涙
茉莉と亮が楽し気に喋っている。何の話をしているのか、谷瓦瑞穂は少し興味がある。あのカップルはいつも楽しそうだ。まるで自分とその周りの連中全てが幸福だと思い込んだいるかのような。
気に入らない。
瑞穂は最近別れたばかりだ。瑞穂が振ったのだ。理由は、なんとなく合わなかったから。
彼は今頃別の彼女でもできただろうか。振ったあとではどうでもいいのだが、少しだけ気になった。
――まあいい。そんなことより、雨野だ。あの屑をどうにかしないと。生徒達は未だに怯えている。転校した者もいるし登校拒否した者も。雨野さえ捕まればもうそんな生徒を出さないですむ。
雨野はどこかに隠れているという噂を瑞穂は聞きつけた。雨野は必ず見つけ出して警察に突き出してやる。その気持ちは雨野が実際に捕まるまで減じることはないだろう。学び舎の神聖を暴力で持って台無しにする。こともあろうにそれを勉学を教える教師が、である。昨今は生徒も教師もどちらも狂っている。生徒を守らず、導かず、自殺に追い込む教師。教師のことを全く敬わない生徒。しかしそれは、敬うに足るだけの教師がいないのも事実だろう。
そんな連中は駆逐するべきだ。瑞穂にはわかる。彼らのような狂気は、同じ 狂気で持って報いを受けて貰おう。
茉莉と亮はまだ喋っているようだ。くだらない。興味は、不愉快さに変わる。鞄を持ってさっさと帰宅する。
「馬鹿ばっかりだ」瑞穂は呟いたが、自分がさほど賢いとも思えなかったので、自分も含めてと心の中で呟いた。
階段を降りる。二階へ。もう残っている生徒は僅かなようだ。トイレに行きたくなった。だから、瑞穂は二階のトイレで用を足すことにした。
トイレの中には誰もいない。がらんとしている。磨りガラスから差し込む夕日のせいなのか、少しだけ不気味に感じた。そもそも誰もいないトイレなんてこんなものだろう。瑞穂は個室に入り、スカートとパンツを脱ぎ、小用を足した。そういえば今日は一度もトイレにいってなかったっけと瑞穂は思った。いつもなら昼休みには必ずトイレに寄るのに。よく我慢できたものだ。
個室から出ると、瑞穂は黒いマスクを被った狂人を視界に入れた。
男だろう。体格からみて、間違いない。私服だが、若い格好だ。チャラチャラとした。まるで元彼のように。
ナイフを突きつけられ、瑞穂はぎょっとした。しかし、彼女は落ち着いて個室に再び戻り、鍵を掛けた。
慌てない。彼女は冷静にバックから痴漢撃退スプレーを取り出す。他にもスタンガンすらある。雨野をやっつけるために用意したものだ。個室の外にいる男は雨野ほど体格はない。落ちつけ。
一気に扉を開け、相手のマスクから出ている目にスプレーを吹きかけた。
悲鳴。
笑いが出そうなくらい上手くいった。瑞穂は外に出た。
それから? 廊下で助けを呼ぼうにも、誰もいない。
そうだ。教室に戻ろう。まだ教室を出てから数分程度だ。茉莉と亮がいるはず。
階段を駆け上がる。そして自分の教室に駆け込んだ。
息を切らす。茉莉と亮はいたが、まだお互いの話に夢中なようで、全速力で 駆け込んできた瑞穂に気づいていないようだ。
なんだこれ。瑞穂は二人を見て愕然とする。
普通ここはどうしたのって駆け寄るところだろ?
