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1、悪魔のような黒い影

「何してるんだ?」


 お父さんに声をかけられて、私は気のない声を返した。

 上の空の返事が気に食わなかったのか、お父さんがずかずかと歩いてくる。ボロの床板が、悲鳴のようなきしみでどの辺りまで迫ってきているかを伝えてくれた。

 私の隣にお父さんが並ぶ。窓ガラスに映る姿を見ないように、目の焦点をずらした。


「窓の外なんか見てて楽しいか」

「楽しいよ。そっちにいるよりは、何倍も」


 我ながら感情のない声だと思う。私の吐いた毒にひるんだのか、お父さんは「ぅぅ」と吐息交じりにかすかな声を漏らした。


 ――電気のついた居間に背を向けて、真っ暗な部屋で窓を眺めていればさぞ怪しかろうね。そんなことは百も承知だから早く出て行ってください。


 背中で語りかけてみても、毒に侵されたお父さんは動かない。

「背中で語る」なんてよく言うけれど、案外難しいもんだなぁ。なんて考えていると、煙草くさい呼気が降ってきた。

 いつの間に吸うようになったんだろう。


「何か見えるのか」

「蛍」


 面倒だから、適当に返す。お父さんが馬鹿みたいに口を開けているけど、そこは無視で。


 ――煙草くさいんで、早くどっかに行ってください。


 口に出したくても、のどが張り付いていて声が出ない。煙草による健康被害だ。……ま、言ったら言ったでお説教だから、胸にとどめておいたほうがいいかもね。

 窓の外を眺めながら考えていると、お父さんに叱られた。


「何を馬鹿なこと言ってんだ。こんな住宅地に蛍がいるはずないだろ」


 ――はいはい、私の方が馬鹿でした。


 心の中でばんざいをしながら、家の前の道を横切る蛍を指差した。


「いっぱいいるじゃん」

「……ただの自転車じゃないか」


 乾いた言葉だった。当然といえば当然の反応なのだろうけれど、面白くもなんともない。


「私にとっては蛍なの。いいでしょ」


 また一つ、過ぎ去る光を見つめながらこぼした。


 蛍が見えるピークは、夕方の六時頃だ。うちの近くの中学校の部活が終わる時間がだいたいそのくらいだから。中学生の力強い明りと、門限ギリギリまで遊んでいた小学生の可愛らしい光が交差する時間。

 次が七時過ぎ。高校生が勉強や部活を終えて帰宅する頃合いなんだろう。にぎやかな声と一緒に、いくつかの光が一緒に動く。

 その後はかなりまばらになって、夜中になると酔っぱらいのおじさんがフラフラと進んでいく。たまに下手くそな歌を歌ってる人なんかもいて、見ていて飽きない。

 どの蛍にも彼らなりの人生があって、一瞬だけそれを垣間見る。些細なことだけれど、やめることのできない習慣だった。


「くだらないことしていないで、さっさと夕飯食え」

「いらない。おなか空いてないし」


 三つの光が近寄ったり離れたりしながらやってきた。

 彼らは仲良し三人組だ。いつもこのくらいの時間にここを通る。誰それの彼女がどうとか、流行りのアイドルがどうこうとか、いつもそんな話をしている。勉強や部活の話題が聞こえてきたことはなかったはず。

 きっと彼らは学校では落ちこぼれと呼ばれている部類なんだろう。学校の話題が聞こえたと思ったら、三人のうち次に停学を食らうのは誰か、なんて賭けをしていた。


 光が見えるのはほんの数秒だけど、声はもっと長く聞こえる。遠ざかって聞こえなくなっていく余韻がなんとも言えなかった。

 仲良くもつれ合う蛍を見ていると、たまにうらやましいと思うことがある。私も蛍の一つになって、あの群れに混ざりたいと思うことがある。


 ――あそこは私の生きる場所じゃない。私はあそこに入れない。


 自分に言い聞かせてみると、涙の代わりに乾いた笑いが込み上げてきた。


「何笑ってんだよ、気持ち悪い」

「いいじゃん」


 まだそこにいたんだ、とか言ってやろうかとも思った。けど、怒られるのは面倒だ。そっと口をつぐんで、視界を横切る蛍を凝視した。

 ずっと隣にいられると、落ち着いて景色を眺めてもいられない。

 気を抜くと、ほら。窓ガラスが鏡になって、私を映し出す。くっきりとした二重あごに、満月のような丸顔。何を思ったかショートカットにしたせいで、丸顔が際立っている。胴体まで合わせてみれば、さながら鏡餅だ。


