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ガレージの弟子

作者: テク

 先生の内弟子になって半年ほどの頃だった。サイン会で地方の書店までお供した。先生は飛行機も電車も嫌いで移動は自動車を使う。長距離の高速を運転するのは弟子の務めだった。

 前日に講演会があり、そこでも告知したのでそこそこの人が集まってくれていた。小一時間ほどサインを行い、終わりが見えてきたころ一人の女性が本を差し出して「お話があります」と先生に声を掛けた。

 先生は顔を上げて女性の顔を確認すると

「では少し待ってくれるか」といった。

「はい」と女性は答えた。

「サインもいるのか?」と先生が重ねて聞くとその女性は「お願いします」といった。

「では、後で」とその本を脇に置いてサイン会は続いた。女性は黙ってどこかへ行ってしまった。

 それから十五人ほどのサインを書き終えてサイン会は終了となった。先生は最後に先ほどの女性が持ってきた本にサインをして「馬鹿弟子殿」とあて名書きを加えて本を閉じた。

 書店の人たちと控え室へ戻る途中にその女性は立って待っていた。先生は一緒においでと声をかけ室の前まで来ると「着替えるのでもう少し待ってくれ、話はそれから」とそれだけいうと廊下に女性を残し室の扉を閉じた。私も一緒に廊下に残される形になったが書店の人と簡単なスケジュールの確認をして、すぐに中に入りお茶の用意をして先生に差し出した。

 先生はお茶には手を付けず。何やらごそごそしながら上着だけ脱いで廊下へ向かった。

 扉を開けて、女性に「で、話は何だ」と声を掛けた。

「何で私では駄目なのですか」女性はそういうと先生に駆け寄って抱き着いた。ように見えた。

 女性は小柄で先生の肩ほどまでの背しかなかった。ローヒールに、紺色のスカート。特に目立つ服装ではなかった。また不細工というわけではないが、美人というほどの器量でもない。全てが普通だった。

 先生はふっとその女性から後ろに離れると、両手を大きく広げてその女性の頬を両手で挟み込むように思いっきり叩いた。「バシッ」という結構な音がした。耳に当たっていれば鼓膜が破れるほどの手加減のない両手による同時ビンタだった。

 女性は驚いて目を丸くして立ち尽くしていた。

「今度こんな馬鹿なことをしたら破門だぞ」先生はそういうと、先ほどサインした本を手に取り女性に渡した。

 どう見ても馬鹿なことをしているのは先生のように見えたが、女性はその本を目を丸くした表情のまま受け取った。

「そいつに訊いてみろ」先生は私を顎で指して女性にいった。「何を?」と私は思った。巻き込まれるのか?とも思った。

 女性は呆然とした表情のまま私の方を見た。混乱した表情だったがそのまま沈黙が続いた。

「あなたが一番の弟子なのですか?」先生がそういった。するとオウム返しするようにその女性は私に「あなたが一番弟子なのですか?」と訊いた。小さな声だった。私はそこで初めて、何が目の前で行われていたのか事情を察することができた。

「いいえ、お会いしたことはありませんが、私より先に一番の方はいらっしゃると聞いています。私は二番目ということになります。一番の方には全てを教えたと先生はおっしゃっていました。私は内弟子ですが、まだほとんど何も教えてもらってはいません、勝手に盗めということのようです」とそう答えていると、女性の目から涙があふれでてくるのに気が付いた。

 先生もそれに気が付くと、あろうことか片方の靴を脱いで今度は釘でも打ち付けるように手加減もなくその女性の頭を上から叩いた。

 流石に私が止めに入ると「弟子に何をしようが勝手だ、いやなら弟子などになるな」と毒着いた。興奮している風でもない先生を見ながら違和感だけが残った。

「泣いている暇があったら書け、書けなくても書くしかないんだ、馬鹿たれ」先生はそういった。

「はい」と女性は答えた。私は正直マゾかこの女はと思った。

「もういいだろう、帰れ」と先生がいうとその女性は頭を下げて帰っていった。

 すぐに書店員の方が「何かありましたか」と入って来たが、先生は涼しい顔で「大丈夫です」と答えてお茶を飲み始めていた。

 書店員が出ていくと、先生はベルトを緩めて腹に巻いていた雑誌を取り出すと「これは必要なかったな」といい出した。

「刺されたのですか?」と私は少し青くなった。

「いや、そんな度胸はなかった、もう少し振り切れていると小説ぐらいかけるのになぁ」と先生は笑顔でいうので、何ともとんでもない世界に迷い込んでいることにそのとき初めて気づくことになった。


