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怖い話

作者: 夢野かなめ

 夢を見た。


 突然、目の前に現れた男が言う。


「新しい世界へ」


 そうして、ついと優真(ゆうま)の額を指さし、繰り返す。


「新しい世界へ」


 その声がこだまする。




 ガバリと体を起こした優真は、夢の余韻を残したままの頭で、ちくりとした痛みを感じた額に手をやった。


 何かが額にくっついている。


 それは、指で掻くようにすると、ぽとりと布団の上に落ちた。


 青黒い蟲。


 妙に神々しく光を返す翅を持った、青黒い蟲。


「うわ……」


 小さく呻き、優真はティッシュでその蟲を包むとゴミ箱に捨てた。


 洗面所の鏡で額を確認し、小さな刺し傷のようなものが額の真ん中にあるのに顔を(しか)める。


 ──なんだ、あの蟲は。毒のある蟲じゃないだろうな。


 朝食を取りながら、優真はスマートフォンで蟲について調べた。青黒い蟲とは探せばいるもので、様々な種類の蟲の画像が表示されていく。しかし、どの蟲も何処かが少しずつ違っていて、額にくっついていた蟲の正体は判らなかった。


 優真は、じっと自身の体の様子に意識を向けた。


 特に、怠さや息苦しさなどの異変はない。もう一度鏡でじっくりと顔を眺めてみたが、普段通りの自身の顔が映っただけだった。


 ──毒は、なかったんだろう。


 それでも何処か、正体不明の蟲に刺されたという気味悪さを残しながら、優真は仕事へと向かった。


 異変が起きたのは、帰宅して暫くしてからだった。


 突然、体が燃えるような熱を発したのだ。


 優真は、あまりの辛さにそのまま座椅子の上で丸まるようにして気を失った。


 意識を取り戻すと、ぐっしょりと搔いた汗が不快だった。しかし、それでも熱が少しは引いたようで、ゆっくりと立ち上がった優真は、グラスに入れた水をぐびぐびと飲み干してから、風呂で汗を流した。


 体がすっきりすると、次は空腹が頭をもたげてくる。のろのろと冷蔵庫を開けた優真は、昨夜の残りの煮物や、冷凍食品などを見回し、最下段の野菜室を開けた。


 料理はそれ程しないし、生野菜は腐らせてしまうからあまり買わない。それでも、隅の方に萎びかけたレタスがあった。


 レタスに手を伸ばし、そのまま噛り付く。


 バリバリと食べきってから、優真は愕然とした。


 決して、そのままで食べられない訳ではない。しかし、多くの者がレタスを冷蔵庫から取り出してそのまま噛り付くということはしないだろう。


 そう考えながら、しかし、頭の中では「もっと食べなければ」という意識が強くなっていく。


 優真は、近くのコンビニへ駆け込むと、サラダやカット野菜を買い込んだ。


 自宅へと辿り着いた途端、堪え切れずに素手のままでそれらを口へと詰め込んでいく。


 もっと食べなければ。という焦りが頭を支配する。


 ふと上げた目に、カーテンの隙間から漏れ差す朝日が入った。


「……仕事」


 優真は、食べかけの野菜をそのままに、身支度を整えると仕事へと向かった。


 電車の窓に映る自身の顔を見る内、この一夜のことは全て夢だったのではないかという気がしてきていた。


 そうでなければ、正気を失ってしまったとしか思えない。


 正体不明の蟲に刺され、熱を出し、その間に見た悪い夢。


 一度、病院に掛かった方がいいだろうか。しかし、見た目には具合の悪い所はない。実際、体は妙に軽かった。


 出社しても、誰からも体調不良を疑われることはなかった。


「もしかして、ダイエットでもしてるの?」


 可笑しそうな響きを含んだ声で、同じ部の先輩である新田(にった)が言った。


「……え?」


 優真は、その時初めて、自身が昼食にと山盛りのキャベツの千切りを注文していたことに気が付いた。


 社食のメニューに単体では存在しない山盛りのキャベツの千切りを注文した優真に、調理員が怪訝な顔をしたが、「無理ならキャベツそのままでもいい」と言った優真に、首を傾げながらざるからキャベツの千切りを山盛り器に盛って差し出した。


 それを、優真はドレッシングなどを一切つけずに口に運んでいる。


 ゾッとした。


「いや……これは……」


 言い淀む優真に、新田はニコッと笑って、優真の前の席に腰掛けた。彼女の持つトレイには、カレーが乗っている。


「昔、流行ったよね、キャベツダイエットって。実際、食物繊維を沢山摂れるからダイエットの中でも結構効果があるんだっけ。判ってはいるんだけどねぇ。私はどうしても欲望には勝てないの」


 そう言って、新田は美味しそうにカレーを食べ始めた。


 パクパクと何度かスプーンを動かしてから、ハッとしたように手を止めた。


「……私が欲望に勝てないからって、ダイエットしてる人の前でカレーはないよね」


 席を立とうとする新田を制し、優真は首を振った。


「大丈夫です。別にダイエットじゃないんで」


 事実、新田の食べるカレーを見ても、何の食欲も湧かなかった。カレーであればどんなに満腹な時でも、大抵の者は食欲をそそられるのだろうが、今の優真にとって「食べたい」と思えるものは、葉物野菜だけだった。


