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9. 言葉にできない寂しさ

 それから私は週に1回ぐらい、松永先生と通話するようになった。大体土曜日の夕方頃である。

「こんにちは……先生」

「奈々美さん、こんにちは」


 ほとんどが私の大学生活の話。先生は何も言わずに聞いてくれる。

「先生は大学時代にバンドをしていたんですね」

 中学生の時に地域のフェスタで、“先生バンド”として松永先生がドラムを演奏していたことを思い出す。


「そうだな。サークルだったからゆるい活動だったけど、大学祭やイベントに出たこともあったな」

「フェスタの時もカッコよかったので……また見たいです」


 そう言うと先生は「フフっ」と小さく笑う。

「奈々美さんにそう言われると、また出来る気がしてきたな」

 心があったかくてぽかぽかしてくる。私は先生との電話で癒されていくのがわかった。


「そうだ、来週の土曜日は……君の母さんと過ごすことになっているんだ」

「え……」

「だから通話は難しい、すまないな」

「……」


 わかっていた……先生はお母さんの大切な人。

 なのに胸が苦しい。私だって先生にもっと話を聞いてもらいたいのに。


「……じゃあ、また会ってくれませんか?」

「奈々美さん……」

「私……先生に会いたい」


 スマホ越しにふぅと息を吐く音が聞こえる。

「……仕方ないな。少しだけなら」

「ありがとうございます」

「行きたいところ、あるか?」


 どうしようかな。先生と2人になれるならどこでもいいんだけど。

「……ゆっくり話せる落ち着いた場所がいいな」

「じゃあランチでもするか」



 ※※※



 6月に入ってから私は松永先生とランチに行った。

 待ち合わせをしていた店の前には、淡いグレーのシャツに細い眼鏡をかけた先生が立っている。まるで、絵の中から抜け出してきたみたいに。


「奈々美さん」と言って手を振ってくれた。

 柔らかい声――いつもの通話を思い出して胸が熱くなる。

 でも、先生はあくまで母の恋人。

 私は、娘……そう言い聞かせるのに、心は素直じゃない。

「今日会えて……嬉しいです」


 席について注文をする。向かいにいる先生がメニューを見ている姿、渋くて色っぽい。静かなクラシックが流れていて、時間の流れがゆっくりに感じた。


 するとスマホが鳴る。確認すると――はるくんからのメッセージだった。

 

『今日、夕食一緒にどう?』


 彼の顔が頭に浮かんだけれど、スマホをバッグにしまって先生の方を向いた。だけどはるくんのことも気にかかって、うまく笑えていない。


「奈々美さん……何か悩んでいるのか?」

「あ……その……前に進みたいのに、何かに引っかかってて。たぶん、自分の気持ちかもしれません」


 先生は目を細めて頷いた。

「人の心って、理屈では整理できないものだ。だから焦らなくていい」

 そう言って、優しく笑う。


 先生の笑顔に――息が止まった。

 私の中の何かが静かに崩れていく。

 その瞳は穏やかで、どこまでも深い。吸い込まれそうなほどに。


 お洒落なパスタが運ばれてきて気持ちが高まる。

「いただきます……」

 麺がモチモチしていてパスタソースが上品に絡む。


「うそ……美味しい! こんなの初めて」

「それは良かった」

 私は夢中になってパスタを食べていた。それを見ながら先生も微笑んでいる。まるで私を優しく包みこむように。

 

