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8. それぞれの思い

 美術館から帰ってきた夜。窓の外を見ると街灯の光がぼやけていて、まるで自分のよう。

 ベッドに横になっても、先生の声が頭の中で何度も再生されていた。

 

「無理は禁物だな」――あの言葉、きっと私のために言ってくれたんだ。先生には何でもわかってしまう。

 中学生の時もそうだった。私がひとつ上の高校を目指してダウンした時や、受験前で眠れない時に、「十分頑張っているのだから」と心をほぐすような言葉をかけてくれた。


 あの頃を思い出しながらスマホの画面を見つめる。先生のメールアドレスが、登録されたまま光っている。

 送るか、やめるか。何度も指が行ったり来たりする。


 ――送信。


『今日はありがとうございました。先生と話せて嬉しかったです。』


 すぐには返信が来ない。

 なのに、胸がずっとドキドキして落ち着かない。

 ようやく画面が光る。


『こちらこそ。君と話していて、久しぶりに穏やかな気持ちになれたよ。』


 たったそれだけなのに、息が止まりそうになる。

 穏やか――私もそんな気持ちだった。


『また、絵の話したいです。』


『もちろん。君となら、いくらでも。』


 夜の静けさの中に、2人だけの世界が広がっていく気がした。返信画面の明かりが胸の奥であたたかく灯っているように感じる。



 ※※※



 (松永先生視点)

 メールを送った後、少しだけ後悔した。

『君となら、いくらでも』――軽率だったかもしれない。

 教師として、彼女の母の恋人として、境界を守らねばならないのに。


 しかし画面を閉じても、奈々美さんの笑顔が浮かぶ。

 あの絵の前で語っていた時の表情。まっすぐな瞳。

 大人びたけれど、まだどこか幼い無垢さが残っている。


 スマートフォンが震える。


『先生、今少しだけ話してもいいですか?』


 心臓が跳ねた。

 夜10時――凛々子さんとはすでに連絡を取っていない時間。

 俺は数秒迷って、通話ボタンを押した。


「……もしもし、奈々美さん?」

「すみません、こんな時間に。でも、少しだけ声が聞きたくて……」


 その言葉に胸が高鳴る。

 静かな部屋の中、彼女の声だけが耳の奥に響く。


「絵の話、もう少し聞きたかったんです。あの少女……やっぱり、私みたいだなって」

「どうして?」

「なんとなく、見失ってる気がするんです。自分のこととか……好きな人のこととか」

「好きな人……?」


 一瞬、沈黙。

 その間に、鼓動の音が混ざり合う。


「……もし……私が先生のことを好きだったら、どうしますか?」

 声が震えていた。


「……そうだな。理屈抜きで、抱きしめたくなるかもしれない」


 言った瞬間、胸が痛んだ。

 教師としても、ひとりの男としても――その境界線を越えてはいけないのに。


 通話の向こうで、奈々美さんが小さく息を呑む音がした。

「その言葉……ずるいです。期待しちゃうじゃないですか」

「ごめん。今のは忘れてくれ」


 静かな呼吸の音だけが続き、通話を切る言葉を、どちらも口にできなかった。

 時計の針が進む音が、やけに遠くに聞こえる。


「おやすみなさい、奈々美さん」

「……おやすみなさい、先生」


 通話を終えた後も、彼女の声が耳から離れなかった。

 教師としての理性が囁く――もう二度と通話はしない方がいい。それでも指先は、また奈々美さんの名前を探していた。



 ※※※



 (竹宮くん視点)

 週末、市の体育館を借りて卓球サークルが活動することになった。

 

「よし、行くか」

 玄関のドアを開けると、前の方に爽やかなブルーのワンピースを着た彼女の後ろ姿が見えた。


「奈々ちゃん……?」


 話しかけようと思ったができなかった。何となくいつもと雰囲気が違ったからだ。その綺麗な横顔は、僕ではない別の人の方を向いている。あんなに大人っぽかったっけ? まるで自分の知らない女性のようだ。

 ほんの少しの距離が、まるで世界の違いみたいに感じた。


 少し気にはなったが、彼女もサークルの活動で忙しいのだろう。僕も駅の方へ向かった。


「おはよう! 竹宮くん!」

 そう声をかけてくれるのは同じ1年生の笹谷(ささたに)杏奈(あんな)さん。自然な茶髪のロングヘアをポニーテールにしている、明るい女子だ。


「おはよう、笹谷さん」

「今日、竹宮くんに教えてもらって……もっと上手くなりたいな♪」

 彼女がさりげなく僕の腕のあたりをポンとする。何だろう、よく触られるような気がするんだけど……意識してしまいそう。


 市民体育館に到着――卓球台の準備をしてウォーミングアップから始める。サークルなので高校の時ほどの熱心さはないけれど、卓球が上手い人も多いので十分楽しめる。

 

「ナイスー!」

 ラケットを振り抜き、ピンポン球が跳ねる。スマッシュが決まるとスカッとする。


「竹宮くん! お相手お願いします!」

 笹谷さんが来てくれた。

「よし……いくよ」

 彼女もそこそこ上手い方だったが、何故か色々教えて欲しいとのことで、僕から離れようとしない。


「わぁープロみたいだね、竹宮くん」

「ハハ……そうかな」

「カッコよくて尊敬しちゃう」

 笹谷さんに上目遣いをされて思わずドキッとする。


 でも奈々ちゃんの笑顔が浮かんで、胸が苦しくなる。

 何考えてるんだ……僕には彼女がいるのに。

 だけど最近あまりメッセージのやり取りがないような。


 それに今日だって僕に内緒であんな綺麗な格好して……。


「どうしたの? 竹宮くん」

「あ……ううん。何でもない」



 活動が終わってみんなで夕食に行く。近くの店に入り、ワイワイと話が盛り上がっている。

 横には笹谷さんが座っていた。いつの間にか、サークルでは僕の隣にいることが多くなったような気がする。


「竹宮くん……はい、サラダどうぞ」

「ありがとう」

 彼女は親切に周りの人にサラダを取り分けている。気が利く子だな。


 先輩たちには単位の取り方やテスト勉強の方法を教えてもらったり、アルバイトの話を聞いたりした。大学生は自由で好きなことができる。けれど、何をしたいのかきちんと考えて行動しないといけない。


 ウーロン茶を飲んでふぅと息をつくと、笹谷さんが首を傾げて言う。

「竹宮くんは……どんな女の子がタイプ?」


 すぐに奈々ちゃんの顔が思い浮かんだ。今日の彼女は一体誰に会いに行ったのだろう。

「えーと……真面目で一生懸命で、笑顔が可愛い子かな」

「そうなんだ……よぉし、頑張ろっと♪」


 何を頑張るのかよくわからないが、その仕草が可憐に見えてじっと見てしまった。笹谷さんのコロコロと変わる表情が見ていて飽きない。


 その時はまだ、心の針が少しずつズレ始めていることに――僕たちは気づいていなかった。


 

 

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