茉莉が瑞穂を一瞥したが、特に取り上げる気はないようだ。
だがとにかく助かっただろう。廊下を確認する。覆面の男の姿は見えなかった。
あいつ、何であんなことしてるんだろう。瑞穂はふと思い当たった。
雨野の模倣犯。
彼女はひとり、にやりとした。その笑みはどちらかというと冷笑だった。
くだらない。低俗な奴だ。
しかしその日はうろつきまわる男の姿が浮かび、なかなか教室から出られなかった。
陶矢は知っていた。雨野の隠れ家を。それは偶然のことだった。下校のとき、買い物ついでにいつもより手前でバスを降りた。そこから歩いて目的の場所まで向かったのだが、偶然陶矢は雨野の姿を目撃する。隠れてこそこそと動く男は明らかに挙動不審だったが、この辺りは人もいないのであれでもなんとかなるのかもしれない。
しかし陶矢はわかった。あの体格は間違いなく雨野だ。短髪を少し伸ばしてメガネを掛けているが、そんなものは知人ならなんの誤魔化しにもならない。
絶対にいまの寝ぐらをみつけてやる。というほどの気概はなかった。ただ、クラスの無抵抗の女子に得物を持って暴行するという鬼畜の所業をやる人間がいま何をしているのか、単純に興味が湧いた。
陶矢は雨野を尾行した。そして彼が曲がり角を曲がると陶矢も少し遅れてまがった。
追跡するというスリルは、これが遊びならなかなか楽しいかもしれないがあいにくこれは実に危険な追跡だった。だから陶矢は途中で諦めようとした。 雨野は背は低いが肩幅がある。熊のようなみためだ。ここで尾行がばれ、逆にこちらが追跡でもされたら危険だ。
怖い。近くにひと気が全くやいということは、それだけ危険ということじゃないか。陶矢は足を止めた。そして反転しようとするも、雨野はとある家に入っていく。廃屋と思ってしまうほどの木造のオンボロだ。昭和の香りがするなと陶矢は思った。ふだんなら全く意識を向けない建造物だ。
表札などはないようだ。
誰かが住んでいるところを間借りしているのか、それとも本当に廃屋か。ともあれ、ここに警察を呼べば雨野は逮捕。一件落着だ。
少し離れた場所で携帯電話を取りだす。アプリで現住所を確認。それから警察に通報する。しかしその前に陶矢は強烈な一撃を頭部に喰らい、倒れてしまう。
一体何が起きたのか。目を覚ました陶矢はロープにくるまれ、口もガムテープが貼られていた。鼻呼吸しかできないなと陶矢はそのことに不安を覚えた。
汚らしい木造の、畳張りの部屋だ。すぐに察しがつく。先程発見した雨野の家。
しかしどういうわけだ? 雨野に尾行がばれていたのだろうか。目の前の雨野と、覆面の男をみながらどこか冷静な頭がそんなことを思考していた。
「目覚めたな」覆面がいった。
「逃がして欲しいなら、このことを黙認しろ」
雨野は本気の声を出していた。知っている生徒にかけるものではない。敵となったものにかける声だ。その敵意が今の弱った心の陶矢には辛かった。
陶矢は仕方なく頷いた。ここは頷くしかないだろう。
「本当か? いっておくけど、俺は本当に殺すぜ」
覆面の正体はわかった。声は無理して変えているようだが、所詮、無駄な足掻きだ。
「じゃあ……テープをとってやる。大声あげたらこれでお前の喉をついてやるからな」
覆面はナイフをひらひらさせた。陶矢は頷く。
ガムテープが外され、陶矢は痛みに声をあげそうになった。
「俺が誰だかわかるよな?」
覆面の質問に陶矢は戸惑った。イエスかノーか。正直にいったほうがいいのか。
「わからない」陶矢は嘘をついた。
覆面が取られ、その正体が露わになった。
察しの通りだった。その目に孕んだ狂気は高校でみるものとは随分違ってみえた。狂人側に傾いている者の顔つきだ。
「なんでなんだ?」質問は手痛いお返しが伴うかもしれない。だが陶矢は質問せずにはいられなかった。
