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3、鍵を閉めた

 選択を間違えたと、何度も思った。


 あれは私が小学校三年生の時のことだ。仕事中の事故でお父さんが入院していたはずだから、たぶん五月の末かそのくらい。その時はまだ、香織さんは「お母さん」だった。


 香織さんと二人きりの食卓で、私の好きなコーンシチューを食べていた。香織さんの作るシチューは美味しくて、ついつい何度もおかわりしてしまう。

 シチューに夢中になっている私のもとへ、香織さんは知らない男の人を連れてきた。男の人に、三人でどこかへ出かけようと誘われた。遊園地でもケーキ屋さんでも、私の行きたいところならどこへでも連れて行ってくれると言っていた。なぜか嫌な予感がして、私は外出を拒んだ。

 香織さんは寂しそうな、残念そうな顔をして男の人と出かけて行った。その日から、香織さんが帰ってくることはなかった。


 そういえば、あの頃は体重も今の半分くらいだったっけ。それでもクラスでは太いほうだったけど。五年で倍とか、冗談でもきついわー。

 お父さんが退院するまで、私はおばあちゃんの家でコロと一緒に暮らした。あの時のコロは、香織さんに捨てられて傷ついていた私を癒してくれる存在だった。


 ――と、コロのことに辿りついて思考が停止した。

 コロ。一週間前まで我が家ではしゃぎまわっていたのに、どうして。


 ついさっき、おばあちゃんからコロが死んだという電話がきた。コロが車に轢かれた、と。

 道路を挟んだ向こう側に仲の良い犬がいて、走り出したらしい。車が来ているのに気付いたおばあちゃんはリードを引っ張ったけれど、コロの力には勝てなかった。リードは手から抜け出して、ブレーキの間に合わなかった車に見事に撥ねられたそうだ。


 信じられない。おばあちゃんちに行っても飛びついてきてくれないなんて嘘だよね? 死んじゃうのなんて、まだまだ先のことじゃないの? お願い、嘘だって言ってよ。遊んであげるから、またうちへ来てよ。


 泣き喚いていると、呆れたようなお父さんの声が私をなだめた。お父さんにはわかるはずないよ、私の気持ちなんか。

 どうして、大切なものばかり遠くへ行ってしまうんだろう。

 蛍を見る気分にもなれない。今日だけは、カーテンを閉め切ってベッドに飛び込んだ。




「蛍、きれいね」


 女の人の声が言う。その声に呼応するかのように、黄緑色の淡い光が明滅した。


「そうだね」


 私は返す。蛍は光らなかった。

 ざわざわという木の葉が擦れる音が、私と女の人を包んでいた。


 ――この人、だれだっけ?


 隣に立つ人は、私よりも頭二つ以上背が高い。いや、私の背が極端に低いのだ。

 そうだ、これは五歳の頃の記憶じゃないか。じゃあ、隣にいるのはお母さんなんだ。


 お母さんが、お母さんだったころの夢。お母さんの生まれた家に行った時の記憶。

 縦横無尽に飛び交っていた蛍は、だんだんと一所に集まり始めていた。


「ほーら、見てごらん」


 お母さんが言うと、蛍が何かの形を作り始めた。蛍は一つの大きな光の塊になると、だんだんと人の形になっていく。

 その人は、お母さんと出て行ったおじさんだった。お母さんはいつの間にか派手な化粧の「香織さん」になっていた。


 私は恐怖のあまり泣き出した。


 このままじゃ置いて行かれる。ここはどこ。置いて行かないで。私も一緒に連れて行って。


「なっちゃん」


 香織さんが私を呼んだ。


「お母さんと一緒に行く?」


 あの時と同じ問い。私は首を縦に振ろうとする。

 けれど、体が思うように動かない。


「行かないの」


 香織さんが残念そうに眉をひそめた。

 行く。口を動かしても、声帯は連動しない。

 私が戸惑っている間に、香織さんは光でできたおじさんに手を引かれて遠ざかっていく。


 待って! 置いて行かないで!

 泣きながら手を伸ばしても、香織さんが立ち止まることはなかった。




 頬に冷たいものが伝って、目を開けた。息苦しいと思ったら、顔の半分くらいまで布団がかかっていた。

 ベッドの上に転がったはずなのに、どうして布団をかぶっていたのだろう。

 不思議に思いながら、カーテンを半分ほど開けた。日の出前のほのかな光に照らされた布団は、押し入れにしまってあるはずのものだった。


 ――ということは。


 布団をかけてくれたことよりも、無断で部屋に入ってきたことに腹が立った。

 よく考えれば、悪いのはお父さんじゃないか。お父さんがもっとしっかりしていれば、お母さんが香織さんになることはなかった。お父さんが事故に遭わなければ、香織さんが出ていくこともなかった……はずだ。


 なのに、どうして私はお父さんと一緒にいるんだろう。そりゃ、今の私一人では働いて食べていくことは難しい。けど、無理すればできないことでもない。

 要は甘えなんだろうなぁ、と天井を見つめながら思った。途端に自分が忌まわしく思えてくる。


 その日、私は部屋の戸の鍵を閉めた。

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