顔の裏に何かがあるような、おぼろげな恐ろしさを感じた。
いつものように窓際に立ち、夕暮れに染まる住宅街を眺める。
最近の自転車はオートライトが多いから、このくらいの時間にはもうライトがつく。
いつもと変わらない街並みを見ていると、自分一人が家に引きこもったところで何も変わりやしないのだと虚しい気分になってきた。
感傷的な気分を遮るように、ポーンと気の抜けたインターホンが鳴る。元はピンポンと鳴るものだったのに、いつからか壊れて変な音しか鳴らなくなったのだ。
郵便かな、と考えながら玄関のドアを開けた。
「なっちゃん? なっちゃんなの!?」
私が反応するよりも早く、突然の客は玄関に飛び込んできた。
大声でまくしたてる訪問者に呆気にとられながら、その人物を凝視する。
地味でよれよれの服に、ぼざぼさの髪の毛は後ろで一つにまとめられている。中途半端に頂上だけ黒い茶髪は、プリンのような印象を受けた。深く刻まれた皺は苦労の多さを示しているようでもあった。
それでも、その人が誰かはすぐにわかった。かつてとは全く容貌が変わってしまっているが、見間違うことはない。
「……香織、さん」
痛いほどに私を抱きしめる人に、五年ぶりにかけた言葉。相変わらず、感情が欠落していた。
香織さんの体がこわばった。私が「香織さん」と呼んだことに驚いたようだった。
私にとってお父さんが「お父さん」であるように、お母さんは「香織さん」なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。いうならば、名前のようなもの。
野暮ったい説明なんてしたくもないから、私は口には出さなかった。香織さんは自分なりになんとか理解したようで、はじける笑顔を取り戻した。
「なっちゃん、こんなに大きくなって……。つらかったでしょう、大変だったでしょう。ごめんね。母さんを許して」
――まぁ、体重があのころの倍以上になってますから。確実に大きくはなってますよね。
身長は相変わらず香織さんより低いのに、体重なら負けてない。香織さんの骨ばった腕に抱かれていて身に染みてわかった。香織さんの腕は私の体を回りきっていない。だから、抱きしめられているのかしがみ付かれているのかの判断が難しい。
無責任な物言いを無言で受け流す私に、香織さんは矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。その声は涙で潤んでいたけれど、どこまで本気かわからなかった。謝られたところで、はいそうですかと受け入れられるはずもない。少し力を込めただけで、香織さんの腕はすぐに離れた。近所迷惑にもなるので、開けっ放しにされたドアを閉めようとした。
香織さんの陰になっていて気づかなかったが、玄関の外には小さな男の子が不安げな表情を浮かべて立ち尽くしていた。その横には、大きなキャリーバッグが置かれている。
「ええと……君は?」
「なっちゃんの弟よ」
香織さんが鼻をすすりながら答えた。
――弟? この年になって、こんなに小さな兄弟を? この人はどういうつもりでここへきたんだろう。というか、この家の場所は香織さんには伝えてないはずなのに、どうやってここへ辿り着いたんだ?
理解を超えた展開に、思わず「弟」をだっこして微笑みかけてしまった。
「初めまして。お名前は?」
「たっくん。五さい」
ご丁寧に、聞いてもないことまで答えてくれた。きっとどこに行っても聞かれることだから、答えも定型化しているのだろう。
「タク君? よろしくね」
「タクじゃなくて太一のたっくんよ。ね?」
香織さんはおかしそうに笑っていたけれど、私は詐欺にでも遭ったような気分だった。
「それで……、何をしにここへ?」
「何をしにってことはないじゃない。私たちは母娘でしょう」
五年も絶縁していて、母娘などと呼べるのだろうか。はなはだ疑問ではあったけれど、私は渋々うなずいた。
「母さんたちも今日からここで住むから」
強引な言動にも負けぬほど俊敏に、香織さんはキャリーバッグの荷解きを始める。
大きめのキャリーバッグひとつ分しかない荷物は、みすぼらしいものがほとんどだった。必要最低限と思われる化粧品や衣類を私の部屋に運び込む。
香織さんは勝手にタンスを開けると、空いていた引き出しに次々と荷物を押し込んでいった。悲しくなるくらいスカスカだった私のタンスが、香織さんのみすぼらしい服でいっぱいになった。
「それにしても狭い家ね」
一通り荷物を片付け終えた香織さんが、家の中をぐるりと見回して感想を述べた。
私がこんな家に住まなきゃいけなくなったのは、あなたのせいなんですが。この件についてはどうお考えでしょう。
政治家に詰問する記者のように、胸の内で香織さんに問いかける。
私の不穏な気配に気づいたのか、たっくんは今にもぐずりだしそうなしかめっ面になった。覚束ない足取りで香織さんの元へ進み、太ももに顔をうずめた。