「別に。女ってのはくだらない生き物だろ。適当にぶん殴ったり、サンドバックのように扱えばいい。お前はそう思わないのか? あいつらはあっさりと男を乗り換え、過去の男のことは思い出と一緒に忘れちまうんだ。そうだ、忘却するんだ。だから俺は雨野先生の報復を絶対的に支持する」
狂ってるのか、狂気に包まれたいのか。顔つきを見る限り狂気を孕んだその目は、よくみると理性的な面があるような気が、しないでもなかった。
狂いたいんだろう。自分でもめちゃくちゃな理由を盾に、暴走したいんだ。 振られた腹いせがしたいんだ。
情けない。陶矢は情けなかった。気が重くなる。
「復讐なんてやめようぜ洋次」
洋次は笑った。その笑いで陶矢は説得を諦めた。
「帰してやるよ。ここの場所をタレ込んでみろ。家族もろとも皆殺しにしてやる」
固執ってのは無意味なものだ。執念は何かをやり通すかもしれない。しかし、もう届かないものを必死に手繰り寄せようとしても無駄なのだ。忘れて、別のものを探すしかない。
頭ではわかっているんだ。陶矢は自己憐憫の笑みを浮かべる。
「何を笑ってるんだ、こいつ」雨野が不思議そうにする。
「こいつも俺たちと一緒なんだ。立ち直れないんだよ。そうでなければこんな場面で笑わない」
そうかもしれない。陶矢はその後で否定した。一緒にするな。
「俺を帰してくれ洋次、雨野先生。絶対にここのことは言わないよ」
「まあ、もう場所を変えるから無駄なんだけどな。俺と先生の繋がりだってわからないようにする」
まず雨野が次なる住居へと移ったようだ。それから陶矢は解放された。携帯は没収された。一応、もう少しだけ時間を稼いだ方がいいだろうと洋次が判断した。学校で返すと約束したのだ。
ふらふらとした足取りで陶矢は家へと帰った。通報はしなかった。携帯は確かに、次の日に手渡された。
雨野が再び襲撃した。今度は一月経ってからだ。陶矢の斜め前の坂上萌。木製のバットの一撃で萌は倒れた。寝入っている女子の頭部に仮借のない一撃というのはどうなのだろう。あまりにも非人道的すぎないだろうか。もう雨野はこないだろうと思われたときの、衝撃的な事件だった。
いつもなら陶矢は驚くだけだ。しかし今回は違った。激しい怒りを感じていた。陶矢は立ち上がり、それから全速力で逃げていく雨野を全速力で追った。あいつは生かしておけない。陶矢はそれくらい腹を立てていた。追いかけているうちに冷静になってきた。
なんでだ?
日常が壊されていくのが喜びだったはずなのに。
陶矢は単純にクラスメイトの女子に危害を加えられたことに腹を立てていた。少し前の自分では考えられない感情だった。
回復したのだろうか。
雨野はいなくなっていた。三階まで追ったのだか、窓から伝って逃げたようだ。もちろん、そのままでは死んでしまう距離だ。そばにある木を使って地面まで伝ったようだ。
「よくやる」陶矢は荒い息をつきながらそう呟いた。
雨野を単独で追いかけた陶矢はクラスメイトには喝采を浴び、警察には細々と事情聴取をされた。一人配備されていた警備員は首になり、二人が配備された。警察はかなりの数のパトカーを動員して周辺を探っている。躍起になっているのだろう。
陶矢は放課後、亮と茉莉に追走劇のことを聞かれた。二人とも目を輝かせている。
「すごいな陶矢。映画の主人公だ」亮が陶矢の肩を叩く。
「陶矢は最近熱血漢なんだねぇ」
茉莉が笑っている。しかし、その目は亮を見ていた。
亮と茉莉は散々陶矢で盛り上がると、仲良く帰っていった。
陶矢は気分が悪くなった。彼らとは違い、陶矢は生気を吸われたかのように落ち込んでいった。
彼女に別れたいと言われたときはよくわからなかった。青天の霹靂。一瞬、自分の世界が閉じたかのような感覚。
どうして、といったら彼女はあっさりと、他に好きな人ができたと答えた。