 地元に小説家がいることは噂で聞いていた。同じ小学校の二〇年以上の先輩に当たる。一人暮らしで、地元の喫茶店でよく食事をするという情報も入手していた。

 その喫茶店に張り込んだりしてみたが、出会うことはなかった。

 そんなことに刺激され自分でも真似事で小説を書き始めてみた。書くのは面白かったが結果は芳しくなかった。出版社主催の新人コンテストに応募するも、最終審査に残ることすらなかった。そうして三年ほどが過ぎた。

 何かヒントが欲しくて、地元の作家が出入りする喫茶店にまた通うようになっていた。

 喫茶店のマスターによれば、時々来るが時間も曜日も決まっているわけではないということだった。

 それから半年以上、足しげく通ったが小説家に出会うことはなかった。やみくもに通っても駄目だとやっと気が付き、時間や曜日の傾向をもう少し詳しくマスターに聞くと、少し驚いたような顔をして、奥のテーブル席を指して、時々出会っているよといった。

 そちらを見ると、普通のおっさんだった。本の裏表紙にあるポートレートとは違って見えた。

 急に心臓が高鳴り緊張したがゆっくりと近づいて話しかけた。

「突然失礼ですが、小説家の先生でいらっしゃいますか?」

「そうだよ」

「私は先生と同じ小学校を卒業した山野といいます。私も小説を書いています。お時間のあるとき、少しアドバイスなど頂けないでしょうか?」流石に今考えると図々しい話だが先生は受けてくれた。

「後輩さんか。じゃあ仕方ないね。いいよ」と何とも気軽に話はまとまった。ただ、もちろん条件はあった。

 その条件は原稿用紙二枚ほどのショートショートを書いてそれを見せる。それに感想を述べる形でアドバイスをもらう。原稿ができたらマスターに伝言しておく、先生も次の予定をマスターに知らせるのでそのときに合わせて出向くこと。

「食事ができる間に読んで片付けるから、その日は君のおごりだよ」とも言われた。


 先生に言われた通り原稿用紙二枚分のショートショートの原稿を見せると、先生は間も置かずその話を一枚ほどの長さに縮めて書き直し「この方がいいでしょ」といった。

 その間、オムライスを注文してそれが出来上がるほどの時間、オムライスが運ばれてくると、伝票を私に渡し「ではまた今度」というとそれ以上先生の時間を邪魔することは許されなかった。でもこの形なら、何度でもアドバイスしてくれるというので、またお願いしますと頭を下げ、先生の原稿を何度も読み直し、月に一度か二月に一度、オムライスを奢るだけでアドバイスをして貰えることになった。


 そんなことが一年ほど続いた後、この原稿はこれでいい、直すところはない。次は原稿用紙一枚程度のショートショートを書き、同じ話を違う切り口で書き直してどちらがいいか吟味する訓練を続けなさい、それは私に見せる必要はないので、もう卒業です。と先生はいい出した。私は、慌てた。まだ一人で長い小説を書きまとめる自信などなかった。「まだ卒業は早いです」というと「卒業するのは私です」と先生はいった。それでも何とか食い下がってもうしばらく原稿を見てもらう約束を取り付けた。

 しかし結局それを読んでもらう機会はなかった。その代わりに、内弟子として先生の自宅に住むことを許されることになった。

 これは、不幸と幸運が同時に訪れた結果だった。人生は思わぬことで、あらぬ方向に転がる。それが良い方向なのかどうかは、転がり続けるので分からない。先生はそういった。


 そのころ私は親元を離れ近くに小さなアパートを借りてアルバイトをしながら一人で暮らしていた。フリーターというやつだった。アパートは木造で古く狭い間取りのものだったが、その分家賃は格安でそれなりに気に入っていた。貧しい暮らしだったが、丁寧に暮らそうと思っていた。毎日きちんと掃除をした。布団も定期的に干し、小奇麗な服装を心掛けた。家具や小物も古くともしっかりしたつくりの物をリサイクルショップを回って根気よく探した。物を増やすことはせず、最小限の気に入った物をきちんとメンテナンスしながら暮らす。食事も自炊して栄養バランスなどにも気を配った。しかし、そんな暮らしも火事で全てが駄目になった。出火元はアパートの離れた部屋だったことと、火災自体も半焼で直ぐに鎮火されたので私の部屋は燃えることはなかった。怪我人も死人も出ることはなかったが、建物は取り壊されることになった。

