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闇の肉芽

作者: 横江秋月

 見渡すかぎり闇に包まれていた。闇には実体があり、アメーバのように身をくねらせていた。

 その中心に俺がいた。胎児のように体を丸め、ゼリーのようにぶよぶよした闇に支えられて、静かにゆっくり回転していた。

 回転するうちに意識が頭から流れ出し、ゆっくりとゼリーの中に拡散していった。ゼリーの中にはすでにほかの種々雑多な意識が溶けこんでいて、ときおり俺の意識とぶつかっては、見えない火花を散らした。

 肉体を離れた俺の意識は、遠くから自分の体の中をのぞきこんだ。すると――



「小林。次、読んでみろ」

 呼ばれてはっと妄想から覚めた。慌てて隣の奴から場所を聞き出し、わけのわからない古文をやっとのことで読みあげた。

「よし、そこまで。もっと家で勉強してくるように。……次、池田」

 腰をおろし、何気なく右の方を見ると、また若尾と目が合った。今日はこれで何度目だろう。偶然にしては多すぎる。あいつの気に障るようなことを何かしたっけ?

 若尾はいわゆる不良ではなかった。成績はまあまあ、スポーツはまあまあ、容姿もまあまあという、ふつうならあまり目立たないはずの存在だった。だが彼には人を落ち着かなくさせる雰囲気があって、そのせいか教師たちも彼がいることに気付いていないようなふりをした。

 俺も彼が苦手だった。クラスメートとしてふつうに言葉は交わすが、どうしても緊張しないではいられない。

 若尾の視線を意識しなくてもいいように、俺は珍しく授業のノートをとりはじめた。



「おおい、小林」

 休み時間になると、あんのじょう若尾が声をかけてきた。

「今の授業のノート、今日貸してくれない?」

「……いいけど」

 やっぱり俺のことを見ていたんだ。いつもなら俺がノートをとるようなタマじゃないことぐらい、知っているくせに。

 俺の心中に気付いたふうもなく、若尾は無邪気に俺の顔をのぞきこんだ。

「小林、おまえ風邪でもひいたのか? なんか顔色悪いぜ」

「いや、そうかなあ? 別にどうもしないけど」

 顔色がすぐれないのは自分でもわかっていた。最近妙にだるいし、白昼夢も見る。受験ノイローゼなんかでないことは誰の目にも明らかだが……いちど医者に診てもらったほうがいいかもしれない。

