女の人とボイチャするのは嫌だと言ったのに、彼氏は「ただのゲーム仲間だろ」と笑いました
私の二十六歳の誕生日に、彼氏は別の女の人と腕を組み、ホテルのレストランに入っていた。
それを知ったのは、誕生日が終わる五時間前だった。
ただ、その夜になって突然、私たちの関係が壊れたわけではない。
思い返せば、何か月も前から少しずつ壊れていた。私が何度も「嫌だ」と言って、そのたびに彼が「ただのゲームだろ」と笑った頃から。
*
「ねえ、拓海。ちょっといい?」
「んー、今ボス戦」
十月の初め。夜十一時を過ぎたリビングで、私は夕食の皿を拭いていた。以前から伝えてきたことを、今夜こそ落ち着いて話そうと思っていた。
デスクの前に座った瀬戸拓海は、ヘッドセットをつけて画面を見ている。私より一つ年上の二十七歳。営業職で、帰りが遅い日もあるけれど、ここ数か月は帰宅すると真っ先にパソコンを起動するようになった。
『たっくん、そっち危ないって!』
ヘッドセットから女性の声が漏れた。
「莉子、回復! あー、間に合わなかった。ごめん、もう一回行こう」
その声の明るさに、手が止まる。
私と話すときは「うん」「あとで」としか言わないのに、画面の向こうの人にはよく笑う。
私は布巾を置いた。
「終わったら話したいことがある」
「分かった」
そう返事をしたきり、拓海はゲームに戻った。
十五分待った。三十分待った。日付が変わる頃、ようやく彼はヘッドセットを片耳だけ外した。
「何だった?」
「最近、莉子さんと二人で話すことが多いよね」
「まあ、時間合うから」
「毎晩、夜中まで?」
「何。時間制限でもするつもり?」
「そうじゃないよ。ゲームするのはいいの。でも、特定の女の人と二人きりで何時間も話してるのは、正直嫌だ」
拓海は私を見た。驚いた顔ではなく、また始まったという顔だった。
「ただのゲーム仲間だろ」
「うん。今はそうなのかもしれないけど」
「今はって何だよ。浮気でもすると思ってんの?」
「浮気だって決めつけてるわけじゃない。嫌だって気持ちを聞いてほしいの」
「じゃあ、紗季は会社で男と話さないの?」
「仕事の話と、毎晩二人きりで何時間も雑談するのは違うでしょ」
「ゲームの攻略だって話してる。仕事と一緒だよ」
「仕事じゃないよね」
「言葉尻ばっかり」
拓海は片耳に戻していたヘッドセットを直した。
「ごめん、彼女がまた嫉妬してて」
『えー、また? 私のせい?』
「気にしなくていいよ。ゲームと現実の区別がつかないだけ」
私は、拓海の背中を見つめた。
今、私がここにいるのに。
私の話を、当の相手に聞かせて笑い話にするんだ。
食器棚の扉を閉める音が、思ったより大きく響いた。拓海は振り返りもしなかった。
*
私、宮原紗季が拓海と付き合い始めたのは、三年前の春だった。
友人の千夏に誘われた食事会で知り合った。拓海は人の話をよく聞く人で、私が仕事の失敗を話したとき、茶化さずに「それは大変だったね」と言ってくれた。
初めて二人で出かけた日、駅の改札で私を待っていた拓海は、私が好きだと言った小さな焼き菓子の店を調べてくれていた。
そういうところが好きだった。
一年半前に同棲を始めた。駅から徒歩十二分の二LDK。家賃は少し高かったけれど、二人の職場の中間にあって便利だった。契約者は拓海で、家賃と光熱費は半分ずつ。家具は持ち寄ったものと、二人で買ったものが混ざっている。
去年の十二月、商店街のイルミネーションを見た帰りに、拓海が言った。
「来年は結婚の挨拶として、改めてお互いの親に話をしないとな」
「結婚の挨拶?」
「うん。今まで会ったときとは違って、ちゃんと二人で話すってこと」
照れたように笑った拓海に、私は「うん」と答えた。
私たちは結婚式の規模も、住む場所も決めていなかった。でも、結婚資金をそれぞれの口座に貯め始めた。私の口座には少しずつ残高が増えていった。
その頃までは、同じ未来を見ていると思っていた。
八か月前、拓海は大学時代の友人に誘われてオンラインゲームを始めた。最初は男友達三人と遊んでいて、私も隣で見ていた。負けると本気で悔しがり、勝つと子供みたいに喜ぶ。私はその姿が嫌いではなかった。
ゲーム仲間が増えたのは五か月前。男性も女性もいる六人ほどのグループになった。
私はそれを聞いても、何も言わなかった。
莉子という女性の名前が頻繁に出始めたのは、その一か月後だった。
「莉子、操作うまいんだよ」
「莉子、仕事休みらしいから昼からやれるって」
「莉子が新しい装備手に入れたんだって」
いつしか話題の中心はゲームそのものではなく、その人になった。
ある日曜日、私たちは昼にパスタを食べに行く約束をしていた。私は洗濯を終えて、支度も済ませていた。
「そろそろ出る?」
「ちょっと待って。莉子が困ってるみたいで」
「何かあったの?」
「ゲームのイベント、クリアできないって」
「でも予約してるよ」
「三十分で終わるから」
三十分は一時間になった。
結局、予約した店には行けなかった。拓海は「また行けばいいじゃん」と言った。店にキャンセルの電話を入れたのは私だった。
別の日には、夕飯の途中でスマホが鳴った。
「莉子からだ」
拓海は箸を置いて返信した。
「ご飯終わってからじゃ駄目?」
「待たせるの悪いだろ」
私は口を開きかけて、閉じた。
私を待たせることは、悪いと思わないんだ。
その夜、私は初めて、女性との二人きりのボイチャは控えてほしいと伝えた。拓海は「分かった、考えとく」と言った。
翌日も、莉子さんの笑い声は聞こえた。
*
十月の半ば、私の誕生日が近づいてきた。
今年は土曜日だった。以前から気になっていた駅前のイタリアンへ行こうと、二人で話していた。まだ予約はしていなかったけれど、私は店のメニューを何度も見ていた。
「来週の土曜、あのお店でいいよね」
夕食後、拓海に聞くと、彼はスマホから目を上げなかった。
「あー、土曜?」
「うん。私の誕生日」
「ごめん、ゲームのイベント入った」
「イベント?」
「限定報酬あるやつ。メンバー集めてるから抜けられないんだよ」
「前から約束してたよね」
「誕生日なんて別の日でも祝えるじゃん」
そういう問題じゃない。
言おうとして、やめた。言ったところで、また私が大げさだと返されるのだろう。
「何時からなの?」
「夜。準備もあるし、土曜は空けときたい」
「……分かった」
