十八話 新しい日常
アッシュ・アッシュ・バーンガイズの朝は、いつも早い。
まだ空が薄暗い時間に目を覚まし、まず素振りをする。勇者となる前からの日課であり、充分汗をかき、軽く体を綺麗にする。そうしてから鶏と畑の世話をするのだ。それを終えてようやく朝食を食べる。
それからは筋トレをして、体を鍛える。空いた時間に森を探索して狩りをしたり、薬草と木の実を探し、家事をする。既に勇者としての活動はしていないが、昔からの習慣であり、毎日しなければ落ち着かなくなっているのだ。
素振りのときも筋トレのときも、アッシュはふんどしだけだ。これには彼なりの理由があり、人に教えてもらってするようになった。汗をかいて衣服を汚さずに済むから効率的だと、今では当たり前になっている。
それで昔から事情を知らない人達からは驚かれることは多いが、今はそういうことが少ない。会う人はアッシュのそういう癖を知り抜いているし、それに加えてアッシュの元を訪ねる者はほとんどいないからだ。
偶に街へ買い物に行くが、それ以外ではほとんど外へ出ない。驚きも派手さがないが、静かで穏やかな生活。それが勇者を引退してからの日々だ。
人が聞けば、何故だとおもうだろう。貴族として生き、裕福な生活を送ることができるし、更なる立身出世も夢ではない。それだけの功績を、アッシュは挙げたのだから。
しかし、アッシュは今の生活に満足していた。
「アッシュ様。それは一体なにを読んでいるのですか?」
「歴史の本だ。この国の成立や政治の仕方、税金の仕組みが書かれている」
「へぇ~~~。アッシュ様は政治家になるおつもりなんですか?」
「そういうわけじゃないが・・・・・・学んで損はないだろう」
「たしかに・・・・・・じゃあこちらは?」
「こっちは作物について書かれている。もう一つのは薬草の種類や煎じ方。それと茸や野草の本だ」
「成程成程~~~・・・・・・」
読書をしていると、リルチャンが興味深そうに見つめている。最近訪れるようになった少女の瞳には、純粋な好奇心が宿っている。まだ幼いが、子供っぽい表情と仕草で彼女のあどけなさがより際だつ。
加えて耳と尻尾だ。頭頂部からピン! と真っ直ぐ生えている耳がピク、ピクと小さく反応を示し尻尾がブンブンと左右に振られている。そんな様子が面白く、可愛らしく、つい口元が緩みそうになってしまった。
「読んでみるか?」
「え!? いえ、それはありがたいのですが・・・・・・まだ恩返しの途中ですので! えへへ・・・・・・」
「そうか・・・・・・」
「・・・・・・いや待てよ? ここで読みたいけど文字が読めないって言えば読み聞かせをしてくれる可能性が微れ存・・・・・・!?」
「?」
「いえ、それだけじゃなくってもしかしたら膝に乗せて耳元で読み聞かせを!?」
「おい?」
小声でなにかをブツブツ呟いているリルチャン。アッシュの声は聞こえていないようだが、表情はとてつもなく真剣で、緊迫している。一体どうしたというのだろうと不思議におもった。
しかも尻尾の挙動もおかしい。水車のごとく、ブンブンブンブンブン! と激しく回転しているのだ。
「ああ、でもでもそんなことしたら私の心臓が・・・・・・はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ」
「リルチャン?」
「えいっ」
スパン!