 ふいに先生が口を開く。

「君は……放っておけないんだよな。昔から」


 その一言が、心に触れた。

 胸がきゅっと痛む。

 放っておけないって――どういう意味なんだろう。


「……そうかな」

「ああ。奈々美さんは頑張りすぎるところがあるからな」

「もう、あの時ほど無理はしないつもりですので」


 この先生の優しさがずっと欲しかった。どんな自分でも受け入れてくれるような包容力。

 私はそう思いながら先生の顔を見つめていた。



 食後のコーヒーを飲んで店を出る。

 別れ際、先生が軽く頭に手を置いた。その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて揺れた。


「先生……また、会ってもいいですか?」

「もちろんだ。君の成長を、見守りたいから」


 優しすぎるその言葉が、苦しかった。

 駅までの道を歩きながら、頭に残る先生の手の温もりがずっと消えなかった。


 その温もりを抱えたまま、私ははるくんへの返信を――結局、できなかった。



 ※※※



 (竹宮くん視点)

 6月のある土曜の夕方、サークルの仲間数人とカフェに入った。卓球練習のあとで、腕は軽く疲れているのに、胸の奥が妙に落ち着かない。

 ――というのは、昼間に送った奈々ちゃんのメッセージが既読にならないからだ。


 久しぶりに夕食を一緒に食べようと思ったのに。少しずつ彼女と連絡を取る回数が減ってきている。


「竹宮くん、最近ちょっと元気ないね」

 向かいの席で笹谷さんがストローをくわえながら言う。

 細い指でストローをくるくる回す仕草が、どこか奈々ちゃんに似ていた。


「そうかな。少し、考え事してただけ」

「彼女のこと?」

 不意を突かれて、言葉が詰まった。

「……まあ、そんなところ」


 笹谷さんは優しく目を細めた。

「大切なんだね。けど、無理してない? 好きって、頑張りすぎると疲れちゃうよ。竹宮くんって誠実そうだからさ、向き合おうって考えすぎてるんじゃない?」


 その言葉に、少しだけ心がほぐれた。

 奈々ちゃんと話せていない寂しさを、誰にも言えなかったから。


「ありがとう。笹谷さんって、気が利くね」

「ううん。放っておけないだけだよ」


 照れくさそうに笑うその横顔を、つい目で追ってしまう。

 柔らかな光が差し込む窓辺。頬に影が落ちて、まるで春の午後みたいに優しい。

 ――いつからだろう。

 奈々ちゃん以外の誰かを、こんな風に見てしまうようになったのは。


「ねぇ、次の土曜も練習つきあってくれない?」

「いいよ。何時にする?」

「午前でも午後でも。そのあと、一緒にご飯行こ?」


 その提案に、なぜか断れなかった。

 あの夜、奈々ちゃんに拒まれた時の“痛み”を、笹谷さんの笑顔で誤魔化したかったのかもしれない。


 テーブルに置いたスマホが震える。

 奈々ちゃんから――じゃない。

 大学のグループチャットだった。

 胸の中に、ぽっかりと穴があく。


 まだ……僕のメッセージを見てくれていないんだな。


 気づけば、笹谷さんの声にこんなに救われていたなんて。

「ほら、デザート来たよ。半分こしよっか」

「……ああ、ありがとう」


 差し出されたスプーンが、光を弾いた。

 その瞬間、奈々ちゃんと過ごした日々が遠ざかっていく気がした。


 

 帰り道、駅に着くと改札に見慣れた後ろ姿――奈々ちゃんだ。あのワンピースは……見たことがなかった。大人っぽいホワイトのシャツワンピース。上品で綺麗だ。


 一体どこに行ってきたんだ……?


「奈々ちゃん」

「……はるくん」


 お互い何を話せば良いのか分からず、無言になる。

「……久しぶりだね」

「うん……奈々ちゃん、今日大人っぽいね」


 すると彼女はぱっと目を逸らしてうつむく。

「……サークルで集まってたんだ」

「そうなんだ、僕もだよ。あ、昼にメッセージ送ったんだけど」

「……ごめん」


 ん? 気づいていたのか?


「久しぶりに夕食一緒にどうかなって思ったんだけど……」

「あ……ちょっと疲れてて」

「わかった」


 どちらからともなく沈黙が降りてきて、会話は途切れた。心に残ったのは、言葉にできない寂しさだった。


 

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