泣いたのは帰ってからだった。彼女はこちらの返事も待たず、もうそれで陶矢との関係は終わりだといわんばかりに笑顔で去ってしまった。あまりにも唐突に、陶矢の恋は終わった。そして陶矢はさらなる衝撃を覚えた。別れた彼女はすぐに新しい男と付き合っていた。その男は同じクラスメイトで、それが陶矢に追い打ちをかけた。
高校生というのはまだまだ子供だ。恋愛なんて稚拙なもの。そんなふうに陶矢は考えられない。陶矢にとって、彼女は何よりも大事なものだった。そしてそれは奪われた。何かによって奪われたのではなく、自然にそうなってしまっていた。
悲しみは陶矢を無気力にした。
帰り道、陶矢はいつもと違ってクラスメイトの大川大門と駅まで一緒だった。彼は陶矢の追走に感銘を受けたようだ。雑談をしていると駅までついた。彼と別れ、電車に乗る。
「陶矢、雨野の居場所、興味ない?」
驚いて振り返る。そこには陶矢も知っている人物がいた。谷瓦瑞穂。
陶矢は周囲を確認する。大丈夫。人は他にも数人いるが、みんな寝ているか曲を聴いていた。
「なんで知ってる?」
「あんた、あいつらに捕まったじゃん。だから尾行してたんだ。すぐ助けてやろうと思ったけど、元彼を警察に引き渡すのは酷いかなって思って。御厨が死ぬのも困ったけど、迷ってたらあいつらがでてきて、あんたもでてきた。チャンスと思って雨野の追ったの。雨野の居場所は特定したけど、元彼はなるべく被害が被らないようにしてあげたかった。だからしばらく様子をみることにしたんだ。だけど今回の襲撃で考えを改めたよ。あいつは絶対に生かしておくべき存在じゃない。あたしがケリをつける」
考えを巡らし、そしていま彼女が言った意味に気付いた。瑞穂は踵を返して去ろうとしていく。陶矢は彼女に慌てて駆け寄い、肩を掴んだ。
「待てよ! 何をする気だ?」
「別に。あたしのやりたいようにするだけだよ。助けはいらないから」
「警察に任せておけばーー」
瑞穂はぎらついた銀色を見せた。ナイフだ。鋭利なものだが、果物ナイフだ。
「それであいつをやる気か?」
「あいつには其れ相応の報いを受けてもらうだけだって。陶矢には関係ないよ」
そんなのでやれるのか? 雨野は女を不意打ちで襲う卑怯者だが、強いことは強いのに。
しかし陶矢は瑞穂の本気の目に凄まれて何もできなかった。こいつは完全に狂ってる。下手なことをすればこちらにも刃物を突き立ててくるかもしれない。
もう瑞穂は見えなくなった。
どうすればいい?
そのとき、背後から声を掛けられた。
「よう、英雄。何してんの?」
「こんなところで一人で立ち尽くして。なんか陶矢って変なところあるよね」
亮と茉莉だ。
ここにきてのこの二人の登場に、陶矢は運命的なものを感じた。二人を見ていると吐き気がするが、いまはなんだか頼もしく思えたのだ。不思議だった。不快さは残るも、陶矢は彼らに救いを求めることにした。
最近陶矢に起こったことを二人に話す。時間がないので要点だけだが、伝わったようだ。
「なるほどね」
亮がいつになく真面目な顔をした。「陶矢。お前はどうしたいんだ?」
「雨野は警察にいくべきだと思う。最低な野郎だけど。瑞穂が手を汚す必要性も感じない」
亮は真剣な面持ちで頷いた。いつもなら殴りたくなる亮がまるで友人のようにみえた。
「なら瑞穂を止めよう。全く、厄介な女だぜ」
三人が外に出ると車がとまっていた。どうやらそれは亮の兄の車のようだ。
「いいだろ? 呼び出しといたんだ。頼りになるにいちゃんだよ」
三人は弱腰の亮の兄の車に乗り、気弱なわりに荒い運転に少し驚きつつも瑞穂を捉えた。
「この近くに雨野の隠れ家もあるの?」茉莉が訪ねてくる。
「ああ。すぐそこだ。あいつを止めないと」
車を先回りさせ、陶矢と亮、茉莉は瑞穂の前に立った。瑞穂は驚いた様子だ。
「陶矢、邪魔しないで。鬱陶しいのも連れてきて」
「同感だけど、俺はお前に犯罪歴を残したくないんだ。雨野は刑務所にぶち込まれればいい。だけどお前やお前の元彼はまだやり直しせる。関係も修復できるだろ?」