「ふげ!?」
「なにやっているの? まだ途中だっていうのに、こんなところで脂を売って」
「う、うう~~~・・・・・・ごめんメヌ―――お姉ちゃん」
しょぼんとしょげだしたリルチャンと、もう! と小さい怒りを示しているメヌ。二人は頭を下げるとそのまま作業を再開した。
摘んでおいた薬草と野草を磨り潰し、薬と香辛料にする。地味で根気のいる作業だが、リルチャンとメヌは実に楽しそうにやっている。
「あら、アッシュ様。シャツが破けておりますね」
「ん? おう、ここか」
「後で直しておきますね」
「あ! はいはいはい! はい! それ、私がやります! やらせてください! はいはい!」
「ん~~~。じゃあ一緒にやりましょうね~~」
子供のようなリルチャンと、それを母親のように宥めるメヌ。そんな二人を眺めていると、慌ただしいとアッシュはおもった。
しかし、嫌ではない。むしろ心が癒やされる。ここでの生活では、決して抱いたことがなかった感情であり、もっと言えば勇者だったときにも、産まれてから一度もこんな心地を味わったことはなかったのだ。
「アッシュ様?」
「っ!」
「終わりましたけど?」
「あ、ああ。助かった。そっちに置いておいてくれ」
「はいっ! あとなにをすればよいでしょうか!?」
「あとは、そうだな・・・・・・そうだ。手紙を持ってきてくれ」
「手紙、ですか?」
「ああ。この間ゴッツ達が持ってきてくれた奴だ。まだ読んでいなかった」
「はいっ」
元気に駈けていくリルチャンを眺めているうちに、アッシュは安堵していく。最初は驚いたが、助かったとおもったのだ。つい過去の記憶を思い出しそうになっていたのだ。
アッシュにとっては辛く、過酷な記憶を。
「アッシュ様?」
「ん。ちょっと考え事をな」
「そうですか・・・・・・大丈夫ですか? 思い詰めた表情をされておりましたから」
「っ、」
心を読まれたかのようで、つい顔を逸らした。リルチャンとは違い、メヌには純粋とは違う、底知れない何かを感じるのだ。
最初は怪しいとおもっていたが、単なる性分ではないかと最近考えている。リルチャンもそうだったが、二人には殺気がない。魔族や動物がこちらに対して攻撃の意志を向けたときに発する独特な気配だが、出会ったときから今日まで一度も感じたことがないのだ。
今まで何度も戦いを経験し、暗殺もされそうになったことはあったが、種族を問わず殺気だけは必ず隠せない。加えて激戦を潜り抜けてきた経験から、アッシュは常に気配や殺気に対する敏感さを身につけているのだ。
「手紙って、ご家族からですか?」
こちらの気まずさを読みとったかのような問いかけに、アッシュはまた顔を背けたくなった。
「家族はいない。昔、皆死んだ」
「・・・・・・ごめんなさい」
「いや。珍しいことじゃねぇだろ」
「・・・・・・」
「手紙は、王女からのものだ」
「王女様、ですか?」
「ああ。ゴッツ達が言っていた」
「王族の方と手紙を送り合う中で?」
「別にそういうんじゃないが。何度か会って話をしたことがある。主家に当たるからな」
「な、なるほど~~~・・・・・・王女様・・・・・・お手紙ですか・・・・・・」
どうしたんだろうか。アッシュの話を聞いているうちに、メヌの様子がおかしくなった。まるで「まずいことになったな~~」とでもいわんばかりだ。
「ゴッツ達が言うには、俺に会いたがっていたと」
ガシャアン!
「なんだ?!」
「あ~~~~・・・・・・」
「あ、あ、ああ、」
けたたましい音に振り返ると、リルチャンが盛大に転んでいた。プルプルと震えていて、目には涙を浮かべている。痛がっているという様子はなく、まるでこの世の全てに絶望したという顔だ。
「お、お、お、」
「大丈夫か? 鼻と額、擦り傷ができてるぞ」
「おうじょ、おうじょ・・・・・・あいたがっている・・・・・・あわわわわわわ、」
駆け寄ったアッシュの声なんて、聞こえていないのか。光が一切ない黒く淀んだ目を、握りしめた手紙に注いでいる。
「わわわわわ、お、おうじょ・・・・・・わたしよりも、う、うえええええええ・・・・・・」
「リルチャン。まだそうだと決まったわけじゃないよ。ほら、落ち着いて? ひっひふー。ひっひふー」
・・・・・・本当に慌ただしい。
意味がわからない二人を眺めながら、アッシュは息を吐いた。
しかし、やはり悪い気はおこらず。口元がつい緩みそうになってしまったのだ。