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15. 夏の夜

 (松永先生視点)

 夏休みに入り、学校では部活動に励む生徒の掛け声が響いている。暑さに負けないぐらい勢いのある、トランペットや楽器の音も聞こえてくる。

 スマートフォンが光ったので確認すると、そこには凛々子さんの名前が表示されていた。


『今日、弦くんの家に行ってもいい?』


 金曜日だからだろうか、彼女が来てくれるようだ。すぐに返事を打って仕事に戻る。

 そういえば梅雨が明けた時ぐらいから、奈々美さんからの連絡が途絶えた。大学生活が忙しいのだろう。きっと充実しているに違いない。


 それなのに、少しだけ寂しさを感じる。

 今日は凛々子さんも来るというのに――。


 最後に会った時には一緒にウィンドウショッピングをした。エメラルド色のワンピースを着た彼女は、昔の凛々子さんにさらに似ていて、あの時の憧れを思い出す。


「わぁ、こんな大人っぽいお店は初めて」

「そうだったか」

「これ、先生に似合いそう」

 そう言ってブラウンのハットを渡される。かぶってみると、彼女は頬を赤らめてこちらを見ていた。


 その色気のある表情に、俺も顔が熱くなりそうだった。

 いけない……彼女は凛々子さんの娘なんだ。


「……素敵です」

「ありがとう、じゃあ買うか」


 陽射しも強いので、そのハットをかぶるようになった。彼女の温もりすら感じてしまう。

 だからなのか、最近連絡が来ないことが気にかかってしまう。こちらからメッセージをするのもどうかと思い、結局今に至る。


 これが現実だよな、それでいいんだ。

 そう言い聞かせているのに、未だに忘れられない。



 ※※※



「こんばんは、弦くん」

「凛々子さん」

 その晩、彼女が家に来てくれた。自宅で過ごすのは久々だ。


「はぁ、今週も終わったね! 弦くーん♪ 疲れたぁ」

 そう言いながら俺の胸に飛び込んでくる彼女が愛おしい。先輩なのに可愛らしくて、ますます夢中になる。


 そっと背中を撫でながら「お疲れ様」と言うと、凛々子さんは「そうだ!」と言う。そして、持ってきた買い物袋から豚肉や野菜を取り出す。

「今日は弦くんの好きな生姜焼きだよ〜」

「嬉しいな」

「ふふ……あれ?」


 彼女が何かに気づいた。

「あんな帽子持ってたっけ?」

 棚に置いてあったハット――奈々美さんが選んでくれたものを見て凛々子さんは不思議そうに見ている。


「あ……買ったんだよ。毎日暑いからな」

「へぇ、何だかシックだね」

 怪しまれているのだろうか。俺は手の汗が気になってくる。

「弦くんもああいうの選ぶんだ……お洒落でいいと思う」

「ありがとう」

 選んでくれたのが奈々美さんだなんて、口が裂けても言えない。


 エプロンをつけた彼女がキッチンで準備してくれる。俺も隣でキャベツを切って盛り合わせていた。

「こうやって隣同士で料理してるとさ……夫婦みたいだよね」

 ふいに凛々子さんがそう言うので鼓動が速くなった。奈々美さんが大丈夫そうなら、俺たちは結婚できるということだろうか。


「……結婚を考えてくれているのか?」

「いつかは……ね?」

 素直に嬉しい気持ちが込み上げてくる。しかし結婚をすれば、さらに奈々美さんとも近い関係になる。


 そうなった場合――果たして今のままの距離を保てるのだろうか。


「どうしたの? 弦くん」

「いや……俺も君と一緒になれるなら嬉しい」

「うん……」

 生姜焼きを食べながら、俺たちは少し先の未来の話をした。どこに住みたいか、休みの日はどうしたいかなど。


 徐々に凛々子さんとの将来が見えてくるような気がした。やっぱり俺には彼女しかいない。奈々美さんとは娘として、これからも付き合っていけばいい。


「だんだん楽しみになってきたね、弦くん」

「そうだな」

 彼女の笑顔をこれからも守りたい――。



 風呂に入ってから、凛々子さんが俺のほうにそっと寄り添う。その香りに包まれると、心が溶けていくようだった。

 思わず抱き寄せると、彼女は頬を赤らめて笑った。


 その表情が――奈々美さんと重なって見えた。

 いけない、何を考えているんだ。彼女は娘なのに。


 凛々子さんが名前を呼ぶ。

 その声に我を取り戻して、ただ強く抱き締めた。

 触れ合う温もりの中で、何かが少しだけ欠けているような気がした。

 それでも俺は彼女を抱き寄せ続けた。


「弦くん……好きよ」

「俺も……」


 彼女を抱くほどに、心の奥の空白が広がっていく。

 その隙間に、別の名前がこだまする。

 どうしても消せない声――奈々美さん。

 

 この幸せを逃してはいけない――そう思いながらも、胸の奥で何かが静かに疼いていた。

 彼女の温もりを感じながら、俺はただその夜を受け入れた。


 眠りについた凛々子さんの寝息を聞きながら、天井を見上げた。

 夏の夜は、どこか遠い記憶を呼び起こす。

 遠くで電車の音が小さく響いて、胸の奥に波紋を残していく。


 目を閉じても、浮かぶのはあの笑顔。

 あれは恋じゃない。導く者としての情だった――そう思いたかった。

 そう自分に言い聞かせながら、静かな夜の闇に溶けていった。

 


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