「あんた、何もかもわかってるんだね」
陶矢は頷いた。
これは壮大な仕掛けだ。こいつらの復讐劇に雨野は利用された。洋二は雨野を利用して瑞穂に危害を加えようとした。瑞穂は雨野を利用して洋二を刺し殺そうとした。理由は、瑞穂が朝倉響子と付き合ったから。別れの理由が響子にあると洋二は勘付いた。同性が好きということをばらされたくない瑞穂は洋二を始末、あるいは遠くにやりたかった。
「お前らと響子がキスをしてるのを目撃したことがあってね。まあ、俺は別に恋愛観は自由だと思ってるから、そんなのはどうでもいい」
「だけどあたしの最愛の人は雨野に殴られて、病院送りにされた。それから あとで洋二の差し金だとわかった。自分の元の恋人にやられたんだ。恋人を! こんなに悔しいことってある?」
瑞穂の目から涙がでていた。瑞穂とは中学からの仲だが、こんなにも極端な激情家だとは知らなかった。
陶矢は彼女の気持ちになって考えようとしてみた。恋人を突然鈍器で叩かれる。かつての陶矢の恋人と置き換えてみる。確かに強烈な出来事だ。怒りと強い哀しみが押し寄せるだろう。そしてあとは激情の波に身を任せるかもしれない。
だがそれでも雨野を私刑にするのは許されないことだと陶矢は感じた。瑞穂があんな糞野郎の犠牲になることはない。
「どけよ! どかないならお前も刺すぞ」
彼女はおそらく本気だろう。目が座っていて、尋常じゃない殺気を感じる。
「こいよ」陶矢は静かにいった。「お前を殺人犯になんてさせないからな」
「偽善者ぶんな!」
陶矢は彼女が本気で果物ナイフで刺してこようとしてきたのに驚いたが、予想はしていたのでなんとか後方に回避することはできた。だがそうそういつまでも躱せるものではなさそうだ。
再び、一突き。陶矢は自分に果物ナイフが触れる前に彼女の手を掴み、強くねじった。瑞穂は悲鳴をあげてナイフを落とした。
亮と茉莉が不安げな様子です近づいてきた。
「亮、茉莉 抑えてろ!」
陶矢の怒鳴り声に二人ははい、と答えて瑞穂を抑え、動けなくさせる。
「ケリは俺がつける」
陶矢は瑞穂の果物ナイフを拾った。それをどうするのか、彼にもわからかった。ただ、陶矢はそれを手に雨野の隠れ家へ駆けた。
雨野は一人、薄暗い部屋の中にいた。彼はヘッドフォンでテレビを観ていた。DVD機器も回っており、なんらかの映画か何かを観ているのだろうか。
みたところ雨野はアダルトな映像を観ていた。彼は右手で手淫をし、果てるとティッシュで自分の陰部の白い汚れを拭き取った。
ヘッドフォンを付けていた雨野はガラスの割れるような音が聞こえなかったようだ。ヘッドフォンを付けながらも部屋全体に響くほどの大音量で女の演技の声を聞いていたせいだった。
そのせいで雨野は対応できず、声に反応して振り返り、頭部に鈍器の一撃をもらって意識を失った。
雨野の目が覚めた。彼は床に転がった灰皿をみている。それが彼の意識を奪ったものだと理解したのだろう。そして自分の両手両足が紐で幾重にも縛られていて身動きとれないこともわかっただろう。
「お祈りの時間だ」
陶矢はそういって軽く笑った。そんな漫画じみた台詞を使いたかったのに実際に使ってみるといかにも漫画的だと実感でき、それが面白かった。しかしすぐに真顔になると、雨野の喉に果物ナイフを突きつけた。
「さあ、選べ。このまま俺の手によって殺されるか、それとも赦しを乞うて 刑務所にいくか。三十秒以内に選べ」
携帯電話が鳴る。亮から再び、心配のメール。問題ないと伝える。
「どっちだ?」
「自首するよ」
陶矢は彼の顔面を強く蹴った。陶矢は靴を履いていた。雨野の鼻から血がでる。
「あんたは自首なんてできない。警察を呼ぶのは俺だ。あんたは俺に赦しをこい、そして警察に捕まれ。自首なんて許さない。さあ、謝るんだ。誠心誠意な」
雨野は頭を地面についた。
