『三本足の金の主(ぬし)』短
「ねえ、おばあちゃん。これ、覚えてる?」
陽だまりの落ちる縁側で、高校生の航太が一本の破魔矢を手に取った。羽の先が少しだけくたびれているが、漆塗りの赤がまだ鮮やかに光っている。
「まあ、懐かしいわね。日光の輪王寺さんで買ったものじゃない。あなたがまだ小学生で、階段を上るのも一苦労だった頃の」
祖母の節子が、眼鏡の奥の目を細めて笑った。
「そうそう。これを買った直後にさ、父さんが急に『よし、今からいろは坂行くぞ!』なんて言い出して。あの時はびっくりしたけど、家族みんなで見た中禅寺湖の景色、今でもたまに思い出すんだよね」
航太は破魔矢をそっと元の場所に戻そうとして、ふと飾り棚のさらに奥、影になった隅に「それ」を見つけた。
「……うわっ、なんだこれ。カエル?」
破魔矢を避けた拍子に指先が触れたのは、ひんやりとした金属の塊だった。埃を被り、鈍い金色を放つその塊を引きずり出してみる。ずしりと重い。
「……なあおばあちゃん、これ。このカエル、足が一本足りないよ。三本しかない。昔の職人さんのミス? 不良品かなにか?」
航太が眉をひそめて差し出したのは、口に丸い穴の開いた古銭をしっかりとくわえた、奇妙なカエルの置き物だった。表面はゴツゴツとしたいぼに覆われ、その目はどこか遠くの、それでいて目の前の金銭をじっと見据えているような、異様な執着を感じさせる欲深そうな顔つきをしている。
節子はそれを見た瞬間、少しだけ表情を引き締めた。
「ふふ、不良品だなんて。その子に聞こえたら、夜中にお金を全部持ち去られちゃうわよ」
「えっ……? だって、どう見たって三本足じゃん。バランス悪いし」
「いいえ、航太。その一本足りない後ろ足こそが、その子の力の証なのよ」
節子はゆっくりと腰を下ろすと、航太の手からその重い金のカエルを受け取った。
布で埃を拭うと、カエルの背中に彫られた北斗七星のような模様が、鈍く光を反射する。
「この子は『青蛙神』、あるいは『金蟾』。
中国に古くから伝わる、とても欲張りで、とても力の強い霊獣なの。なぜ足が三本なのか、知ってる?」
「知らないよ。ただの妖怪じゃないの?」
「四方八方の財宝をすべてその大きな口でかき集めてね、でも、どこかへ逃げ出そうと思っても足が一本足りないから、ぴょんぴょんとはいかない。主人の元に留まって、集めた富を絶対に逃がさないように、あえて後ろ足が一本になっていると言われているのよ」
節子の声は穏やかだったが、どこか物語の幕を開けるような、不思議な重みを含んでいた。
「……逃げられないように、足を? 誰がそんなことをしたの?」
航太の問いに、節子はカエルのくわえた古銭を指先でなぞりながら、静かに語り始めた。
「それはね、ある風変わりな仙人様との出会いから始まったお話なのだけれど――」
節子はカエルの頭を撫でながら、遠い目をして語り続けました。
「昔々、中国に劉海という名前の、それは立派な仙人様がいたの。もともとは大きなお国の役人だったんだけど、ある時、欲にまみれた世間に嫌気がさしてね。地位も名誉も全部捨てて、修行の旅に出たのよ」
「へぇ、お金持ちになる前の話なんだ」
航太は、祖母の膝の上にある金色の塊を見つめました。節子の指がカエルの背中のゴツゴツした突起をなぞります。
「そう。その修行の旅の途中で、劉海様はこのカエルに出会ったの。でもね、今の姿からは想像もつかないくらい、当時は暴れん坊でね。深い深い井戸の底に住みついて、毒の霧を吐いては村の人たちを困らせていたんですって」
「え、毒? 縁起物どころか、ただのモンスターじゃん」
「そうよ。この子はもともと、ものすごい魔力を持った妖術使いだったの。でも、劉海様は慌てなかった。このカエルが何よりも『お金』に目がなくて、光るものが大好きだってことを見抜いていたのね。そこで仙人様は、一計を案じたの。……航太、何を使ったと思う?」
