37. 温泉
温泉旅行当日――
電車を降りると、冷たい風が頬を撫でた。
駅前の温泉街には湯けむりが立ちのぼり、どこか懐かしい匂いがした。
「わぁ……ねぇはるくん。雪、まだ残ってる」
「ほんとだ。ほら、道の端に積もってる」
はるくんが荷物を持ちながら笑う。その笑顔が白い息に溶けて、冬の光の中で柔らかく滲んでいた。
商店街を歩くと、蒸したての饅頭の匂いが漂ってくる。
「奈々ちゃん、あれ食べよっか」
「いいね、美味しそう」
湯気の上がるお饅頭を半分こして、はるくんが「熱っ」と声を上げる。
「ふふ、猫舌だね」
「奈々ちゃんだって、ほら」
そう言って口元についたあんこを指で取ろうとしてくる。
「やだ、もう……!」
指先が触れそうになって、心臓がくすぐったく跳ねた。
通りの端では足湯の湯気が白く立ちのぼっている。
観光客の笑い声、木の桶の音が優しく響く。
小さな温泉街は、どこを見ても湯のぬくもりに包まれていた。
「ほら、あそこ見て。あの宿、雰囲気いいね」
「うん……あ、あれが泊まるところだよ」
「えっ、あそこ? 本当に?」
石畳の坂の上に建つ旅館の看板。灯籠が灯っていて、雪を反射して優しく光っていた。
チェックインをしていると旅館の人が言う。
「露天風呂付きの部屋が空いておりまして。よろしければそちらにされますか?」
「え? いいんですか?」
はるくんも私も驚く。
「はい、こちらの都合ですので代金は変わりません」
私は胸の鼓動が急に早くなる。
部屋に露天風呂がついてるということは……そう考えると、まだ温泉にも入っていないのに顔が熱くなってくる。
はるくんの横顔も少し恥ずかしそうに見えた。
案内された部屋は、思ったよりも広くて静かだった。窓の向こうには山の木々と、遠くの湯けむり。
「すごい……きれい」
「ね。部屋に露天風呂があるなんて、ちょっと贅沢だな」
「頑張ったもんね、はるくん」
「試験も終わったし、これはご褒美だよな」
2人で浴衣に着替えて、座卓に出されたお茶をいただく。
外の風が少し強くなって、障子がかすかに鳴った。
夕方の光が差し込んで、彼の横顔を橙に染めていた。
「……奈々ちゃん、こうしてゆっくりするの久しぶりだね」
「うん。なんか時間がゆっくり流れてる気がする」
「たぶん、それが“休む”ってことなんだろうな」
はるくんの言葉に、小さく頷いた。
窓際に並んで外を見る。雪も止んできたようだ。
「夜、露天風呂……入ってみようか」
その声が静かに響いて、私の胸の奥で波紋のように広がった。
「うん……」
私は彼の手をしっかりと握る。
部屋での夕食は、季節を意識した上品な和食が並んだ。冬らしいすき焼きの小鍋も嬉しい。
「美味しいね、はるくん」
「うん、最高」
私たちはたくさん食べて、満腹になった。
――そして夜。
外気がひやりと肌を撫で、湯の湯気がそれをやさしく包み込む。
部屋付きの露天風呂は小さめで、木の香りがほんのりと漂っていた。
お湯の表面に月の光が揺れている。
「ちょっと熱いね」
「でも気持ちいい」
隣で肩まで浸かるはるくんの横顔が、湯けむりの向こうでぼんやりと霞んでいた。
お互い少し照れくさくて、最初は何も話せなかった。
やがて、湯の音の合間に彼が小さく息をついた。
「奈々ちゃん、来てよかった」
「うん、私も」
「……なんかさ、大学入ってからいろんなことがあったけど。こうして隣に奈々ちゃんがいるのが、一番落ち着く」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
「私も……この1年色々あったけど、はるくんと一緒にいられて幸せだよ」
そう口にすると、彼がそっと私の髪を撫でた。
湯気の中で指が絡まって、頬が熱くなる。
お湯の温かさよりも、彼の手の温もりの方がずっと強く感じた。
「奈々ちゃん……」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
見上げた視線の先で、彼の瞳がまっすぐに揺れている。
そっと近づいてきた顔。息が触れる距離。
湯気の中で唇が重なった。
やさしく、確かに。
お湯の音も、風の音も、すべて遠くに消えていく。
「……はるくん」
名前を呼ぶと、彼が小さく微笑む。
お互い何も言わずに、ただ手を重ねた。
指先が絡むたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
遠くで風鈴のような音が鳴った。
夜空には雪が少しだけ舞っていた。
冷たい空気と、湯のぬくもりが混ざり合う。
彼の肩にもたれて、そっと目を閉じた。
――ずっとこうしていたい。
そう思いながら、湯けむりの中で小さく息を吐いた。
その夜、部屋の灯りは柔らかく灯っていた。
2人の間には、静かなぬくもりと、言葉にならない優しさだけが残っていた。
「ねぇ、奈々ちゃん」
はるくんが手を取り、私の顔を見つめている。
「はる……くん」
「……今日、もっと一緒にいたい」
頬に手を添えられ、彼の顔が近づく。
「……うん」
その一言のあと、はるくんの唇が深く重なる。
私はそっと背中に手を回し、彼の体温を感じていた。
湯の音が静かに響く。
そのぬくもりの中で、時がゆっくりと溶けていく。
彼の鼓動と、自分の鼓動が重なって聞こえた。
「……はるくん」
名前を呼ぶ声が震える。
けれどその震えさえ、やさしく包み込まれる。
「……私も、大丈夫」




