42. 春のある日
3月中旬ごろ、私は久々にはるくんのアルバイト先のジムに行った。まだまだ寒いけれど、ふと吹く風が春の匂いを運んでくる。
「奈々ちゃん!」
「はるくん、来たよ」
私は着替えてトレーニングエリアに向かった。ランニングマシンも久しぶりだったので、ゆるいペースからスタートした。
「ハァ……ハァ……疲れた」
ランニングマシンから降りて休憩していると、背中を鍛えている男の人がいた。目線はどこか一点に集中しており、まるで己と戦っているような雰囲気。じんわりと首筋に汗が滲んでいる。
「わぁ……すご……」
思わず見ていると彼と目が合う。
「フゥ……」と息を吐いてこちらに歩いてきた。背も高くてまるでどこかのダンサーのよう。
「君、ここにはよく来るの?」
いきなり話しかけられて驚いてしまった。
「えーと……久しぶりにきました。最近運動不足で」
「そうなんだね。何かトレーニングするかい? コツを教えるよ」
「……いや私はこういうのは」
「フフ、じゃあ一緒にスタジオプログラムに入らない?」
スタジオプログラム、もうすぐダンスエクササイズが始まる。ちょっと気になってたんだよね。
「ちょうど行こうと思ってたんです」
「じゃあ決まりだな」
よく知らない人だけど親切そうな人だったので、一緒にスタジオに入る。
ダンスエクササイズはその名のとおり、先生の振り付けのとおりのダンスをするもの。だけど一つひとつの動きに、ちゃんと意味があるらしい。
「はいみなさん! 音楽に合わせて!」
インストラクターの先生の声に合わせて、動きを真似してみるけどなかなか上手くいかない。何度かやってどうにか覚えられた。
そんな私の隣でプロのようなダンスを見せる――あの男の人。まるで王子様のようにかっこよくて、他の人も釘付けになっていた。
すごい……1回で全て覚えて完璧に踊れるなんて。
私は彼に見惚れつつも、頑張って身体を動かしていた。
プログラム終了後、私は彼に声をかけた。
「すごいですね……とても素敵でした。ダンサーの方ですか?」
「まぁね。今は無理せず続けているよ」
「私もそのぐらい踊れると楽しめるのにな……」
すると、彼に手を取られる。
エクササイズをした時以上に、鼓動が速くなってきた。
「……じゃあ僕が君に特別に教えようか?」
「え……」
ちょっと待って……今の雰囲気、少し近すぎるかも。でも、どう言って断ればいいのか……。
その時――
「片桐さん!」と彼を呼ぶ声。
はるくんが来てくれた。
「……おや、竹宮くんか」
「僕の彼女に何してるんですか……」
「へぇ、君の彼女だったんだね」
あれ、はるくんの知り合いなのかな……?
「奈々ちゃん、片桐さんはプロのダンサーなんだよ」
「え! やっぱり……」
「最近このジムに来たんだ。竹宮くんとは気が合ってね。君は奈々ちゃんっていうのか、可憐な名前だ」
私は恥ずかしくなってくる。
「片桐さん……奈々ちゃんって呼んでいいの、僕だけなので」
「ハハ……そうか。仲が良いんだね」
※※※
はるくんのアルバイトも終わってジムからの帰り道。
「はぁ……あの人はすぐ女性に話しかけるからトラブルが起こりそうで、心配でさ。何度か話すうちに友人みたいになって」
「そうだったんだ。すごくダンスうまかったよ」
「うん、あのダンスでみんなを虜にしちゃうんだ」
プロのダンサーさんなんて初めて会った。間近でキレのあるダンスを見られて得した気分だ。ちょっと怪しい人だったけど。
「まさか奈々ちゃんにまで話しかけるなんて……しかも手まで……」
「ありがとう。あのまま何されるか……わからなかったから来てくれてホッとした」
そう言うと、はるくんはしっかりと手を握ってくれた。やっぱりあたたかい……他の人とは違う安心できるぬくもりに、頬まで熱くなる。
「……僕以外の人と手を繋いだら嫌だから」
「うん……」
そのあとマンションに到着したけれど、彼は手を離してくれなかった。
「はるくん……?」
「……今日は帰ってほしくない」
「え……」
「さっきのこともあるし……なんか、今日はいろんな気持ちになって。奈々ちゃんと、ちゃんと一緒にいたいんだ」
そのまま彼の部屋に連れて行かれる。
彼の腕の中は、春のひだまりよりもあたたかい。熱く身を委ねながら、私たちのあいだには甘い時間が流れていた。
※※※
数日後、家でスマホが鳴った。
画面にはすみれちゃんの名前が表示されている。
「もしもし……」
「もしもし奈々美ー?」
いつも通りのすみれちゃんの明るい声が響く。
「4月にうちの大学で“桜まつり”があるの。そこでね……文芸部で部誌を販売することになったんだ」
すみれちゃんは小説を投稿しているが、文芸部にも入って活動をしている。スマホで読むのも良いけど、本として手元に置いておきたいなとも思っていたので、私はすぐに返事をした。
「すごい! 買いに行きたい」
「ありがとう! じゃあ案内するから一緒に行こ!」
「うん」
電話を切り、その場で投稿サイトを開く。
すみれちゃんのページを見ると、新作が連載されていた。
「えーと……ん? イケオジ外国人……すみれちゃんはイケオジが好きだなぁ」
デパートで偶然すれ違ったイケオジ外国人に、話しかけられて、色々あって彼の故郷の外国に行って溺愛される――という作品だった。
「わぁ……すみれちゃん、攻めてるな」
ロマンスのしっとりしたシーンを読んでいると、頭の中にはるくんが思い浮かんだ。
「やだ……何考えてるんだろう。恥ずかしい……でも、恋してるときに読むラブストーリーって、なんでこんなに刺さるんだろう」
私は胸の奥が熱くなったけれど、それでもすみれちゃんの作品を夢中で読んでいた。