「えー、網とか? 魔法の杖とか?」
節子はくすくすと笑い、棚の奥から一本の古い組紐を取り出しました。
「いいえ。劉海様はね、長い長い紐の先に、キラキラと輝く金のコインを結びつけたの。そして、それを井戸の底へ、釣り糸のように垂らしたのよ。……するとどうでしょう。欲張りなカエルは、その輝きを見た瞬間に我慢ができなくなって、毒を吐くのも忘れてパクッ! と食いついた。そこを劉海様が、グイッと釣り上げたわけ」
「釣り上げられたんだ……なんだか、間抜けだね」
「そうねぇ。でも、ここからが面白いところなの。釣り上げられたカエルは、劉海様の徳の高さにすっかり降参して、弟子にしてくれと頼み込んだ。それからというもの、このカエルは劉海様の相棒になって、三本の足でぴょこぴょこと、どこへでもついて行くようになったのよ」
「それで、どうやって人を助けるの? お金を取るんじゃなくて?」
「そこが劉海様のすごいところ。このカエルはね、金貨を食べるのが大好きなんだけど、劉海様がひょいと紐を引くと、お腹の中に貯め込んだ金を、困っている人たちの前でポロポロと吐き出すようになったの。今までは自分のために溜め込んでいた欲を、今度は誰かのために使う『福の神』に変えられちゃったというわけ」
航太は、自分の手元にあるカエルをもう一度見ました。
口にくわえた銭は、まるで「もっと欲しい」と言っているようにも見えるし、「これ、あげるよ」と差し出しているようにも見えます。
「不思議だね。あんなに欲深そうな顔してるのに、仙人様と一緒に歩いてる姿を想像すると、なんだか急に可愛く見えてきたよ」
「ふふ、そうでしょう? でもね、航太……」
節子の声から、少しだけ笑みが消えました。西日が部屋の奥まで差し込み、畳の上に長い影を作っています。
「この子は、あくまで劉海様という『立派な心を持った主人』がいたから、福の神でいられたの。もし、主人がいなくなって、ただ欲望だけが残されたら……このカエルは、また別の顔を見せるようになるのよ」
「別の顔……?」
航太の背中に、すっと冷たい風が通り過ぎたような気がしました。
「そう。それが、さっき話した『五通神』っていう、ちょっと怖いお話に繋がっていくんだけど……聞く勇気はあるかしら?」
航太がごくりと唾を飲み込むと、節子はカエルの置物を畳の上に置きました。
窓から差し込む夕日はいつの間にか朱色を通り越し、不気味なほどにどろりとした紫色に変わり始めています。
「劉海様のように、欲を乗りこなせる人ばかりじゃないのよ。このカエルはね、その家や主人の心の持ちよう一つで、恐ろしい『五通神』という化け物に姿を変えると言われているの」
「五通神……。さっきの仙人の話とは、だいぶ雰囲気が違うね」
「ええ。五通神というのはね、富を運んでくる神様ではあるけれど、その正体は得体の知れない動物たちの精霊が混じり合ったもの。ある時はイタチ、ある時はヘビ、そしてある時は……この大きなカエル。彼らはね、理屈も慈悲もないの。ただ、人間の『もっと欲しい』というどす黒い願いに惹かれてやってくるのよ」
節子はゆっくりと立ち上がり、仏壇の横にある古い引き出しから、一冊の和綴じの本を取り出しました。
そこには、中国の怪異を記した古い挿絵が載っています。
「昔、江南という水の豊かな土地に、ある商人がいたわ。商売に行き詰まって、毎日毎日『金さえあれば、魂だって売ってやる』と呪うように願っていた。するとある夜、枕元に大きな、大きなカエルの影が現れたの。三本の足で、重苦しい足音を立ててね……。カエルは低い声で言ったわ。『富をやる。その代わり、お前の家の最も大切なものを一つもらうぞ』って」
「大切なもの……? お金じゃないの?」
