39. バレンタイン
温泉旅行から帰ってきた。
私はベッドに腰を下ろし、まだ夢見心地のまま空を見つめていた。
はるくんと過ごした、初めての夜。
あのとき感じたぬくもりが、まだ身体に残っている気がした。
未だにその夜のことを考えると、心臓の音がうるさく感じる。
はるくんの背中は思ったよりも広くて、しっかりしていた。腕の中が温かかった。
「やだ……私ったら」
そう呟いたとき、スマホが鳴る。
画面にはすみれちゃんからのメッセージ。
『温泉旅行どうだった〜? そうそうもうすぐバレンタインだよ。チョコ見に行こうよ!』
温泉で頭がいっぱいで、バレンタインのことをすっかり忘れていた。すぐに返信を打つ。
『温泉、良かったよ! すみれちゃんの教えてくれたボディクリームのおかげ。ありがとう。チョコ買いに行こう!』
『きゃー良かったー! あ、そうだ。後日、月光版“⼤人になった僕らの初めて”も更新されるらしいよ』
『え?』
『あ……ううん、何でもない♪』
※※※
(竹宮くん視点)
自分の部屋に戻って、ベッドの端に腰を下ろす。ふと、昨日の夜を思い返していた。
初めて彼女と夜を過ごした。
あの温もりが、心にまで広がっている。
未だにあの夜のことを考えると、身体が疼いてくる。
奈々ちゃんの肌はやわらかくて、ふわりと甘い香りがした。気づけば、夢中で抱き寄せていた。
「……僕ったら、奈々ちゃんのことばかり」
※※※
(奈々美視点)
翌日――
すみれちゃんと百貨店のチョコレートフェアに行った。
店内にはカカオの甘い香りが漂っていて、それだけで胸がときめいた。
「すごい。チョコレートの店がたくさん」
「奈々美、どこに行く? 迷うね」
あちこちが女の人であふれかえっている。人の波に流されながら、私たちはある有名なチョコレートのお店まで来た。
「この店、前から憧れてたの!」とすみれちゃんが言う。
「本当だ、大人気だね」
「見てみようよ」
パッケージがピンク色やパステルグリーンなど、カラフルで私も欲しくなる。ハートのチョコやプラリネ、ガナッシュなど……芸術のようにきらめくチョコが、ボックスの中に並んでいる。
「素敵……はるくん喜んでくれるかな」
「ふふ、竹宮くんならなんでも泣いて喜ぶわよ」
「あはは」
私たちはその店のチョコレートを購入した。
「あと自分用のチョコも欲しいわ」
「いいね」
今度は自分へのご褒美。店の前を通るだけでも、宝石のようなチョコレートたちがこっちを向いていて、思わず顔がほころぶ。
すみれちゃんは猫のパッケージのチョコレート、私は雪だるまのパッケージが可愛いチョコレートを選んだ。
ふと気づく。
「……こういうのって、松永先生にもあげた方がいいかな?」
すみれちゃんはすぐに頷いてくれた。
「義理の父なんだからアリなんじゃない? 喜んでくれるよ」
「じゃあ先生の分も選ぼう」
先生らしい大人っぽくてクールなブランドを探す。すみれちゃんがフロアの奥の方に、シックなお店を見つけてくれた。
私は先生の分のチョコレートを買う。
「奈々美、竹宮くんに見つからないようにね」
「え、彼はもうわかってると思うけど……お正月に実家にも来たし」
「それでもさぁ、嫉妬しそう」
すみれちゃんに言われると確かにそんな気もして、私はこっそり渡そうと決意した。
※※※
そして、バレンタイン当日――
はるくんとランチデートをした帰り道。ひんやりとした風が、2人の背中をそっと押す。
私は彼にチョコレートを渡した。
「奈々ちゃん、嬉しいよ。ありがとう!」
「どういたしまして」
毎年チョコレートをあげているけれど、いつもはるくんは喜んでくれる。
「綺麗な箱だね。きっと美味しいんだろうな」
はるくんが紙袋をのぞいている。
「チョコレートって甘くて癒されるよね」と私も言う。
するとはるくんが私を見つめて、囁くように言った。
「奈々ちゃんのほうが……甘い味がするかも」
顔が真っ赤になる。
「やだ……もうはるくんたら」
うつむいていると「奈々ちゃん……顔見せて」と耳元で声が響く。
鼓動が早まる。
顔を上げると、そこに彼の瞳があった。
私たちの唇はゆっくりと重なってゆく。
――本当だ。
チョコよりも甘くてとろけそう。
目を閉じて彼の背中に手を回す。ぎゅっと抱き寄せられて、胸がいっぱいになる。
唇をそっと離すと、彼が優しく微笑んでくれた。
冬の風の冷たささえ忘れるぐらい、私たちはしばらく抱き合っていた。
その日の夜は、彼の部屋でまたそっとキスを重ねた。
チョコよりも甘くて濃厚な時間が、静かに流れていった。
※※※
週末に私は実家に帰った。
先生の家、少し慣れたような気もする。
「おかえり」とお母さんが迎えてくれた。
リビングにいる松永先生に声をかけると、新聞を畳んでこちらに来てくれる。
「先生、私からバレンタインチョコレートです」
紙袋から紺色の包み紙のボックスを取り出して、先生に渡した。
「奈々美さん、俺にまで……ありがとう」
「良かったね、弦くん」
「あ、実はお母さんにもあるんだ」
私はもうひとつ――うさぎがモチーフとなった可愛いピンク色のボックスをお母さんに渡す。
「え? 私にも?」
「うん。お母さんも先生も……大切だから」
あとは……たぶんお母さんが羨ましがりそうだったから、なんてね。
「嬉しいわ……ありがとう、奈々美」
「どういたしまして」
チョコレートは感謝したい人にプレゼントしたい――今年のバレンタインは特にそう思えた。
※※※
(松永先生視点)
奈々美さんが帰ったあと、凛々子さんがそっと隣に座る。
「あの子が弦くんにチョコレートを選ぶなんて。あなたのこと、心から慕ってくれているのね」
「……嬉しいよ。奈々美さんと本当の家族になれたみたいだ」
静かなリビング。
湯気の立つマグカップから、ハーブの香りがゆらいでいた。
ライトの光が揺れながら、2人をあたたかく照らす。
「ここまで……色々あったね、弦くん」
「そうだな」
初めて凛々子さんに会ったのが高校1年生の時だった。その時にひだまりのように明るく声をかけてくれたこと、今でも覚えている。
「奈々美には色々考えさせちゃったな。だけど私たちのこと、わかってもらえて嬉しい」
「……君が、娘にまっすぐ向き合ってきたからだ」
「弦くん……」
凛々子さんの瞳が潤んでゆく。
その美しさに吸い寄せられるように、唇を落とした。
「ねぇ……もっと」
「甘えん坊だな、凛々子さんは」
「だって……」
「……言われなくても、するさ」
「もう……」
外が徐々に薄暗くなっていく中で、俺たちは光を求めるかのように抱き合っていた。