私がそう言うと、拓海は安心したように笑った。
「日曜なら空いてるからさ」
「日曜は私が出勤だよ」
「あ、そうだった」
私の勤務表は冷蔵庫に貼ってある。拓海が自分のゲーム予定を書き込んだ付箋のすぐ横に。
その夜、布団に入っても眠れなかった。
ゲームが嫌いなわけではない、と何度自分に言い聞かせただろう。
でも、私の誕生日よりゲームを優先する人と、この先何十年も暮らしていけるのだろうか。
隣のリビングから、拓海の笑い声がした。
『じゃあ土曜、楽しみにしてる』
女性の声だった。
私は布団を頭まで引き上げた。
*
誕生日の土曜日、拓海は昼過ぎから身支度を始めた。
いつもはゲームをするだけなら部屋着のままだ。それなのに、今日は新しいシャツにアイロンをかけ、髪を丁寧に整えている。
「出かけるの?」
「ああ。会社の同期に誘われてさ」
「ゲームのイベントは?」
「夜には戻る。イベントはそれから」
「そうなんだ」
私は洗濯物を畳みながら尋ねた。
「誰と行くの?」
「同期だよ」
「名前は?」
拓海は鏡越しに私を見た。
「そこまで聞く?」
「普通に聞いただけだけど」
「最近ほんと疑い深いよな」
拓海は香水を一吹きした。
「じゃ、行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
扉が閉まった。
私は一人で昼食を食べ、夕方、近所のケーキ屋で小さなショートケーキを一つ買った。二人分を買う気にはなれなかった。
午後七時過ぎ、千夏から誕生日のお祝いのメッセージが届いた。
『おめでとう! 今日は拓海くんとお祝い?』
『ありがとう。今日は一人。拓海は同期と飲み会だって』
既読がついた。
それからしばらく、返信がなかった。
『紗季、ちょっと電話できる?』
電話に出ると、千夏はいつもより声が低かった。
『今日さ、駅前のホテルのレストランで拓海くん見たんだけど』
「……え?」
『私、妹とあそこでお茶してたの。窓際の席から入口が見えて』
「うん」
『女の人と二人だった。腕組んで歩いてたから、最初は見間違いかと思って』
私はケーキの箱を見つめた。
「何時頃?」
『六時半くらい。顔は何度か会ってるから分かる。服も紺のシャツで……』
拓海が着ていったシャツだった。
『ごめんね、誕生日なのに。言うか迷った』
「……教えてくれてありがとう」
『私が見たのはレストランに入るところだけだよ。それ以上は分からない』
「分かった」
電話を切ったあと、私は拓海にメッセージを送った。
『今、誰といるの?』
十分後に返事が来た。
『同期。何?』
『女の人もいる?』
『男だけ。しつこいな』
画面に並んだ短い言葉を、私は何度も読み返した。
千夏の見間違いかもしれない。そう思いたかった。
でも、拓海は私に予定を隠し、私の誕生日に別の女性と腕を組んで歩いていた。
それだけは、もう消せなかった。
ケーキは食べなかった。
*
拓海が帰ってきたのは十一時過ぎだった。
「ただいま。起きてたの?」
「飲み会、楽しかった?」
「まあね。久しぶりに会うやつもいたし」
「男の人だけだった?」
「そうだって。さっきも聞いただろ」
「千夏が見たって。拓海が女の人とホテルのレストランに入るところ」
拓海は冷蔵庫を開けた姿勢のまま止まった。
「……見間違いじゃないの」
「紺のシャツを着てたって。今日着ていったのと同じだよね」
「そんな服、いくらでもあるだろ」
「誰といたの?」
長い沈黙があった。
「……莉子」
「会社の同期じゃなかったんだね」
「同期とも会う予定だったんだけど、都合悪くなって」
「じゃあ、どうして男だけって言ったの?」
「お前、莉子って言ったら絶対怒るじゃん」
「怒られるって分かってることをしたんだね」
「飯食っただけだよ」
「腕を組んで?」
「向こうが酔ってたから」
「レストランに入る前から?」
拓海は舌打ちした。
「細かいんだよ。もう謝っただろ」
「謝ってないよ」
「悪かったって言ってるじゃん」
私はそのとき、怒鳴り返す気力もなくなっていた。
「ねえ、今日が何の日か分かる?」
「……誕生日」
「私、二十六歳になったんだ」
「分かってるって。後で祝うつもりだった」
「でも、莉子さんとは今日会いたかったんだね」
拓海は何も言わなかった。
「別れよう」
「は? 飯食っただけで別れるとか、重すぎるだろ」
「食事だけの話じゃない。私が嫌だって何度言っても聞かなかった。誕生日の約束も破った。嘘までついた。もう信じられない」
拓海は髪をかき上げた。
「じゃあ莉子とは会わない。それでいい?」
「ゲームでも話さない?」
「それは無理。固定メンバーだし」
「……そう」
「ほら、そうやって全部禁止しようとする」
私は立ち上がった。
「今日はもう話したくない。拓海、リビングで寝て」
寝室の扉を閉めると、膝から力が抜けた。
枕元には、去年の誕生日に拓海がくれたネックレスの箱がある。去年は彼が小さなケーキを買って帰ってきた。ろうそくを一本だけ立てて、二人で笑った。
私は箱を引き出しの奥にしまった。
泣いたのは、そのあとだった。
*
翌朝、拓海は普段どおり「コーヒーない?」と聞いてきた。
私は自分の分だけ淹れていた。
「自分で淹れて」
「……まだ怒ってる?」
「昨日、別れるって言ったよね」
「一晩寝れば落ち着くと思ったんだけど」
「私は本気だよ」
「来年、結婚するつもりだったのに?」
「結婚するつもりだったなら、どうして私を大事にしてくれなかったの」
「大事にしてるだろ」
「昨日、何してた?」
拓海は口を閉じた。
私はバッグを持った。
「今日は仕事が終わってから、千夏に会ってくる」
その日の夕方、仕事を終えた私は、千夏と待ち合わせた喫茶店へ向かった。
千夏は私の顔を見るなり、何も聞かずに温かい飲み物を注文してくれた。
「昨日、帰ってきたの?」
「うん。莉子っていうゲーム仲間だった」
「……そっか」
「食事しただけって言ってた」
千夏は少し迷ってから言った。
「私が見たとき、二人とも素面に見えたよ。女の人が無理に腕を引っ張ってる感じじゃなかった」
「そう」
「でも、そこから先は分からない。勝手に決めつけたくない」
「ありがとう」
私はカップを両手で包んだ。
「私、何回も言ったんだ。二人きりで夜中まで話すの嫌だって。そのたびに、ゲームのこと分かってないって笑われた。私の方がおかしいのかなって思った」