「ふうん……なんともないんならいいけどな。ああーっと、俺、小便したくなってきた。ノート、放課後な」

 片手でさっと拝むような格好をすると、若尾は脇目も振らずに教室を出ていってしまった。取り残された俺の腕を、隣の奴がシャープペンシルでつついてきた。

「なあなあ、ノートとってあるんなら、俺にも回して」



     * * *



 放課後、若尾と俺は肩を並べて、青々と雑草の茂る土手を歩いていた。初夏の陽射しはこの時間になっても強く、二人ともシャツに汗のしみをつくっていた。

「へえー、おまえも上岡団地に住んでいたなんて、知らなかった」

 俺が言うと、若尾は腑に落ちない顔をした。

「ほんとに? おまえ、学校へ行くとき、いつも俺を追い越していくじゃないか」

「え、そうだっけ? ちっとも気付かなかったぞ」

「ひどいなあ。俺ってそんなに存在感ないのかなあ」

 本気で悲しんでいるらしい若尾を見て、ふいに親しみを覚えた。これまでなんとなく近寄りがたいものを感じていたのがうそのようだった。

 若尾が足元の小石を蹴った。小石は土手の斜面を転がり、小さな音を立てて川に落ちた。水面の乱反射が俺の目を射た。急にめまいを覚えて、俺は若尾に視線を戻した。

 すると、今まで身近に感じていた若尾が、別人のように冷静な目をしてこちらをうかがっていた。俺はぞくりとして思わず後ずさりした。

 逆行が彼を黒く浮かび上がらせていた。黒い影の中で、二つの目だけが異様に光を帯びていた。

 ――彼は俺を見ているのではない。

 突然俺は気付いた。

 ――俺の体の中を見ているのだ。

 恐怖に似た感情がぶわっと音を立ててふくれあがった。脳みそがぐつぐつと沸騰し、目の前が赤くなった。

「……か?」

「え?」

「おい、大丈夫か?」

 気がつくと俺は倒れそうになって若尾にしがみついていた。さっきまでの親しげな若尾が、心配そうに俺の顔をのぞきこんでいた。

 また白昼夢なのか。

「すまん」

 俺は若尾から手を離し、地面にしゃがみこんだ。

「ちょっとめまいが……」

「おいおい、大丈夫なのかよ。ほら、あっちへ行こうぜ。少し休んでいこう」

 若尾は俺を土手の斜面に引きずっていった。俺は言われるまま草むらに寝転び、空を見上げた。

 透き通るような青い空が、目の前いっぱいに広がっていた。ところどころ薄い雲が風に流され、まさにたなびいているといった風情で浮かんでいた。入道雲の浮かぶ真夏の空と違って、暑いがすがすがしい。

「おまえさあ、このごろ何か悩んでる?」

 若尾の言葉に俺はちょっとびくっとした。

「……どういうことだ?」

「最近のおまえ、変じゃないか。ぼうっとしてることが多いし、食欲もない」

「やけに詳しいんだな」

 不快になって若尾の方に顔を向けたが、彼は気にしたふうもなく言葉を続けた。

「顔色も悪いけど、病気をしてるってわけでもなさそうだ」

「だから?」

「どうしたのかな、と思って。それだけ」

「うそつけ」

 俺はむっとして思わず口に出した。

「知ってるぞ。おまえ最近ずっと俺のこと見てるだろう。なんだよ。俺、おまえに何かしたかよ」

 若尾はちょっと目を丸くし、それから肩をすくめてにっと笑った。

「おまえが気に入ってるから。……おっと、誤解するなよ」

 身を起こしかけた俺を制して若尾は破顔した。

「おまえは周囲から浮いてるからな。一見溶けこんでいるようでいて、実は孤独だ。みんなと一緒になって笑ってるけど、目だけは笑っちゃいない。いつも何かほかのことを考えてる。……俺たちは似た者同士だと思わないか?」

 図星をさされて俺は返答できずにいた。そうだ。俺だって若尾のことが気になっていた。ただ、自分がほかの人間と違うことを認めたくなかっただけだ。どちらかといえば若尾に近いところにいるということを。だから若尾の前で緊張した。

「だが、異質な人間には異質なものが近寄ってくる。気をつけろ」

 うってかわって真剣な口調で若尾が言った言葉は、だが、俺の頭の中に意味をなさない雑音として響いただけだった。



     * * *



 次の日、若尾は学校を休んだ。次の日も、その次の日も、彼はついに出てこなかった。

 さすがに俺も心配になり、帰りにちょっと寄ってみようという気になった。部屋番号はこの前若尾が一方的に教えてくれた。B棟の406号室。

 だがコンクリートでできた肌色のマンションの前に立ったとたん、俺は前に進めなくなった。

 ――見られている!

 それも1人や2人の視線ではない。あちらからも、こちらからも、明らかに敵意を持った無数の視線が、俺に向けられている。

 底知れない恐怖と戦いながら、やっとのことで俺は振り返った――

 が、周囲には人っ子1人、猫の子1匹見えなかった。広場はがらんとして、買い物帰りのおばさんたちの姿さえない。マンションの窓という窓は閉ざされ、いつもなら聞こえるはずの赤ん坊の泣き声や子供たちの金切り声もまったくない。

 団地中がゴーストタウンのように沈黙していた。音のない空気が耳を圧迫し、金属音に似た耳鳴りを起こした。

 俺は一目散に逃げ出した。D棟にたどりつき、階段を駆けのぼって自分の部屋のドアを開ける。

「あら、おかえりなさい」

 音が戻った。母が台所に立ってこちらを振り返っていた。

「どうしたの、汗びっしょりになって。早く着替えてらっしゃい。もう夕ご飯できるから」



     * * *



 俺はまた闇の中を漂っていた。闇は温かく、呼吸するように伸びたり縮んだりをくりかえしていた。そのうち、その伸縮に呼応しているものが自分の体の中にあることに気付いた。

 俺の体の中に芽生えたそれは、伸縮をくりかえしながら次第にふくれあがり、やがて俺の体いっぱいになった。それでもなお、それはふくれ続けようとし、俺は歯をくいしばって抵抗した。

 だがついにそれは俺の体を突き破り、外界にあふれ出した。黒い不透明なゼリー。

 いつのまにか周囲の闇は消え去り、ゼリーは太陽の光の下を這い進んでいた。俺はゼリーと一体化し、ゼリーの視覚でものを見た。見慣れているはずの木々や建物が奇妙にゆがんで見えた。ここはどこだ?