 怪訝そうにした新田は、探るような視線を向けながらも、再びスプーンを動かし始めた。


「まぁ、高橋(たかはし)君って、ダイエット必要そうには見えないもんねぇ。なんか願掛けとか?」


 新田に釣られるようにして再びキャベツを食べ進めていた優真は、少し首を傾げた。


「……キャベツを食べたいなーみたいな。それだけです」


 その答えに、新田がふはっと吹き出す。暫くケラケラと笑っていた新田は、目尻を拭った。


「高橋君って、そんな不思議なこと言うタイプだったんだね。新しい一面を発見した感じ」


 可笑しそうに笑いながら、新田は「そういえばさぁ」と話を続ける。


 しかし、優真の頭の中には、もっと食べなければ、という焦りが募っていた。


 そうする内、耳の奥で言葉が繰り返される。


「新しい世界へ」




 自宅へ帰った優真は、玄関に散らばった野菜に目を落とした。


 自然な流れでそれらを手に取り、口に運ぶ。


 いくらか食べた所で、ハッと我に返った優真は、その殆どを吐き出していた。床に汚く広がる吐瀉物に顔を顰める。


 口元を拭おうとした優真は、あることに気が付いた。


 自身の口から伸びる、細い糸だ。


 唾液が垂れたのではない。その中に混じる、細い透明な糸。


 触るとべたりと指に付いた。


 釣り糸のようにするすると伸びていく。


 優真は、重い体を持ち上げようとして失敗した。脚に力が入らない。そのまま這うようにしてベッドへと近付いた。


 酷く眠かった。


 体も何処か熱を持っている。


 ベッドの上に辿り着くと、長い溜息が出た。


 その拍子に、しゅるしゅると糸が口から漏れ出る。


 声を上げようとしたが、出来なかった。声の代わりに糸が伸びていく。


 それを見る内、段々と満たされるような心地になっていた優真は、ゆっくりと瞳を閉じた。


 しゅるしゅると糸で体が包まれていく。


 何物にも代え得難い安心感が優真を満たした。


 ──明日、仕事が休みでよかった。


 ふとそう思い、仕事ってなんだっけ、と考える。


 優真はただ、満たされていった。


 自身を構成する全てが(ほど)け、溶けていく。


 その内に、考えることを止め、ただ満たされるのを感じるだけになった。




 夢を見た。


 突然、目の前に現れた男が言う。


「新しい世界へ」


 そう言って、優真の額から体の中心をなぞるようにしてから、ついと空を指さす。


「新しい世界へ」


 見上げた空は温かい光に溢れていた。


 パキリ、と始まりの音が聞こえる。


 優真は期待に胸を躍らせながら、目の前に現れた線を押し広げた。




 郷田(ごうだ)は、少しばかりの覚悟をしながら、鍵を開けた。


 扉を開ける前に、後ろで佇む女を見やる。


 郷田が管理するアパートの一室に住む、高橋優真の勤める会社の先輩だという新田だ。


「開けますよ」


「……はい」


 新田も、青褪めた顔で、嫌な予感を滲ませながら小さく頷いた。


 高橋はまだ若い。だから、孤独死なんかとは無縁であると高を括っていたが、何が起きるか判らないものだ。


 そう決めつけていた郷田は、内心で首を振った。


 ──いや、もしかしたら蒸発かもしれん。


 しかし、長年の勘から、どうも今回はそうではないと頭の何処かで理解していた。今月分の家賃は滞りなく払われている。しかし……。


 扉を開けた郷田は、うっと呻いて口元にハンカチを当てた。


 生臭さが部屋の中から漏れ出してくる。


 新田も同じように口元を押さえ、涙を滲ませている。


「アンタはここで待ってなさい」


「でも……」


「いいから」


 郷田は、新田を押しとどめると、扉を閉めた。


 扉を開け放ちたいところだが、隣室からの苦情にも成り兼ねない。


 しかし、予想に反して部屋の中は綺麗だった。臭気の原因も玄関に散らばった野菜や吐瀉物のせいで、部屋の中に入れば臭いは届かなかった。


 何より、窓が開いていたのだ。


 カーテンが風にそよいでいる。


 ふと、襖をあけてひと続きにした隣室に目をやった郷田は、驚きに声を上げた。


「な、なんだこりゃあ」


 郷田の声に反応したように、玄関の扉が開く。


「管理人さん……?」


 郷田は、新田の顔を見て、部屋の奥を指さした。


「こ、これ……なんだぁ」


 新田は、玄関の吐瀉物に眉を寄せてから部屋に上がって来ると、郷田の指さす先を見やり、目を見張った。


「なに……これ」


 二人の視線の先には、白地に青黒い斑点の入った丸い塊があった。


 そこから伸びる糸が、ベッド周辺の壁に絡みついている。


「繭……ですか」


 新田の言葉に、郷田は目を剥いた。


「な、なんでこんなところに、こんなにでっかい繭が? これは、一体何の繭だっていうんだ」


 新田は、あわあわと視線を彷徨わせた後「判りません」と項垂れた。しかし、すぐに部屋を見渡し、確認の出来ていないトイレや風呂場を見て回る。


「高橋君? 何処に居るの?」


 しかし、応える者はなかった。


 この部屋には、不可思議な繭が残るのみ。


「こりゃ、一体……」


 郷田は頭を抱えた。


 店子が忽然と姿を消してしまった。それだけなら聞く話だ。郷田にも経験はある。


 しかし、このような繭が残されるというのは聞いたことがない。


 郷田は、もう一度繭に目を向けた。


 繭はぱっくりと縦に割れていた。


 この中に、一体何が入っていたというのか。


 そして、店子は何処に行ってしまったのか。


 不安そうに部屋を見回す新田と視線を交わしてから、郷田は震える手で警察に電話を掛けた。


 高橋優真は、未だ見つかっていない。



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