「紗季が何を嫌だと思うかは、紗季が決めていいんだよ」
千夏はそれだけ言った。
自分が正しいと言ってほしかったわけじゃない。ただ、嫌だと言ったことを、嫌だったのだと認めてほしかった。
*
その週、私は母に電話した。
「しばらく実家に帰ってもいい?」
『いいけど、どうしたの』
「拓海と別れることにした」
母はすぐに理由を聞かなかった。
『部屋、片づけておくね。仕事の服は置けるようにしとく』
「……ありがとう」
私は同棲していた部屋の契約書を確認した。借主は拓海。私は同居人として届けられている。引っ越す前に管理会社へ同居人変更の手続きをしてもらう必要がある。
家具や家電の領収書は、家計簿アプリとメールに残っていた。二人で買った冷蔵庫は拓海が使うなら私の負担分を精算する。私が一人で買った掃除機と電子レンジは持っていく。
こういう作業をしていると、頭が少しだけ静かになった。
拓海は、私が段ボールを買ってきたのを見て初めて慌てた。
「何それ」
「荷物をまとめるの」
「本気で出ていくの?」
「何回も言ったよ」
「莉子とはもう会ってないって」
「昨日は?」
「昨日?」
「昼からいなかったよね」
「買い物」
「そう」
私はそれ以上聞かなかった。
拓海は苛立ったように言った。
「疑ってばっかり。そんなに信用できないなら、もうどうしようもないだろ」
「うん。だから別れるんだよ」
あのとき、私が知っていたのは嘘をついて莉子さんと会ったことまでだった。それでも、私は別れると決めていた。拓海はまだ、謝れば元に戻れると思っているようだった。後に浮気の事実まで知ることになるとは、このときは思っていなかった。
拓海は口を開けたまま、しばらく私を見ていた。
*
決定的なことが分かったのは、誕生日から十三日後の金曜日だった。
仕事を終えて駅へ向かう途中、スマホに、以前交換したきりほとんどやり取りのなかったアカウントからメッセージが届いた。
『宮原さん、突然すみません。佐伯美月です。以前、拓海さんたちのゲーム仲間の集まりで少しお話ししたことがあります』
名前を見て思い出した。
数か月前、拓海のゲーム仲間たちが近くで開いたボードゲーム会に、私も昼間だけ顔を出したことがある。女性は二人いて、一人が莉子さん、もう一人が佐伯さんだった。会の終わりに、参加者同士でSNSのアカウントを交換した。莉子さんともつながったけれど、その後やり取りはなかった。佐伯さんとは帰りの電車が同じで、趣味の話を少しした。
莉子さんは、私が拓海の彼女だと紹介されたとき、笑顔で「いつもお世話になってます」と言った。
あの笑顔を思い出して、胃が重くなった。
『覚えています。どうしましたか?』
『迷ったんですが、宮原さんに話さないままでいるのは違うと思って』
続けて、画像が二枚届いた。
一枚はグループチャットのスクリーンショットだった。
『昨日もたっくん泊まりに来たから眠い』
『彼女さんは?』
『もう別れるって。ほぼ終わってるらしいよ』
その下に拓海のアカウントからの返信があった。
『その話、ここでするなって笑』
もう一枚には日付があった。私の誕生日の翌週だ。
『週末また泊まり来る?』
『金曜なら行ける』
拓海のアカウント名が表示されていた。
私は駅の柱にもたれた。
『どうして今、教えてくださったんですか』
少しして、返事が届いた。
『最初は、本当に別れたんだと思っていました。でも昨日、莉子さんが宮原さんのことを「まだ同棲してるくせに別れてくれない」と言っていて、話が違うと分かりました』
『以前お会いしたので、本人に確認せずに黙っているのは嫌でした。勝手に画像を送ってしまってすみません』
私は何度か打ち直して返信した。
『教えてくださってありがとうございます。私はまだ同棲しています。別れる話はしていますが、拓海は関係を続けたいと言っています』
佐伯さんからすぐに返事が来た。
『そうだったんですね。私から他の人に広めるつもりはありません』
その言葉に、少しだけ救われた。
*
拓海は十一時前に帰ってきた。
「ただいま。今日、遅くなってごめん」
珍しく謝った彼に、私はスマホの画面を見せた。
「莉子さんと、何度も泊まってるんだね」
拓海の表情が消えた。
「……誰から?」
「本当なの?」
「これ、誰が送ったんだよ」
「本当かどうかを聞いてる」
「グループのやり取りを勝手に外に出すとか、ありえないだろ」
「莉子さんと、身体の関係はあるの?」
拓海は黙った。
「答えて」
「……ある」
私は目を閉じた。
「いつから?」
「三か月くらい前」
四か月前から二人きりのボイチャが増えた。私が嫌だと伝えた後も、拓海は莉子さんとの距離を縮め、三か月前には身体の関係まで持っていた。
「私が何度も嫌だって言ったとき、もう浮気してたんだね」
「最初はそういうつもりじゃなかったんだよ」
「でも、したんだよね」
「……うん」
「誕生日も、莉子さんと会う約束があったから断ったの?」
拓海は長いこと黙っていた。
「……ああ」
限定イベントなんて、最初から口実だった。
「ゲームの予定って言えば、私が諦めると思った?」
「紗季、聞いてくれ。莉子とは本気じゃない。向こうが俺のこと好きだって言ってきて、流れで……」
「三か月も?」
「……」
「流れで、何度も泊まりに行くの?」
拓海は視線を落とした。
「でも、結婚するのは紗季だと思ってた」
その言葉を聞いて、私は初めて怒りが湧いた。
「私が嫌がるのを知ってて、別の女の人と寝て、それでも私とは結婚するつもりだったの?」
「ごめん」
「莉子さんには、私と別れるって言ってたんでしょ」
「それは、向こうがうるさくて……」
「どっちにも嘘ついてたんだ」
拓海は何も言わなかった。
「私のこと、何だと思ってた?」
「大事な彼女だよ」
「大事な彼女に、こんなことするんだ」
「一回だけ、やり直すチャンスくれないか」
「三か月もあったよ」
「え?」
「私、何度も嫌だって言った。何度も話そうとした。そのたびに拓海は、私を嫉妬深いって笑った。チャンスは、もう何回もあったよ」
私は用意していたバッグを持った。
「今日は実家に帰る。残りの荷物は来週、千夏に付き添ってもらって取りに来る」
「待ってくれよ」
「触らないで」
伸びてきた手が止まった。
「もう話し合いで元に戻れる段階じゃない。私、拓海のことを信じられない」