「許してくれ」
「許してくれだぁ?」
陶矢は灰皿を拾ってそれを地面に叩きつけた。
「つい! いままでオナニーしてたような屑の安い謝罪で許されると思ってんのか! 真面目にやれ! 暴力を振るった全員に謝れ!」
「すまなかった! 俺は普通じゃなかった。女が全て憎くなった。だから……」
今度は灰皿を壁に叩きつけた。
「甘ったれんな! 一人の女に傷付けられたからって他の女を対象にすんじゃねえよ!」
陶矢は憤っていたが、自分がなぜそんなにも腹を立てているのかわからなかった。
雨野は地面をへこますのではないかという勢いだ。
「すみませんでしたぁ!」
陶矢の怒りも、雨野の大声の謝罪に少しづつ薄れていった。
「もういいよ。続きは刑務所でやろう。あんたは逮捕され、釈放されるまで 獄中でいままでの罪を詫び続けるんだ。それがあんたの贖罪だ。できないなら俺はあんたの前に現れて、ぶっ殺してやるからな」
陶矢は背後の存在に気付いていた。だから、振り向きざまに殴り飛ばすことができた。彼が現れるのは予想どおりだったからだ。
洋介は顎に一撃もらい、ふらついている。
これ以上揉め事はごめんだと陶矢は警察に電話した。
全ては終わった。陶矢は偶然にも隠れ家に帰ろうとしている雨野を目撃、尾行して住処を突き止めるという設定を警察は信じた。雨野は片付いた。洋介が共犯とは雨野も陶矢も、瑞穂も黙っていた。その代わり陶矢は雨野への暴行を全て洋介がやったことにした。果物ナイフは指紋を拭くと隠れ家の台所に置いておいた。
雨野は逮捕され、洋介はおとがめなしとなった。多少の報いを期待していた陶矢は残念に思った。
危機は去ってもトラウマから緊張が消えない生徒も多かったが、それも数ヶ月すると消え、元の生活に戻っていった。瑞穂は恋人の復帰に抱きしめて喜びあったが見ているものはそれが友としての感動的な再会であり、同性愛を疑うものはいなかった。
英雄と騒がれた陶矢もちやほやされたのは最初だけで、もう誰の注目も浴びなかった。
亮と茉莉が屋上で一人昼食をとっている陶矢の元にやってきた。陶矢は彼らの来訪が気に入らない。本当は彼らがくるのが怖かった。彼らという存在が怖かった。
くだらない話を二人だけでしたのちに雨野の話になった。
「大したもんだぜ陶矢はさ。あんなおっかないこと一人でやっちゃうんだから。洋介も倒すし」
「別に。たまたまだよ」
「あのときの陶矢はかっこよかった。ちょっと怖かったけど」
陶矢は彼女、茉莉をみた。屈託のない笑みでこちらをみる彼女は、しかし本当にみているのは自分ではないのだ。
「陶矢、どうした?」
亮の言葉の意味がわからない。陶矢は自分が涙を流していることに気付いた。慌てて涙を拭うも涙は止まらなかった。
「ごめん陶矢。やっぱりトラウマだったんだな」
茉莉が笑った。
「やっぱり陶矢だね。でも大丈夫。何があってもあたしたちは友達だから。怖かったら安心して泣いていいんだよ」
彼女の声を聞くと陶矢の涙の量はさらに増えていった。
なんでだ?
彼は心の中でつぶやいた。
茉莉をみる。微笑む彼女。どうしてそんなにも屈託のない顔を向けられるんだ。
どうして?
彼女とはいつも一緒だった。しかし、唐突に関係は終わった。よくある台詞によって。
他に好きな人ができたんだ――彼女はそう言った。そして、もう茉莉は陶矢の恋人ではなく、陶矢の親友の恋人となった。
「陶矢、本当に大丈夫?」
心配そうな表情も、陶矢は素直に受け取ることはできない。
彼には二人があるものにしかみえなかった。この世界の残酷性を体現した存在――悪魔にしか。
「保健室いこっか?」
陶矢は耐えられなかった。
なんで。
どっちも。
――なんでそんなにも普通に接することができるんだ?
吐き気がしたが、陶矢はなんとか堪えた。そして彼は涙をぬぐい、笑った。 不自然な笑みだった。
「もう大丈夫だから」