「そう。五通神はね、お金をくれる代わりに、とんでもない代償を求めるの。その商人は、翌朝から嘘のように商売が繁盛して、蔵がいくつも建つほどの大富豪になった。でもね、それと引き換えに、家から一人、また一人と家族が消えていった。美しかった奥さんは正気を失い、可愛がっていた子供たちは行方不明になったわ」
航太は、自分の足元にある金色のカエルを、思わず少し遠ざけました。
さっきまで「愛嬌がある」なんて思っていた顔が、今は冷酷な捕食者のそれに見えてきます。
「五通神はね、人の心にある『欲』という隙間から入り込んで、その家を中から食い尽くすのよ。彼らにとって富を与えるのは、魚を釣るための餌に過ぎない。彼らが本当に食べたいのは、人間の幸福や、清らかな心なの。このカエルが口にくわえているのは、私たちが差し出した『代償』なのかもしれないわね……」
風が吹き抜け、ガタガタと古い障子が鳴りました。
薄暗くなった部屋の中で、カエルの置物の目が、怪しく光ったような気がして航太は肩を震わせました。
「おばあちゃん、もういいよ。なんだか、この置物がさっきよりずっと大きく見えるし……笑ってるみたいで怖い」
「怖がることはないわよ、航太。この子はね、鏡なの。持つ人の心が綺麗なら福を呼び、心が濁れば闇を呼ぶ。ただそれだけのこと」
節子の顔は半分影に隠れ、その声はまるで遠い異国から響いてくるかのように、低く、重く、航太の耳にこびりつきました。
「でもね、一番怖いのはカエルじゃないの。この子が運んでくる『理由のない大金』を前にして、最後まで正気でいられる人間が、この世にどれだけいるか……。それが問題なのよ」
航太は、置物から目を逸らすようにして、庭の闇を見つめました。
夕闇はすっかり濃くなり、庭木のシルエットがまるで何かの怪物がうずくまっているかのように見えます。
「……じゃあ、結局どうすればいいの? こんなに怖いものなら、捨てちゃえばいいのに」
絞り出すような航太の言葉に、節子は「おや」と意外そうな声を出し、また優しく微笑みました。先ほどまでの冷たい空気は、その笑顔で少しだけ和らぎます。
「捨てるなんて、そんな極端な。航太、お金そのものに罪はないのよ。包丁だって、料理に使えば人を幸せにするけれど、使い方を間違えれば人を傷つけるでしょう? この青蛙神も同じ。大切なのはね、『置き場所』と『向き』なのよ」
節子はそう言うと、よっこいしょ、と声を漏らして、畳の上に置いたカエルを再び手に取りました。
「風水ではね、この子の向きを一日の中で変えてあげるのが良いとされているの。朝から昼、私たちが外へ出て一生懸命働いている間は、カエルの顔を玄関の方――つまり『外』に向けておくのよ。『外の世界から、良い運気をたくさん集めておいで』ってお願いしてね」
「へぇ、仕事に行かせるみたいだ」
「そう。でもね、一番大事なのはここから。夜になって私たちが家に帰り、家族で食卓を囲む時間になったら、この子の顔をくるりと回して、家の『中』に向けてあげるの」
節子は言葉通り、カエルの置物を航太の方へと向けました。
「これはね、『今日集めてきた福を、家族のために使いましょう。そして夜はゆっくり、家の中で心穏やかに過ごしましょう』という合図なのよ。
ずっと外に向けたままだと、カエルはいつまでも外の財を追いかけ続けて、家に戻るのを忘れてしまう。つまり、欲に際限がなくなってしまうの。……航太、これが何を意味するか分かる?」
航太は、祖母の穏やかな問いかけを頭の中で反芻しました。
朝は外、夜は内。
それは、かつて自分が小学生の頃、日光へ連れて行ってくれた父の姿に重なりました。
平日は夜遅くまで必死に働き、休みの日には「よし、行くぞ!」と家族を連れ出してくれる。
「……外で頑張る時間と、家で大事な人と過ごす時間を、ちゃんと分けるってこと?」