玄関の鍵を開けたとき、背後から声がした。
「俺、本当に紗季が好きなんだよ」
「だったら、好きな人にすることを間違えたね」
私は振り返らなかった。
*
実家の玄関を開けると、母が出てきた。
「おかえり。ご飯は?」
「食べてない」
「じゃあ、おにぎり作ろうか」
私は「うん」と答えた。母が台所に向かう背中を見ているうちに、涙がこぼれた。
「……お母さん」
「どうした?」
「浮気、してた」
母は手を止めた。
「拓海くんが?」
私は頷いた。
「そっか」
母はそれだけ言って、炊飯器を開けた。
しばらくして出てきたおにぎりは、少し大きすぎた。いつもなら二つ食べられるのに、その日は一つを食べ終えるのがやっとだった。
翌朝、拓海から長い謝罪のメッセージが届いていた。莉子とは別れる、ゲームもやめる、もう二度と嘘はつかない。そんな言葉が並んでいた。
私は返事をせず、荷物を運ぶ日程と家財の精算方法だけを送った。
彼からはすぐに返信が来た。
『本当にそれだけ?』
『うん。それだけ』
そのやり取りを見ていた母が、台所から声をかけた。
「紗季、無理して一人で荷物取りに行かなくていいからね」
「千夏が一緒に来てくれる」
「じゃあ、お父さんの車も出せるようにしておく」
私は初めて、実家に帰ってきてよかったと思った。
*
翌週の土曜日、千夏と父に手伝ってもらい、残りの荷物を運んだ。
拓海は部屋にいた。玄関を開けたとき、寝不足なのか目の下に隈があった。
「紗季、ちょっとだけ話せない?」
「荷物を運び終わってから、精算の話なら」
「そうじゃなくて」
千夏が私の隣に立った。
「今日は引っ越しを終わらせよう。話はまた別の日にしてもらえる?」
拓海は不満そうだったが、父の姿を見ると黙った。
私の本と服は、あらかじめ箱に詰めてあった。食器は自分で買ったものだけ。拓海が使うと決めた冷蔵庫と洗濯機は、使用年数を踏まえた現在の価値を二人で見積もり、私の持ち分を拓海に買い取ってもらうことにした。金額は書面に残し、引っ越しの日までに振り込んでもらった。
父が車に最後の箱を積む間、私は部屋の中を見回した。
この窓から見える夕焼けが好きだった。雨の日には、二人で窓際に椅子を並べたこともあった。
楽しかったことは確かにある。
でも、それだけでは暮らしていけない。
「これ、返すね」
私は合鍵をテーブルに置いた。
「……本当に終わりなんだな」
「うん」
「三年も一緒にいたのに」
「三年も一緒にいたのに、私の誕生日に別の人と会ってたんだよね」
拓海は黙った。
「私、最後まで信じたかったよ」
「……ごめん」
「その言葉、もっと早く聞きたかった」
私は部屋を出た。
車に乗り込むと、千夏がペットボトルのお茶を差し出してくれた。
「お疲れ」
「ありがとう」
「次の部屋、決まったら見に行っていい?」
「もちろん。まだ物件探してるけど」
「引っ越し祝いは、でっかい鍋にしよう」
「一人暮らしででっかい鍋は困るよ」
久しぶりに声を出して笑った。
*
拓海は、私が出ていってから、二人で暮らしていた部屋の家賃を自分一人で払うことになった。
私はそれを後から知ったわけではない。引っ越す前から、毎月の家計は二人で確認していたからだ。
拓海の給料なら、家賃を払うだけならできる。でも、これまでと同じように外食し、ゲームに課金し、休日に気軽に買い物をする余裕はなくなる。
私がいなくなれば、掃除も洗濯も料理も自分でしなければならない。
それは罰というより、一人暮らしの当たり前だ。
ただ、拓海にとっては当たり前ではなかったらしい。
後日、共通の友人から聞いた話では、彼は「紗季って、こんなにいろいろやってたんだな」とこぼしていたという。
私がいる頃は、食器が片づいていることにも、洗剤が切れないことにも、何も言わなかったのに。
でも、その話を聞いても、戻りたいとは思わなかった。
*
拓海と莉子さんが正式に付き合い始めたのは、私が荷物を運び終えた直後だった。
知ったのは、莉子さんから直接メッセージが来たからだ。
『紗季さん、突然すみません』
画面を見て、手が止まった。
『拓海くんとは、きちんとお付き合いすることになりました』
謝罪かと思った。
でも、続きは違った。
『紗季さんには申し訳ないと思っています。でも、拓海くんは私を選んでくれました。もう連絡しないでもらえますか』
私は思わず画面を見直した。
こちらから拓海に連絡したのは、引っ越しと精算のためだけだ。すべて終わってからは一度も送っていない。
『こちらから連絡するつもりはありません。今後、私にも連絡しないでください』
そう返信してブロックした。
その夜、千夏に話すと、電話の向こうで呆れた声がした。
『わざわざ勝利宣言?』
「たぶん」
『何に勝ったんだろうね』
「分かんない」
私は冷蔵庫から作り置きのスープを出した。
「でも、もうどうでもいいかな」
『ならいい。あんた、前より声が明るくなったよ』
千夏の言葉に、私は少し笑った。
*
十一月の終わり、私は小さな一LDKを借りた。
駅から少し遠いけれど、南向きの窓が気に入った。家賃は自分の給料で無理なく払える額にした。
最初の夜、段ボールに囲まれてカップ麺を食べた。
テレビもまだつないでいない。部屋は驚くほど静かだった。
それでも、誰かがヘッドセット越しに笑う声を聞きながら眠るより、ずっと落ち着いた。
翌朝、好きな時間に起きて、好きな音楽をかけた。洗濯機を回して、窓を開ける。
ベランダに出ると、冬の匂いがした。
これからどうしよう。
そう考えたとき、久しぶりに少しだけ楽しみだと思えた。
*
十二月に入って、佐伯さんから一度だけ近況が届いた。ゲーム仲間のグループチャットで、拓海と莉子さんが口論になったという。
原因は、拓海が別の女性プレイヤーと毎晩二人でボイチャをしていたことだった。莉子さんが嫌だと言うと、拓海は「ただのゲーム仲間だろ」と返したらしい。
莉子さんはグループチャットに『彼女が嫌だって言ってるのに、他の女と毎晩ボイチャするの普通?』と書き込んだ。佐伯さんが個別に、以前の私に対する発言と矛盾していないか尋ねたところ、莉子さんは答えなかったという。
ところが拓海が公開のチャットで『また嫉妬?』と返し、二人は言い争いになった。莉子さんは『紗季さんとは別れるって言ってたのに、ずっと同棲してたじゃん』と書き込んでしまった。
