38. ぬくもりを感じて
(竹宮くん視点)
夜が更けて、障子の外に雪が降り続いていた。
「……今日、もっと一緒にいたい」
奈々ちゃんの頬に手を添えて、そっと唇を重ねる。沈黙が重なり、鼓動の音ばかりが耳に響く。湯の音も、遠くの風の音も、すべて遠くに霞んでいく。
温泉に行くと決まった時から、彼女と過ごせることに緊張していた。奈々ちゃんのことを考えるたびに熱がこみ上げ、心臓の音が速くなっていた。
「緊張してる?」
思わず口にすると、奈々ちゃんは顔を赤くして小さく笑った。
「はるくんこそ……声、震えてる」
図星だった。思わず視線を逸らした僕に彼女は優しく囁く。
「大丈夫だよ。私も……同じだから」
――何度も、ここで立ち止まった。
手を伸ばしても、彼女が首を横に振った夜があった。
それでも離れたのは、気持ちを押し殺したからじゃない。
奈々ちゃんが「まだ」と言う理由ごと、大事にしたかったからだ。
だから今、彼女のほうから差し出された言葉が、こんなにも胸に響く。
僕が彼女を抱き寄せると、ふわりと髪が頬に触れた。近い距離で見上げてくる瞳に吸い込まれそうになる。
「奈々ちゃん……」
名前を呼んだ瞬間、もう我慢できなくて再び唇を重ねた。小さな声がこぼれて甘い吐息が僕の耳をくすぐる。
奈々ちゃんは目を閉じ、肩を震わせながらも僕に応えてくれた。
鼓動が速すぎてきっと僕の胸にも彼女の胸にも響いている。初めてだからこその戸惑いと、同じくらいの「それでも受け止めたい」という決意が重なっていく。
「はるくん……」
互いの声がかすかに混じる。その笑顔の奥に、同じ想いが宿っているのを感じた。頬を寄せ合い、息が重なる。
「私、はるくんとなら……大丈夫」
「……僕も、奈々ちゃんとなら」
肌が触れるたびに確信する。
奈々ちゃんも同じ熱を抱いてくれている。
急がなくていい、と何度も自分に言い聞かせてきた。それでも、ずっと同じ場所で彼女を想っていた。
彼女の髪に顔を寄せ、耳元で囁く。
「……君が好きだ」
一瞬、彼女の身体が震えた。
返事はなかった。
けれど次の瞬間、奈々ちゃんは何も言わずに僕の背に腕を回し、ぎゅっと抱き締めてきた。
その温もりが、すべての答えだった。
「……今日は離さないよ」
彼女の体温が上がり、細い肩が小さく揺れた。
布の隙間から触れた素肌は、想像以上に熱くて柔らかい。指先でなぞるだけで、奈々ちゃんの息が甘く乱れる。その吐息が耳にかかるたび、理性が削れていく。
「奈々ちゃん……もう遠慮なんてしない。君の全部を僕にくれないか」
彼女はただトロンとした瞳で僕を見上げ、次の瞬間には何もかもを委ねるように目を閉じた。
「大丈夫……怖くない。僕が、君を守る」
「はるくん……」
灯りを落とした室内には、互いの鼓動だけが響いていた。触れ合うたび、温もりが胸の奥まで広がっていく。
彼女の吐息が頬をかすめるたびに、世界が静かにほどけていった。
名前を呼び合って彼女の手を握り締め、ゆっくりと口付けを交わすと全身の力が抜けていく。
初めて噛み締める喜びと幸せ。
愛する彼女との記念すべき夜。
やっとひとつになれたという確かな温もりを信じて、僕らはそっと寄り添う。
「ありがとう、奈々ちゃん」
「……私の方こそ」
窓辺の月の光が、淡く2人の影を溶かしていた。初めての夜――その心地よさを感じながら、僕らは肌を寄せ合って眠りへと落ちていった。
※※※
(奈々美視点)
朝の光が障子の隙間から差し込む。
目を開くと隣には彼――はるくんが眠っている。
彼の寝顔を見ていると昨晩のことを思い出す。
鼓動が速すぎて、彼に全部聞こえてしまうんじゃないかと恥ずかしかった。それでも逃げなかった。はるくんの瞳に映る自分を、まっすぐ受け止めたかった。
あんなに……愛されるなんて。
何度も立ち止まらせてしまったのに、はるくんは一度も私を急かさなかった。そのことが、今になって胸に沁みてくる。
そっとはるくんの胸元に近づく。すると彼は「ん……」と言いながら、私を引き寄せてきた。
顔が近い……。
はるくん……。
そう思っていたら彼が目を覚ました。
「奈々ちゃん……」と言いながら強く抱かれ、私はまた胸のドキドキが止まらなくなる。
「もう……このまま離したくないよ」
そう言われてまた顔が赤くなってしまう。
はるくんは私のおでこに優しくキスをして笑顔になる。
「本当に可愛い……奈々ちゃん」
「はるくん……」
少し大人になれた私たち。
胸の奥に広がる熱はまだ静まらず、2人にとっては忘れられない夜となった。
※※※
宿を出る頃には、あたり一面を覆っていた雪が少しずつ解けはじめていた。屋根の端からぽたぽたと水滴が落ちる音が、春の足音のように響く。
「……昨日ほど、寒くないね」
見上げた空はどこまでも澄んでいて、雲ひとつなかった。
手を繋いで歩く帰り道。温泉街の通りには、朝の光を受けた石畳がしっとりと濡れている。冷たい空気の中に、どこか柔らかな匂いが混じっている。
駅のホームで電車を待ちながら、はるくんがそっと指を絡めてきた。少し冷えた指先。だけど、ゆっくりと重ねるうちに、互いの体温でぬくもっていくのがわかる。
この手を、昨日よりも自然に握れている気がした。
電車が到着し、ふたり並んで席につく。窓の外には、昨日までとは違う景色が流れていた。遠くの山肌にはまだ雪が残っているけれど、ふもとの雪は綺麗に溶けていた。
「ねえ」
私がはるくんに話しかける。
「昨日のこと、夢じゃないよね?」
彼は少し笑って、小さくうなずく。
「夢じゃない。でも……たぶん、夢みたいだったって、ずっと思うんだろうな」
その言葉に、私も笑った。
ほんの少しだけ、いつもより彼が大人っぽく見えた。
揺れる車内で、ふたりの手はずっと繋がれたまま。言葉がなくても、今はそれだけで十分だった。
何も変わらないようで、ちゃんと変わっている。そんな時間が、電車の振動とともに静かに過ぎていく。
降りる駅が近づくころ、はるくんにこう伝えた。
「……少し、大人になれた気がするね」
返事の代わりに、もう一度手が強く握られる。
きっと、この先も迷ったり、すれ違ったりすることもあるかもしれない。だけど、昨日より少しだけ大人になった私たちなら、きっと大丈夫。
窓の外、冬の陽射しが差し込んで、彼の横顔をやさしく照らしていた。