 いてもたってもいられなくなって部屋を出ようとすると、犬が吠えながら飛びついてきた。とっさに防衛態勢に入りながら、そういえばうちには犬がいたんだっけと思い出す。

 黒いレトリーバー犬のコロは、明後日までの期限付きのお客様だ。

 おばあちゃんちのコロは、甘えんぼで遊んでもらうのが大好き。小さくてコロコロしていたのが名前の由来だったけれど、いつの間にか小学校中学年くらいの子供に負けない体格になっていた。自分の大きさがちゃんとわかっていないのが玉に瑕だけど、今じゃご近所のアイドルになっている……らしい。


 私が小さい時に子犬だったコロとよく遊んでいたから、私のことは自分の兄弟のように思い込んでいるんだろう。

 でもね、私はアンタの兄弟じゃない。


 力ずくでコロを押し込めて、何とか部屋を脱出した。舌をだらりと垂らしたコロは、下品な呼吸を隠すことなく、私の後ろをぴったりとついてくる。

 食卓にはビニールがかかったままのカップ麺と、お湯の沸いたポットが置かれていた。定番とはいえ、相変わらず食欲をそそらない夕飯だ。

 香織さんがいた頃は、このテーブルの上にも温かい手料理が並んでいたのに。料理を勉強しようかと思ったこともあったけれど、初めて卵焼きを作った時のことを思い出してやめた。


 ――『なんだこの炭みたいなのは』。


 お父さんの言葉は、胸に突き刺さったまま消えない。

 その時は香織さんがかばってくれたけれど、お父さんは気まずそうな顔をして箸を置いてしまった。

 だいぶ後になってから、香織さんが焼くのに失敗したと勘違いして思わず言ってしまったのだと弁解された。あれから何年も経つのに、テーブルを見るだけで思い出してしまう。


「食べる気になったか」


 お父さんが私の部屋から出てきた。

 作ったわけでもないのに嬉しそうな声なのが癪に障って、振り返りたくなかった。


「トイレ」


 しっしとコロをいなしながら廊下に出る。

 振り向いて見た居間と廊下を隔てる擦りガラスのはまった扉には、尻尾を振りながら私を待つ悪魔のような黒い影があった。




 居間へ戻れば、待ってましたとばかりにコロが飛び掛かってくる。

 私は踏ん張って持ちこたえようとしたけれど、コロに押し倒されてしまった。大型犬のパワーを甘く見すぎていたようだ。

 ドスンと音を立ててしりもちをつく。自分の倍以上の体重がある私を転ばせるなんて、コロも恐ろしい存在になった。

 無遠慮に顔をなめまくるコロに手を振り回して抵抗していると、お父さんがコロを抱き上げてどかしてくれた。


「この犬どっかにやってよ」


 腹立ちまぎれに訴えると、お父さんの視線が急に鋭くなった。


「コロはおばあちゃんのとこの犬だろ。どっかにやるなんて言うな」

「おばあちゃんの犬なんだから、おばあちゃんのとこに置いておけばいいんだよ」


 自分の言い分がどれほど幼稚かは知っている。

 コロがここにいるのは、おばあちゃんが友達と旅行に行っているからだ。誰もいない家に何日も放っておけないから、うちで預かった。もちろん私も同意した上でだ。

 コロがうちに来ると決まった時は嬉しかった。懐かしい友人が泊りに来るような気分だった。


 ――コロちゃんは元気な子だから大変かもしれないけど、よろしくね。


 おばあちゃんの予言は、見事に的中していた。

 遊びに行くたびに構って攻撃が激しいコロだったから、多少のことは覚悟していた。ただ、コロは私の覚悟のさらに上を行く強敵だったのだ。


 朝と夕方の二回散歩に連れて行っても、まだ遊び足りないらしく家の中でもじゃれついてくる。私とお父さんが同時に家を空けると、不満爆発のコロがゴミ箱をひっくり返したり、クッションを引きずり回したりと暴れまくった。それでいて、私たちが帰ってきた途端に申し訳なさそうな顔をして、玄関に出迎えに来る。妙に哀愁の漂う雰囲気を醸し出すせいで騙されそうになるが、私は菩薩ではない。

 説教をしながら、コロが散らかしたクッションをソファに投げて戻す。それを遊びと勘違いしたコロが、クッションに飛びつく。私がさらに声を荒げる。実りのない説教を終える前に、私が根負けして遊んでやる。これが毎日の習慣となってしまったのだ。

 そのせいで、壁の薄い両隣の住人からは迷惑そうな冷ややかな視線を浴びせられることになった。


 おばあちゃんは、おじいちゃんが亡くなった時に寂しさを紛らわせるために人懐っこい犬を選んで飼ったらしい。おかげで暇だとか寂しいだとかと感じることはなかったようだが、七十を過ぎてからこんなパワフルな犬と暮らすのは体力的に大変だろう。

 じゃれつかれただけで息が上がってしまう私には、コロと暮らすことが不可能に思えてならなかった。


 私が部屋にこもると、お父さんの低い悲鳴が漏れ聞こえた。またコロが飛びつきでもしたんだろう。

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