そこで初めて、交際中の浮気を知った仲間もいた。誰も大騒ぎはしなかったが、何人かは二人と距離を置き始めたそうだ。
私は佐伯さんに「教えてくれてありがとう。でも、これからは二人の近況は知らせなくて大丈夫です」と返した。
その先に何があったのか、私は知らない。
*
【幕間・莉子/十二月】
莉子は拓海の部屋の前で、合鍵を握りしめていた。
今夜は一緒に夕食を食べる約束だった。駅前の店で惣菜を二人分買ってきたのに、拓海は「急にゲームの誘いが入った」と言って、食事を明日に延ばそうとした。
もう何度目だろう。
ドアを開けると、案の定、拓海はヘッドセットをつけていた。
「ねえ、話があるんだけど」
「ちょっと待って。今マッチ中」
莉子は買い物袋を台所に置いた。冷蔵庫には飲みかけのペットボトルが何本も並び、流しには昨日の皿が残っている。
ゲームの中で知り合った頃、拓海はよく莉子を褒めた。失敗しても笑ってくれたし、深夜まで話を聞いてくれた。彼女より自分と過ごす方が楽しいのだと感じて、優越感さえあった。
それなのに、今は。
『たっくん、こっち来てよ』
聞き覚えのない女性の声が漏れた。
「誰、その人」
「フレンド。昨日知り合った」
「昨日も一緒だったよね。私には仕事で疲れたから寝るって言ったのに」
「またそういう話?」
「嘘ついたの?」
拓海はようやくヘッドセットを外した。
「たかがゲームだろ。紗季みたいなこと言うなよ」
莉子は言葉を失った。
「……紗季さんは、こういうのが嫌だったんじゃないの」
「何で今さらあいつの話をするんだよ」
「私、あの人のこと笑った。束縛するから拓海くんに嫌われるんだって。でも、今なら……」
「だったら理解してくれよ。何もしてないんだから」
莉子は惣菜の袋を見た。まだ温かかった揚げ物は、すっかり冷えている。
「私が来るの、分かってたよね」
「だから明日でいいって言ったじゃん」
「明日も、誰かに誘われたら同じこと言うでしょ」
拓海は答えなかった。
莉子は袋を持ち上げた。二人分買ったうち、自分の分だけ取り出す。
「帰るね」
「勝手にすれば」
廊下に出たところで、莉子は足を止めた。以前、紗季に送ったメッセージを思い出した。
『拓海くんは私を選んでくれました』
あのとき、自分は何を勝ち取ったつもりだったのだろう。
彼女との約束を破って会いに来る男は、恋人が自分になっても約束を破る。分かっていたはずのことだった。
それから三日後、莉子は拓海を駅前の喫茶店に呼び出した。
拓海は約束の時間を十分過ぎて現れた。席に着くなりスマホを伏せ、「で、話って?」と聞いた。
「私たち、別れよう」
口にすると、思っていたより声は震えなかった。
「……分かった」
拓海はそれだけ言った。
「え、それだけ?」
「莉子ももう無理なんだろ。俺だって最近、喧嘩ばっかりで疲れてたし」
莉子はテーブルの下で手を握りしめた。引き止めてほしかったわけではない。それでも、あまりに簡単だった。
「紗季さんに別れるって言われたときは、あんなに必死だったのに」
「何で今、紗季の話になるんだよ」
「私だったら、引き止めないの?」
拓海は目を逸らした。
「……紗季とは、三年付き合ってたから」
「私とは短かったから、どうでもいいってこと?」
「そうは言ってないだろ」
莉子は、言い返そうとしてやめた。
拓海に彼女がいると知りながら、莉子は拓海との時間を特別だと思っていた。彼が紗季との約束を破るたび、自分が選ばれている気になった。
けれど今、拓海は一度もこちらを引き止めようとしない。
「……私、紗季さんに『拓海くんは私を選んだ』って送ったんだよ」
「何でそんなことしたんだよ」
「勝ったつもりだったから」
拓海は答えなかった。
「でも、勝ち負けじゃなかったね。私がしたことは消えないし、拓海くんと一緒にいても、もう楽しくない」
莉子は伝票を取り、自分のコーヒー代をテーブルに置いた。
「合鍵、ここに置くね。もう連絡しない」
拓海は鍵を見つめたまま、何も言わなかった。
店を出た莉子は、駅へ向かいながらスマホを取り出した。紗季に送った昔のメッセージが、まだ残っていた。
『拓海くんは私を選んでくれました』
削除しようとして、指が止まった。
あの言葉を受け取った紗季がどんな気持ちだったか。今なら少しは想像できる。それでも、自分が同じ痛みを味わったからといって、許してもらえるわけではない。
莉子は画面を閉じた。
翌週、莉子はゲーム仲間の女性に相談を持ちかけた。
『紗季さんのとき、私が言ったこと、覚えてる?』
『覚えてるよ』
『私、ひどかったよね』
『うん。あの人がいるって知ってたからね』
慰めの言葉はなかった。
それから数日、莉子はひとりでゲームを起動することが増えた。あのグループチャットでの口論以来、以前の仲間からの誘いは途絶えていた。自分から声をかける勇気も出なかった。
別れたことを紗季に知らせたくなった。謝りたいとも思った。
けれど、ブロックされた画面を見て、莉子はスマホを置いた。
自分が謝りたくなったからといって、相手が聞く義務はない。
そのことを、ようやく認めた。
*
莉子さんが謝罪を申し出たのは、年が明けてからだった。
以前、事情を教えてくれた佐伯さんを通じて、私に伝言が届いた。佐伯さんは「もう二人の近況は知らせないと約束したから迷ったけれど、今回は本人からの謝罪の申し出だったので、伝えるかどうかだけ確認したかった」と説明してくれた。もちろん、私の連絡先を勝手に教えることはしなかった。
『紗季さんに謝りたいので、伝えてもらえませんか』
佐伯さんは、私にメッセージのスクリーンショットを送ってくれた。
「どうする?」
「断ってくれる?」
「いいの?」
「うん」
私は少し考えてから続けた。
「謝りたいって思ってくれたなら、それはそれでいい。でも、私はもう話したくない」
「分かった」
佐伯さんは私の希望どおりに返信してくれた。
『本人はこれ以上の連絡を望んでいません。今後は私にも連絡しないでください』
莉子さんから返事は来なかった。
あの人が本当に反省したのか、ただ拓海とうまくいかなくなって後悔しているだけなのか、私には分からない。
どちらでもよかった。
私はもう、あの二人の物語の登場人物でいたくなかった。
*
【幕間・拓海 正月】
拓海が両親に別れを伝えたのは、年明けのことだった。