「その通り。欲っていうのはね、放っておけばどんどん膨らんで、最後には自分でも制御できなくなる。だからこそ、自分の中で『ここからはおしまい』という境界線を引かなきゃいけない。カエルの向きを変えるという小さな習慣は、実は自分の心に『節度』を教え込むための知恵なのよ」
節子はカエルの頭を、愛おしそうに布で拭き上げました。
「劉海様が金貨のついた紐でカエルを操ったように、私たちも自分の欲をちゃんと手綱で引いてあげなきゃいけない。五通神に飲み込まれる人はね、その手綱を離して、ただお金の向こう側だけを見続けてしまった人たちなの。置き場所を間違え、向きを忘れ、自分の心の居場所を見失ってしまったのね」
航太は、ずしりと重いカエルの置物を、今度は自分の手で受け取りました。
先ほど感じた不気味な重圧感は、不思議と消えていました。ただ、金属の冷たさと、それを持ち上げるために必要な自分の腕の力だけが、はっきりと感じられました。
「向きを変える、か……。なんだか、ただの迷信よりずっと深いね」
「そうよ。古くから残っているものには、必ず理由があるの。さて、そろそろこの子も、今日の仕事を終えてゆっくり休ませてあげないとね」
航太は、自分の手の中にあるカエルをじっと見つめた後、ゆっくりと立ち上がりました。
そして、日光の破魔矢が立てかけられている、あの飾り棚の隅へと歩み寄りました。
「おばあちゃん。ここ、だよね」
「ええ、そこがその子の定位置よ」
航太は、埃を払った棚の奥に、慎重にカエルを置きました。
今はもう夜が近い。おばあちゃんの教え通り、カエルの顔を部屋の内側――家族が集まる居間の方へと向けます。
すると、影に沈んでいた金色の肌が、居間の電球の柔らかな光を反射して、ふっと温かみを帯びたように見えました。三本の足でしっかりと踏ん張り、口に銭をくわえたその姿は、もう欲にまみれた怪物ではなく、家を守る風変わりな番人のようでした。
「よし。これで今夜は、うちの運気も安心だね」
航太が少し照れくさそうに笑うと、背後で節子が「あら、頼もしいこと」と声を弾ませました。
「さて、それじゃあ私たちも『内側』の時間を楽しみましょうか。今夜はね、あなたが好きな肉じゃがにしたのよ。日光で買ってきたあのお醤油、まだ残っていたでしょう?」
「あ、いい匂いがすると思ったら! おばあちゃんの肉じゃが、最高なんだよね」
航太が居間へ向かおうとした時、ふと、棚の隅のカエルと目が合ったような気がして足を止めました。
夕闇が完全に部屋を支配し、飾り棚の奥は深い影に包まれています。
その闇の中で、三本足のカエルは静かに、しかし確かな存在感を持って鎮座していました。
一瞬、本当に一瞬だけ。
カエルがくわえている古銭が、カタッと小さく鳴ったような、あるいはその口角が、満足げに一段と深く持ち上がったような……。
「……航太? どうしたの、早くおいで」
祖母の声に弾かれたように、航太は「あ、今行くよ!」と応え、慌てて居間の明かりの中へと飛び込みました。
廊下を駆ける孫の足音を聞きながら、節子は最後に一度だけ、飾り棚を振り返りました。
棚の上のカエルは、もう動く気配もありません。
ただ、家族の笑い声が響く部屋を、その三本の足でじっと支えているようでした。
外では、春の夜風がざわざわと竹林を揺らしています。
どこか遠くの池で、「ケロ、ケロ」と一匹のカエルが鳴きました。
それは、欲を乗りこなした仙人の笑い声のようでもあり、あるいは次の獲物を待つ五通神の囁きのようにも聞こえましたが、温かな食卓の湯気に包まれた航太の耳には、もう届くことはありませんでした。
飾り棚の奥、金色のカエルは今夜も、家族が寝静まるまでその向きを変えることなく、集めた「福」を静かに守り続けているのでした。
(完)
おばあちゃんと孫のとある日常の一コマ