 ――とまれ。

 ふいに声がかかり、俺は行進を中断した。声の主は若尾だった。少年の姿をしているにもかかわらず、ひどく年取っているような印象を受けた。

 ――こうなったら君を消さなくてはならない。

 悲しげに若尾は言い、輝く右手を振り上げた。閃光が俺を貫き、焼けつく痛みが襲いかかった――



 気がつくと俺は肌布団にくるまり、しみの浮き出た白い天井を見上げていた。

「あ、気がついた?」

 女の人の声がし、同時にどこかで見たような顔が俺の視界に現れた。

 あたりを見回すと壜の並んだ戸棚が目に入った。体重計と身長計。聴診器が無造作に置かれた机。ああ、ここは保健室か。

「あ、あの……」

「あなた、授業中に倒れたのよ。大丈夫、ただの過労よ。勉強もほどほどにしないとね」

 保健の先生の口添えで俺は早退することになった。若尾は相変わらず欠席している。ついでにもう一度彼を訪ねてみようと思い、道をそれてB棟に回った。

 先日と違ってこんどはすんなり若尾の部屋の前にたどりついた。

 恐る恐るブザーを鳴らすときれいな女の人が出てきた。彼の母親だろうか。

「あ、あのう、小林直人っていいます。えっと、若尾くんのクラスメートで……」

 彼女はにっこり笑って俺の言葉を遮った。

「どうぞお入りになって。今呼びますから」

 俺を部屋の中に招き入れると、彼女は猫のように家具の間をすりぬけながら奥へ向かった。

「貴行、貴行ー、お友達が見えたわよー」

 ああそうか、貴行っていうんだっけ。それにしても美人のおふくろさんだ。歳はいくつだろう。

 そんなことを考えているうちに彼女が戻ってきて、俺を若尾の部屋に案内した。

 意外なことに彼の部屋は和室だった。床の間には花がいけられ、風流な墨絵の描かれた掛け軸がその向こうに下がっていた。窓際には書物机があって、申し訳程度に教科書が並べられている。

「……じじくさい趣味だろ?」

 いきなり背後から声がかかったので、俺はびっくりして文字通り飛びあがった。

 私服姿の若尾が入り口近くの壁にもたれてにやにやしていた。

「おやじの好みなんだ。俺のじゃないぜ」

 冗談めかして言ったその声には、妙に疲れた響きがあった。見ると顔もなんとなくやつれたようだ。

「おまえ、体大丈夫なのか?」

「ああ。妨害にあってなかなか接触できなかったんだ。……まあ座れよ」

 言っていることがよくわからなかったが、最後の言葉に従って俺はその場に腰をおろした。

「てっとりばやく言うけど、おまえこのごろ変な夢を見るだろう?」

「なんでそれを――」

 言いかけて俺は口をつぐんだ。理由はわからないが、若尾はすべて承知しているという気がした。俺は黙って彼の次の言葉を待った。

「その夢は闇から始まり、光に向かって進んでいく。あるときは緩やかに、あるときは激しく、だがいつも闇は君の体を通って光の中に躍り出る」

 若尾は別人のような口調で語りながら窓の方へ歩いていった。こちらに背を向けたまましばらく黙っていたが、やがて思い出したようにまた口を開いた。

「俺もその夢を見た。君とは違う形で。君の体の中に闇の種が宿り、それがしだいに成長していくのを見た。闇は君を媒体に選んだのだ。ふたたびこの世界に戻り、王として君臨するために」

 若尾は振り返った。その口は耳まで裂け、蛇のような赤い舌がちろちろと出たり入ったりしていた。瞳孔のない目が俺をにらみつけた。

「かわいそうだが死んでもらうよりほかに仕方がない」

 ――うわああああああっ。

 俺は声にならない叫びを上げ、立ちあがるのももどかしく出口へ向かった。

 だがドアだと思ったのは厚い岩の壁で、いつのまにやら周囲は暗転し、俺はどこともしれない闇の中でただ1人化け物に対峙していた。

「死ねっ」

 鋭い鉤爪が頬をかすり、熱い血が噴き出すのを感じた。いやだ、死にたくない!