正月に実家へ帰ると、母親が台所から顔を出した。
「紗季さんは? 今年は一緒じゃないの?」
「……別れた」
母親は持っていた布巾を置いた。
「どうして? 去年は結婚の話までしてたでしょう」
「ちょっと、うまくいかなくなって」
父親が新聞を畳んだ。
「それで終わる話なのか。お前、挨拶の日取りを相談したいって言ってただろう」
拓海は返事ができなかった。
「何かしたの?」
母親に聞かれ、拓海はようやく口を開いた。
「……他の女と会ってた」
「会ってた?」
「ゲームで知り合った人と。その、付き合ってる間に……関係を持った」
母親の顔から表情が消えた。
「紗季さんは知ってるの?」
「知ってる。だから出ていった」
「だから、じゃないでしょう」
普段は穏やかな母親の声が硬くなった。
「あなたがしたことで、紗季さんが出ていくしかなくなったんでしょう」
父親は拓海を見た。
「結婚するつもりだったのか」
「……うん」
「だったら、どうしてそんなことをした」
「莉子とは、本気じゃなかったから」
「本気じゃなければいいと思ったのか」
父親の問いに、拓海は何も言えなかった。
「相手の人生を何だと思ってる。結婚の話をしておきながら、他の人と関係を持って、家では今までどおり暮らしてたのか」
拓海は頷いた。
母親はしばらく黙っていた。やがて、ため息をついた。
「紗季さんには、あなたからちゃんと謝ったのね」
「謝ったよ。でも許してくれなかった」
「許してもらうために謝ったの?」
「……」
「謝ったら元に戻ると思っているなら、まだ何も分かってないわ」
拓海は俯いた。
食卓には三人分の箸が並んでいた。母親は年末に紗季の好物だった煮物を作ろうとして、途中でやめたのだという。
「春になったら、みんなで食事でもと思ってたのよ」
母親はそう言って、空いた椅子を引いた。
拓海は、以前この家で紗季が笑っていたことを思い出した。母親と料理の話をして、父親が趣味の話をすると、熱心に聞いていた。
自分が何も言わなくても、紗季はこの家族と関係を作ろうとしてくれていた。
それを壊したのは、自分だった。
父親は立ち上がる前に言った。
「お前を家族として見捨てるつもりはない。でも、紗季さんに戻ってこいとは言えない。自分のしたことの結果は、自分で引き受けろ」
拓海は返事をしなかった。
その帰り道、紗季に連絡しようとして、やめた。
謝罪したいのか、許してほしいのか。自分でも区別がつかなかった。
*
【紗季】
水野航平さんと親しくなったのは、年が明けてしばらくしてからだった。
航平さんは二十八歳。私と同じ会社の別部署にいる人で、以前から仕事で顔を合わせていた。挨拶はするし、資料のやり取りもする。でも、それ以上の関係ではなかった。
新年最初の大きな案件で、私の部署と航平さんの部署が一緒に動くことになった。
「宮原さん、これ、去年の数字で合ってます?」
「はい。こっちが今年の予算です」
「ああ、なるほど。助かりました」
航平さんは、資料を受け取るたびにお礼を言った。
最初は、丁寧な人だなと思っただけだった。
ある日、私が作った資料に誤りが見つかった。
数字の参照先を一つ間違えていた。大きな問題になる前に気づいたものの、私は慌てて修正した。
「すみません。確認が足りませんでした」
航平さんは画面を見て頷いた。
「ここですね。じゃあ、僕の方も差し替えておきます」
「本当にすみません」
「大丈夫。僕も見落としてたし。二人で見つけられてよかったです」
責められなかったことより、失敗を一緒に直そうとしてくれたことが嬉しかった。
拓海と比べるのは違うと分かっていた。
それでも、相手の言葉に身構えなくていいのは、こんなに楽なのかと思った。
*
仕事が落ち着いた日の昼休み、航平さんと社員食堂で席が一緒になった。
「宮原さん、休みの日って何してるんですか?」
「最近は部屋の片づけですね。引っ越したばかりなので」
「そうなんですね。僕は映画観たり、ゲームしたり」
「ゲーム?」
思わず聞き返してしまった。
「オンラインもやりますよ。友達と四人くらいで」
「……女の人もいますか?」
自分で聞いてから、失礼だったと思った。
航平さんは少し首を傾げた。
「いますね。大学のサークルの友達もいるので」
「そうなんですね」
「何かありました?」
私は迷った。職場の人に、別れた彼氏の話をする必要はない。
「いえ、ちょっと昔のことを思い出して」
「そっか」
航平さんはそれ以上聞かなかった。
数日後、仕事帰りに駅まで一緒になった。電車が遅れていて、私たちは改札前のベンチで待つことになった。
「この前、変なこと聞いてすみません」
「ゲームの話?」
「はい。女の人がいるかなんて」
「別に変じゃないですよ。気になる理由があったんでしょうし」
私はしばらく黙った。
「前の彼氏が、ゲームで知り合った女の人と浮気したんです」
航平さんは驚いたように私を見た。
「……それは、つらかったですね」
「だからって、ゲームする人がみんなそうだとは思ってないんですけど」
「うん」
「嫌だって言っても、聞いてもらえなかったのが一番つらかったかもしれません」
航平さんは少し考えてから言った。
「僕もゲームは好きだから、遊びたい気持ちは分かります。でも、付き合う人が嫌だと思ってることなら、何が嫌なのかはちゃんと聞きたいですね」
「……そうですよね」
「ただ、全部やめてと言われたら、僕もすぐには約束できないかも。友達との付き合いもあるし」
私は顔を上げた。
「それは分かります」
「だから、話し合うしかないんでしょうね。二人で納得できなかったら、付き合い方を考えることも必要だと思う」
その答えは、私に都合のいい言葉ばかりではなかった。
だからこそ、信用できる気がした。
航平さんは電光掲示板を見上げた。
「あ、電車動きそうですよ」
「本当だ」
私たちは立ち上がった。
その日から、航平さんと話すのが少し楽しみになった。
*
三月、仕事の案件が一区切りついた日に、航平さんから食事に誘われた。
「宮原さん、今日時間あります? よかったら夕飯でも」
「あります。何食べます?」
「駅前に新しい定食屋ができたらしくて」
最初の食事は、気取らない店だった。
航平さんは焼き魚定食を、私は生姜焼き定食を頼んだ。
「一口食べます?」
「いいんですか?」
「その代わり、魚ちょっとください」
「交渉成立ですね」