「お父さんは?」
「さあ。仕事かパチンコ」
どっちでも別に変わんないけど。
あの人が日中何をしてようと、私には関係ない。
「冷たいのね。……あら、空っぽじゃない」
勝手に冷蔵庫を開けた香織さんは、勝手に驚いた。
それ、びっくり箱じゃないし。いつものことだから気にしないでください。
「別に困んないよ。お父さんはお酒さえ冷えてれば十分みたいだから」
「困んないじゃないわよ。母さんが買い物行ってくるから、たっくんのこと見ててね」
急にやってきて母親風を吹かせた香織さんは、止める間もなく外へ出てしまった。
私は香織さんの後を追って玄関に向かい、衝動的に鍵をかける。口から飛び出そうなほど、心臓が暴れていた。
――これくらいのことで、どうして。
自分に問いかけても、乾いて引きつった笑いのような、筋肉が痙攣する感覚しか得られなかった。
香織さんが出かけてから三十分が経った。お絵かきをして遊んでいたたっくんが、いつの間にか画用紙に突っ伏して寝気を立てている。
スナック菓子の袋に残った最後の人かけらを口へ放り込んで、押し入れにあるはずのタオルケットを探そうと気合を入れて立ち上がる。
たっくんの眠りを妨げるように、玄関の扉がガタン、と音を立てた。扉の外の人物は、二、三度引いた戸に鍵がかかっていることにようやく気付いたようだ。
――香織さん、怒るだろうなぁ。開けようか。それとも、たっくんと一緒にお昼寝しちゃおうか。寝ちゃった方が楽だよねー。
小さな体を抱き上げると、思った以上の重量感に腰がずきりと痛む。それでも、できるだけ音をたてないように自分の部屋へと忍び込んだ。タオルケットを出す前で本当に良かった。
ガチャリ。
鍵穴に鍵の刺さる音だ。私は混乱した。
――香織さんは鍵なんて持ってないはずなのに。いつの間に? どうしよう。お父さん、早く帰ってきて。早く、早く……!
普段なら全く信用できないのに、こういうときにすがれる人はお父さんしかいないんだ。そう考えると虚しい。
「帰ったぞー。いないのか?」
玄関から聞こえたのは、間の抜けたお父さんの声だった。安堵に包まれた私は、寝起きを装うために髪に指を通しながらリビングに出た。
こういう機嫌のいい日は、パチンコで勝った日だ。
「勝ったの?」
キッチンに入って水でも飲もうと、通り過ぎざまに玄関を見た私は硬直した。
お父さんの隣には、香織さんが立っている。それどころか、香織さんのものであろう買い物袋を、お父さんが手に提げている。
「そこの道で偶然会ったのよ」
香織さんが、嬉々として言い放った。お父さんまでまんざらでもない様子だ。
――気持ち悪い。
とっさに浮かんだ思いは、その一言に尽きる。
「……そ。たっくん、寝てるから静かにして」
黙れ、という言葉はなんとかオブラートに包むことができた。香織さんはまた嬉しそうに笑った。
「なっちゃんったら、ちゃんと弟の面倒が見れるのね」
幼稚園や小学校のガキじゃあるまいし、馬鹿にするのもいい加減にしてください。
額に青筋でも浮いてやしないかと不安になりながら、私は引きつった笑顔を作る。そして、「まあね」と穏やかな声を絞り出した。
突然舞い戻ってきた香織さんに、お父さんが文句を言うことは一度もなかった。ただニコニコと愛想を振りまく姿は、えもいわれぬ気味悪さだった。かつて自分を捨てた女が飄々と同じ屋根の下に戻ってきたというのに、よく安穏と暮らせるものだ。
まったく、感心しすぎてかける言葉もない。
香織さんはといえば「家庭的なお母さん」を装うため、毎日熱心に朝と晩のごはんを作った。おまけに昼間にはスーパーでレジ打ちのパートをしているという。
お父さんに安定した収入がないから、そうやって家庭にお金を入れてくれるのは助かる。慰謝料もない離婚だったから尚更だ。
それと同時に、ある種の気味悪さを覚えた。
――出来すぎている。「お母さん」だった頃だって、こんなに家事を熱心にしていなかった。むしろ、働くなんて思考の片隅にも浮かばないような人だったと記憶している。
香織さんが改心するような出来事があったか、よからぬことを企んでいるか。
子どもとしては前者と信じたいが、信じるに足る材料がない。お父さんは香織さんのことをどう思っているんだろう。たっくんは?
聞きたい。けれど、お父さんやたっくんがいる時間帯には香織さんもいる。正面切って聞ける内容でもない。
思い悩む私をよそに、窓の外の蛍たちは道を行き交う。そういえば、今日は仲良し三人組のうち一人がいなかった。前に賭けをしていた停学が、現実のものになったのだろうか。
いずれにしろ、私には関係のない世界での出来事だ。
窓を開けっぱなしにしていると肌寒い季節になってしまったおかげで、よっぽどの大声で話していない限り蛍を操る人たちの肉声は届かない。
またひとつ、私と他の人たちの間に距離ができた気がした。