びびんな
[一世を風靡したあのアーティスト、iiiiiが引退表明を発表しました どうやらX(旧twitter)にて引退を表明したそうです]
定食を食べててふと耳に入ったキャスターの言葉が信じられなかった。となりの剥げ親父は何も知らなそうにずるずるとざるそばを啜っている。
すぐさまスマホを取り出して彼女のXを確認した。
「ない…」
謝罪の言葉が一つもない…オレの応援していた人間はそんなに常識のない人間だったという事か?
食欲が減退していくのがはっきりとわかった、呆然としながら膳を片付けて会社に戻った。
「やあ、顔色が悪いね、どうしたんだい」
オレが休憩室で空ばかり眺めていると背後から声をかけられた。
声質から分かった、こいつは同僚の蚕だ。
長髪を団子にして後ろに束ねていて、上背のある男である。
同郷でもないのに、いつも俺ばかりにダルがらみしてくるから昼休みだけは逢いたくなかった…。
「さっき食べたご飯が好みじゃなくって」
奇しくもオレから出た言い訳はあの下女の風刺となっていた。
「へぇ、何を食べたのさ」
にやけながら彼はオレの隣の席で腰を下ろした。
「唐揚げだ、そぼろのように崩れて舌がザワザワした」
「唐揚げが、想像するだけで不快だねぇ」
蚕は口元を手で覆い、やけに抑揚つけて同調した。
「期待はずれだったよ…」
そう、信じていたものの中身がグロテスクだったなら、人間不信になってしまう。
彼女の腹を解剖したらば同様の乾燥した現実が噴き出すのだ。
何もかもくだらない、という諦観で何も喋れなくなっていると蚕が言い出した。
「…本当に唐揚げが理由なのか?」
「…え」
「見たよ、君の応援していたアーティスト、やめたんだろ?」
こいつに心象を的中させられるとは、というか好きなアーティスト言ってないのに、と嫌悪感で満ちた溜息をふっと吐いて
「だったらなんだ」
というと
「これはチャンスでもあると思うんだ」
などと言って、続けた。
「大体、何か背負うものがあるほど人間強くなるものだ。秘密も同じ、強い人間になるチャンスが舞い降りたんだ」
「…秘密を」
「だからね、その…」
説教するとテンションが高くなるのか少し声が上ずっている、気味わる。
彼がうだうだ言ってる間に周りを見ると人がいない、時計は一時を示していた。
丁度いい、こいつのサンドバッグも今すぐ降りれる。
生意気に垂れてる話を打ち切って腰を上げながら吐き捨てた。
「隠すような秘密もない、もう脊髄で感動する必要はない、何もかも無意味だって悟ったんだ。お前の気味悪さも」
掛けていた椅子から立ち上がったとき、…私が?と聞こえる気がした。
必要以上にショックを受けてる彼を可哀そうにと内心微笑みながらエレベーターに向かった。
ボタンを押してエレベーターの降下を待っていると肩甲骨に手のひらが当たった。
耳たぶに呼気が当たっているのが伝わる、そして喘ぎ喘ぎ囁かれた。
「田豪君、悟ったといったけど、やけくそになってるだけだよ…諦観で捻りだした淋しい理屈を、妄信して、また失望するよ…、今度は、たった今この瞬間、陶酔してる自分に」
エレベーターがやってきた、その中に入り込んでフロアボタンを押した。
上昇する籠の中、蚕はオレの袖口を摘みながらまだ続ける。
「何かを跳ねのけたくなっているのは、何かを好きになるのに恐れているから。たかが女一人に人生をたぶらかされる貴方を見るのは、私は、悔しい。だからね…」
やっと扉が開いたからそうか、とだけ言ってフロアに足を踏み入れた。
そしてなぜか一緒に出ず手すりにかけたままの蚕が無言で悶々としている。
出たくないのだろうかと訝しんで出口で待ってると
「…びびんな」
独り言か俯きながら言った悲し気な彼を、静かにエレベーターが閉じ込めた。