そんな会話をして笑った。
帰り道、航平さんが言った。
「また一緒にご飯行きませんか?」
「ぜひ」
「よかった。断られたらどうしようかと思ってました」
「そんなに緊張することですか?」
「結構しましたよ」
航平さんは照れたように笑った。
私もつられて笑った。
それから月に二、三回、仕事帰りに食事をするようになった。四月には映画を観に行った。五月には、私が前から気になっていた美術館に付き合ってもらった。
航平さんは展示を一つずつ丁寧に見る人だった。私は途中で足が疲れてしまい、ベンチに座った。
「先に見てきていいですよ」
「いや、僕もちょうど休みたかったので」
「本当ですか?」
「本当。解説、読むのに時間かかるんですよね」
そのあと、航平さんが展示室の出口で図録を買うか真剣に迷っているのを見て、少しおかしくなった。
完璧な人ではない。
時間をかけて悩むし、方向音痴で、映画の上映時間を勘違いしたこともある。
でも、間違えたときは謝る。私の話を途中で遮らない。予定を決めるときは、私の都合も聞いてくれる。
それが嬉しかった。
*
六月の終わり、航平さんと週末に映画を観る約束をしていた。
ところが前日の夜、航平さんから電話が来た。
『紗季さん、ごめんなさい。明日の午前中、大学の友達とゲームの大会に出る約束してたの、完全に忘れてました』
私は一瞬、息を止めた。
『映画は午後だから間に合うと思うんですけど、もし長引いたら困るので、先に相談したくて』
「……そうなんですね」
『大会の方を途中で抜けるのも迷惑かけるし、映画を別の日にしてもらうか、僕が大会を断るか、ちゃんと決めたいです』
私はしばらく考えた。
拓海なら、きっと黙って予定を変えていただろう。
でも航平さんは、前日に気づいて、先に謝ってくれた。
「映画、来週でも大丈夫ですよ」
『本当に?』
「はい。私も来週は空いてますし。大会、頑張ってください」
『ありがとうございます。次からは予定ちゃんと確認します』
「約束ですよ」
『はい。カレンダーに入れました』
電話を切ったあと、私は自分が笑っていることに気づいた。
ゲームの予定を優先されたのに、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
違う。
私との予定を勝手に後回しにされたわけじゃない。
相談して、私も納得して決めたのだ。
私はようやく、あの頃の自分が何を求めていたのか、はっきり分かった気がした。
*
七月の初め、航平さんから告白された。
仕事帰りに食事をしたあと、駅前の小さな公園を歩いていた。
「紗季さん、少し話してもいいですか」
「はい」
「僕、紗季さんのことが好きです」
立ち止まった私を見て、航平さんは緊張したように笑った。
「一緒にいると楽しいし、もっといろんなところに行きたい。よかったら、付き合ってください」
嬉しかった。
でも、胸の奥に小さな怖さが残っていた。
「私、前に浮気されてから、誰かを信じるのがちょっと怖くて」
「うん」
「また同じことになったらって、考えちゃうんです」
航平さんは頷いた。
「その気持ちが急になくなるとは思いません。僕にも、きっと嫌なところはあるし」
「……はい」
「でも、何かあったらちゃんと話してほしいです。僕も話します」
私は彼を見つめた。
「私も、航平さんのことが好きです」
航平さんの顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「はい。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ」
差し出された手を握ると、少し汗ばんでいた。
「緊張してたんですか?」
「かなり」
「全然そんなふうに見えませんでした」
「隠すの必死でした」
私たちは笑った。
久しぶりに、これからのことを考えるのが楽しみだった。
*
【紗季】
八月の終わり、拓海から電話がかかってきた。
知らない番号だったので、最初は仕事の連絡かと思って出てしまった。
『……紗季?』
その声を聞いた瞬間、指が止まった。
「拓海?」
『よかった。出てくれた』
「何の用?」
『話したいことがあるんだ』
「私はないけど」
『五分だけ。頼む』
私は駅のホームにいた。次の電車までは十分ある。
「……電話でなら、五分だけ」
『ありがとう』
拓海はしばらく黙っていた。
『俺、莉子と別れた』
「そう」
『知ってた?』
「前に聞いた」
『あれから、いろいろあってさ。ゲーム仲間ともほとんど遊ばなくなった』
「うん」
『部屋も引っ越した。前のところ、家賃高くて』
「そうなんだ」
『……冷たいな』
私は思わず苦笑した。
「何て言ってほしいの?」
『いや、そうじゃなくて』
拓海はため息をついた。
『紗季がいなくなってから、全部めちゃくちゃになったんだよ』
「全部?」
『家のことも、ゲームのことも。莉子とも結局うまくいかなかった。あいつ、俺が他の女と遊ぶの嫌がってさ』
「……私と同じだね」
『ああ。今なら分かる。紗季が嫌だったのも』
私は線路の向こうを見た。
遅いよ、と言いそうになった。
でも、その言葉を伝えることにもう意味はなかった。
『俺、紗季に甘えてた。帰ったらご飯があって、洗濯もしてあって、休みの日には一緒に出かけて。あれが普通だと思ってた』
「うん」
『紗季と結婚するつもりだったのは、本当なんだ』
「それ、前にも聞いたよ」
『親にも話してた。結婚前に挨拶に行くって』
「……そう」
『でも、浮気のことを話したら、親父に怒られた。母さんにも、謝れば許してもらえると思うなって言われた』
拓海の両親には、何度か会ったことがある。穏やかな人たちだった。
私は二人に何も伝えていない。拓海が自分で説明したのだろう。
『母さん、紗季のこと気に入ってたんだよ。結婚したら家族になると思ってたって』
「……私も、そう思ってたよ」
少しだけ胸が痛んだ。
『なあ、紗季。もう一回、やり直せないかな』
私は黙った。
『今度はゲームも減らすし、家事もちゃんとする。二人の時間も作る。俺、変わるから』
「拓海」
『何?』
「私がいなくなって困ったこと、今話してくれたよね」
『……うん』
「家事が大変だった。家賃が高かった。ゲーム仲間がいなくなった。莉子さんとうまくいかなかった」
『それだけじゃない!』
