25. 母と娘
私とはるくんは病院に駆け込んだ。
受付で名前を伝え、病棟までエレベーターに乗って行く。
ナースステーションでは看護師さんたちが行き交い、慌ただしく作業をしている。1人の看護師さんに声をかけてお母さんの病室まで案内された。
「ここで待ってるから」
「ありがとう、はるくん」
私は小さく深呼吸してから病室のドアを開けた。
白いカーテンが、エアコンの風にゆっくりと揺れている。
消毒液の匂いと、点滴の滴る音。
そのすべてが、胸の奥を締めつける。
――お母さんがいた。
ベッドの上で背を少し起こし、薄いブランケットにくるまっている。
髪は乱れ、頬は少し痩せて見えた。
けれど、ゆっくりこちらを向いた時の瞳は、いつものお母さんのままだった。
「……奈々美」
かすれた声。
名前を呼ばれただけで、涙がこみ上げた。
「お母さん……ごめん。私、行くの遅くなって……」
声が震えた。言葉を選ぶ余裕なんてなかった。
ベッドのそばの椅子まで行くと、お母さんは弱々しく微笑んだ。
「大丈夫よ。ちょっと、疲れちゃっただけ」
私に心配かけまいと思うその優しさが、いちばん痛い。
「……仕事、忙しかったの?」
怖くて、そう聞くのが精一杯だった。
「うん。最近、少し眠れなかったの」
ふっと遠くを見るように、窓の方を向いた。
うっすらと晴れた外の光が柔らかく部屋に差し込む。
沈黙。
その中に、言えなかった言葉がいくつも漂っている気がした。
カーテンが揺れて、光がゆっくり形を変える。その変化を見つめながら、私は息を詰めていた。
――見てたのかもしれない。
でも、お母さんはそのことを何も言わない。
私のせいだと何度も自分を責めたくなるのに、お母さんはただ静かに……優しい顔を私に向ける。
「……ねえ、お母さん」
勇気を振り絞って口を開いた。
「もし、私がひどいことしてても……それでも、嫌いにならない?」
お母さんは目を細め、ほんの少し首を振った。
「何があっても、奈々美は私の大切な娘よ。嫌いになんて、なるわけないじゃない」
その瞬間、こらえていた涙がこぼれた。
私は手を伸ばし、お母さんの手を握った。
冷たくて、でも確かにあたたかさがあって。
「……生きててよかった」
絞り出すように言うと、お母さんは小さく笑った。
「奈々美も、元気そうでよかったわ」
まるで私のことを全部知っているような雰囲気。それでも受け入れてくれるお母さんの優しさが、身に沁みた。
けれど同時に、私の中の罪悪感がちくりと胸を痛める。涙でお母さんの笑顔が徐々に滲んでゆき、思わずうつむく。
「お母さん……ゆっくり休んでね。もう無理したら嫌だよ?」
「うん……ありがとうね」
病室から出ると、はるくんが私に寄り添ってくれた。そのぬくもりに甘えたくて、彼の腕に包んでもらう。はるくんが背中をポン、ポンとしてくれた。
「はるくん……私、不安だった。はるくんがいてくれて良かった」
「奈々ちゃん、大丈夫だよ」
ほっとしてまた涙があふれてくる。しばらくこのままでいたくて、私ははるくんにぎゅっとしがみついていた。
すると誰かが廊下を走ってくる足音が聞こえた。
息を切らして――そこにいたのは松永先生だった。
その姿を見た瞬間、胸の奥で小さく何かがはじけた。会いたかったはずなのに、怖かった。
「先生……」
「奈々美さん……」
それだけ言うと、先生はすぐに病室に入っていった。
※※※
(竹宮くん視点)
「はるくん、今日はありがとう。一緒にいてくれて」
「ううん……奈々ちゃんのことが心配だったから」
奈々ちゃんのお母さんの病院に行った帰り、僕たちはしっかりと手を繋いで並木道を歩く。秋の始まりを予感させる空気は、どこか切ない匂いがする。
彼女はしばらく泣いていたが、今は落ち着いている。けれど今にも壊れそうな表情で心配だ。
マンションに到着したけれど、奈々ちゃんは手を離さない。
「はるくん……お願い。もう少しだけ、そばにいて」
その言葉に胸の奥の鼓動が激しく波打つ。
「もちろんだよ」
そう言って彼女の部屋に入った。
しんと静まり返った部屋の真ん中で、僕たちは並んで座っている。
「お母さん……大丈夫かな」
「心配だよな」
奈々ちゃんにとってはたったひとりの家族。きっと心細いに違いない。
「……たぶん、私のせいなの」
「え?」
「私が……あの時先生と一緒にいたところ、見られていたかもしれなくて」
どういうことだろう。普通に松永と一緒にいるだけだったら、そこまでショックを受けないはず。
ということは、まさか。
「松永と……何かした?」
「あ……それは」
奈々ちゃんがハッとした顔つきになる。そして頬が染まっていくのがわかった。
「な……なんでもない。ごめんはるくん」
「……」
そういう反応されると余計に気になってしまう。
奈々ちゃんと……松永が……?
思わず僕は彼女をぎゅっと抱き寄せた。
「あっ……はるくん……」
「君を誰にも触れさせたくない……」
きっと唇が触れると――我慢できなくなる。
だけど、彼女のぬくもりを身体に感じていたい。
「はるくん……あったかい」
「うん……あったかいね」
奈々ちゃんの震えが徐々におさまってくる。安心感が胸いっぱいに広がり、甘い匂いが漂う。
それなのに、僕は疼く身体をおさえるのに必死で息を漏らす。どれだけ抱き締めても、彼女はまだ届かない距離にいるような気がする。
君が欲しいなんて言葉じゃ――足りない。
その想いを言葉にできず、腕に力をこめた。