 ――殺される前に殺せ。

 ふいに何者かの意識が飛び込んできた。腹の中で熱をもったものが頭をもたげ、痛みを伴うことなく俺の体を焼いた。

 ――おまえの身は守ってやる。あの化け物を殺せ。

 俺は足元にあった石をつかみとり、無我夢中で化け物の顔を殴りつけた。

「やめろ、小林!」

 若尾が顔を血だらけにしてよろめいた。

「しっかりしろ、これは幻覚だ」

 俺は呆然として粉々になった花瓶を見下ろした。

「何……?」

 そのすきに若尾が躍りかかり、俺を畳の上に押し倒した。

「ちょっと我慢してくれよ」

 身構える暇も与えず若尾は自分の右手を俺の腹に突き刺した。いつかテレビで見た心霊手術のように、一適の血も流すことなく手が腹の中にめりこんでいく。

 ふたたび現れた彼の手は、何か黒くてぬらぬらしたものを握っていた。それは俺が夢の中で何度も見たように、ゼリーのようにぶよぶよして、逃げようと必死にもがいていた。

「闇の胎児だ」

 若尾が静かに言った。

「君はこんなものを大事に育てていたんだよ」

「それは何なんだ?」

 質問には答えず、若尾は手の甲で自分の顔の血をぬぐった。

「君は人とはちょっと違った心を持っている。それは太古、文明の代償に人が失ってしまったものだ。人は闇を畏れ、抹殺しようとした。そしてその存在を意識の片隅に追いやってしまった」

 黒いゼリーが威嚇するようにちちっと鳴いた。

「封じ込められた闇は、長い時の移り変わりの中で、ゆがみ、形をなし、実体のあるものに生まれ変わった。彼らはふたたび地上に出ることを夢見、封界のすきまを血眼になって探したのだ。――そして君というすきまを見つけた」

 若尾は意味ありげに俺の目をのぞきこんだ。彼の目に、今まで見たこともないような親しみがこめられているのを見て、俺はちょっとたじろいだ。

「君は闇に共感し、同調する。そして、何も知らないだけに闇へのあこがれは俺よりも強い。そこにつけこまれたわけだが……じつをいえば君がうらやましいよ。君と俺とは似ていて……やはり異質なのだ。俺は結局――」

 彼は視線を落とし、手の中の黒いゼリーを見つめた。俺は聞いてみた。

「それはどうするんだ?」

「こうするのさ」

 言うなり若尾は無造作にそれを自分の口に放りこみ、飲みくだした。

「地上にはもう、闇の棲む場所はない。闇は闇の世界で眠れ」

 そうつぶやいて舌なめずりした彼の舌が蛇のようにふたまたに分かれているのを、俺ははっきりと見た。



「おい! 小林! ちょっと!」

 はっと目を開けると間近に畳が迫っていて、それを把握したときにはすでに若尾の力強い腕で引き起こされていた。

「おまえ大丈夫? 貧血か? ……ちょっと母さん! 水持ってきて、水!」

 俺はきょときょとあたりを見回した。

 俺たち2人は若尾の〈じじくさい〉和室にいた。床の間の花瓶は割れてはおらず、若尾の顔にも傷ひとつなかった。窓の外を見るとまだ陽が高い。さっきからそれほど時間が経っていないようだ。

「びっくりしたなあ、もう。来るなりぶっ倒れるんだから」

 大人びた若尾とあどけない若尾。人間の若尾と化け物の若尾。いくつもの若尾がオーバーラップし、交差して俺の目の前を通り過ぎていった。今ここにいる若尾はあたりまえの少年だ。

「俺、ここに来たとたん、倒れたの?」

「ああ」

 すると今までの一連の出来事はすべていつもの白昼夢だったわけだ。いや、待てよ。

 俺は腹部に鈍痛を覚えて、ちょっと顔をしかめた。いや、やっぱりあれは――

「まあゆっくりしていけよ」

 若尾がいつもの口調で言った。



【完】

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