「じゃあ、私がどんな気持ちだったか、分かる?」
拓海は黙った。
「私の誕生日に、あなたは莉子さんと会ってた。私が一人でケーキを買ったことも知らないよね」
『……ごめん』
「何度も嫌だって言って、それでも笑われた。浮気してたのに、私が疑い深いから悪いって言われた」
『……』
「私はね、拓海の世話をするために一緒にいたんじゃないよ」
『分かってる』
「分かってなかったから、こうなったんだと思う」
電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。
「もう切るね」
『待って。俺、まだ紗季が好きなんだ』
「私は、もう好きじゃない」
電話の向こうが静かになった。
『……新しい人でもできた?』
「うん。今、付き合ってる人がいる」
『いつから?』
「七月から」
『そんな……。俺たち、結婚するはずだったのに』
その言葉に、私は足を止めた。
「結婚するはずだったのは、浮気する前の拓海とだよ」
『……』
「今の私には、もう関係ない」
『俺、本当に後悔してる』
「その後悔は、次に誰かと付き合うときに忘れないで」
「それから、もう私には連絡しないで」
私は通話を終えた。
新しい番号もブロックした。
少し遅れて電車に乗ると、窓に自分の顔が映った。
思ったより、穏やかな顔をしていた。
*
その夜、航平に電話で拓海から連絡があったことを話した。
『大丈夫だった?』
「うん。もう連絡しないでって伝えた」
『そっか』
「ごめんね。嫌な話をして」
『謝ることじゃないよ』
少し沈黙があった。
『紗季、何かしてほしいことある?』
「何か?」
『話を聞くだけでもいいし、明日どこか行って気分変えるのでもいいし』
私は考えた。
「じゃあ、明日、一緒に夕飯作らない?」
『いいよ。何食べたい?』
「ハンバーグ」
『了解。僕、玉ねぎ切る係でいい?』
「涙出るよ」
『そこは頑張る』
私は笑った。
拓海の話をした後でも、航平との会話は普段どおりだった。
気を遣わせているかもしれない。でも、航平は私を急かさなかった。
そのことが嬉しかった。
*
【幕間・拓海】
その夜、拓海は一人でゲームを起動した。
以前の固定パーティーのメンバーはオンラインだった。何人かで別のパーティーを組んで遊んでいる。拓海が「次、一緒に入れない?」と送ると、少しして「ごめん、今のメンバーで続けることにした」と返ってきた。別の仲間にも声をかけたが、「しばらく一緒には遊べない」と断られた。拓海は返信欄を開いたまま、何も打てなかった。
部屋は前より狭く、机とベッドでいっぱいだった。
夕飯はコンビニの弁当。洗濯物は椅子の背にかかったまま。
拓海はスマホの写真を開いた。
去年の旅行で、紗季が笑っている写真があった。
旅行の予約をしたのは紗季だった。切符を買い、宿を探し、食べたい店を調べたのも紗季だった。
拓海は、指定された時間に駅へ行っただけだった。
旅行の前日、仕事で失敗した拓海が「行くのやめようかな」と漏らしたときも、紗季は無理に励まさなかった。「キャンセルしてもいいし、行ってぼんやりしてもいいよ」と言って、拓海が決めるまで待ってくれた。
結局、二人で出かけた。帰りの電車で拓海が眠ってしまったとき、紗季は起こさず、自分の肩を貸していた。目を覚ました拓海が謝ると、「疲れてたんでしょ」と笑った。
あのとき、紗季がどんな気持ちで隣にいてくれたのか、一度も聞かなかった。
それでも紗季は楽しそうだった。
『来年も一緒に来たいね』
あのとき、そう言っていた。
拓海は写真を閉じた。
自分が失ったのは、家事をしてくれる同居人ではなかった。
何でもない休日を一緒に楽しみ、先の予定を二人で考えてくれる恋人だった。
今さら気づいても、紗季は戻らない。
電話で聞いた、新しい恋人がいるという言葉が頭から離れなかった。
拓海はゲームの画面を見つめたまま、何も操作しなかった。
しばらくして、パソコンの電源を落とした。
部屋は静かになった。
*
【紗季】
翌日、航平の部屋でハンバーグを作った。
航平は玉ねぎを切りながら、案の定、涙目になっていた。
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと目が痛いだけ」
「交代しようか?」
「あと半分だから頑張る」
私は隣でひき肉をこねながら笑った。
焼き上がったハンバーグは、少し焦げた。航平は「香ばしいってことで」と言い、私は「次は火を弱めよう」と返した。
食後、航平のスマホにゲーム仲間からメッセージが届いた。
「今夜、何時から?」
私が聞くと、航平は画面を確認した。
「九時から誘われてる。でも、まだ返事してない」
「私、八時くらいに帰るつもりだから、間に合うね」
「そう? 無理に帰らなくていいよ」
「無理じゃないよ。明日の仕事の準備もしたいし」
「じゃあ、駅まで送る」
私は頷いた。
航平は友達に『九時から参加するよ』と返信した。
私はその横顔を見ていた。
ゲームが好きな人と付き合うことが、怖くなくなったわけではない。まだ、ふと昔のことを思い出す夜もある。
でも、航平は予定を相談してくれる。私も自分の希望を言える。
それだけで、こんなに違う。
帰り道、駅前のケーキ屋の前を通った。
去年の誕生日、一人で買ったケーキと同じ店だった。
「紗季、どうしたの?」
「ううん。ここのケーキ、おいしいんだよ」
「じゃあ今度買おうか」
「うん。今度、一緒に選びたい」
航平は笑った。
「いいね。何個買う?」
「二個で十分でしょ」
「僕、三個いけると思う」
「食べすぎ」
二人で笑いながら歩いた。
今年の誕生日は、まだ少し先だ。
その日、どんなふうに過ごすかは決めていない。
でも、今度は一人でケーキを買うことになっても、寂しいからではなく、自分が食べたいから買うのだと思う。
私はもう、誰かの都合に合わせて自分の気持ちを飲み込むつもりはない。
好きな人とは、好きなことも、嫌なことも、ちゃんと話したい。
航平が私の手を取った。
「電車、あと五分だって。急ぐ?」
「大丈夫。次でもいいよ」
「じゃあ、少し歩こうか」
「うん」
私たちは駅の手前で道を曲がった。
遠回りの道には、まだ夏の匂いが残っていた。
次の電車に間に合わなくても、今日は構わなかった。
もう、急いで帰って誰かの機嫌をうかがう必要はないのだから。
~完~