 私の部屋の家財道具と衣類は全て焼けることなく残ってはいたが、消火活動の際に水をかぶり無残な状態だった。時間をかけて集めた気に入った物ではあったが、高い物はなく持ち出して、洗い、乾かしてもう一度使おうという気は起きなかった。使えそうな衣類と最小限の道具を鞄に詰めて、後は全て放棄することになった。

 実家には帰りにくい事情があった。数日ネットカフェで寝泊まりして、ゆっくり考えようと思っていた。先生に見てもらう約束の原稿も駄目にしていた。ノート型のパソコンを使っていたが、手書きでもいいので書き直そうと思ってはいた、しかしどうにも集中できず書き直すことができなかった。

 気持ちが折れかかっていた。結局約束の日には原稿を持たずに出かけ、事情を説明して謝った。

 先生はマスターから聞いたといってそのあと幾つか質問をしてきた。仕事のことや、住む場所のことだったと思う。よく覚えてはいない、その頃はぼんやりと時間が流れていた。最後に先生は「ちょうどいいから暫くうちで暮らせ、引っ越したばかりで荷物の整理に人手がいる。取りあえず一週間住み込みのバイトのつもりでどうだ?」といってくれた。

 結局、新居にある来客用の和室で二週間暮らした。家の中も綺麗に片付いた。居心地は悪くなかったが、長居するのも流石に図々しいのでいったん実家に帰ってまたアパートを探しますと申し出ると、先生はバイト代を封筒に入れて渡してくれた。

「実家に帰りにくいのなら、次が決まるまでここで内弟子扱いで暮らしてもかまわない、食費は持つがそれ以上は小遣い銭ぐらいしか払えないがどうする」という提案までもらった。

 こうして思いがけなく内弟子の暮らしが始まることになった。弟子としての暮らしは、来客用の和室から、小さな縦長の窓があるだけの3畳の納戸部屋に拠点を移すことから始まった。荷物は持ち込んだカバンひとつと、折り畳みベッドがひとつあるだけだった。

 内弟子の仕事は掃除と食事の支度、スケジュールの管理と講演等のお供だった。

 その時期、少し講演が重なっていたので付き人がいると助かるということもあったらしい。先生は「洗濯まではしなくていい」といった。

 内弟子の暮らしは一年ほど続いた。先生はよく「本当に内弟子を取ることになるとはなぁ」といった。でも私は弟子とはいえなかったと思う。付き人のような仕事はしていたが、結局自分の小説をまとめる努力はしなかった。火事と一緒に何かが消えてしまっていた。結局、一年で先生の家の納戸を出ることになった。

「小説を書いていないなら、アパートを借りて出ていった方がいい、君がいてくれると助かるが秘書として正式に雇うほどの余裕はない」あるとき先生にそういわれた。その気で探すとアパートはすぐに見つかった。結局甘えていただけだったのかもしれない。

 思いがけなく始まった弟子暮らしも、あっけなく終わった。その後も小説を書き上げることはなかった。

 先生には弟子がもう一人いた。先生が言うには、不器用で端迷惑な娘だったという。「あれでもう少し器量が良いと『真っすぐで情熱的』という評価に変わったりするので女も大変だよ」とも先生はいった。

 先生がまだ新人作家で集合住宅に住んでいたころ、その娘は訪ねてくるようになった。家出少女のような格好で「弟子にしてくれ」などというのは普通ではない。うっかり狭い部屋に上げたりすると、どんな災いに見舞われるか分からないと用心して取り合わなかった。第一、これからどうなるかもわからない新人作家に弟子入りしてどうしようというのか?「馬鹿なのか?」世間知らずにもほどがある。そんな奴に小説など書けるわけもない。下手にかかわって逆恨みされ、怪我でもさせられたんではたまらない。と次々とネガティブなことが頭に浮かんだ。

 その娘は、日を置いて何度か現れた、そのたびに丁寧に断るということが続いた。

 根負けしたのは先生の方だった。仕事を邪魔されるというほどのことはなかったが、宅配の荷物を受け取りに玄関に出ると、配達員の横に立っていたりした。荷物を受け取りながら、配達員に聞こえるように「弟子は取らない」といって見せたりしている自分が可笑しくなってきた。

 何を世間体を気にしているんだ、と先生は思ったという。小説家が保守的になっていては話にならないではないかとも思った。それでも面倒は御免だった。

 当時先生はガレージ付の長屋形式の集合住宅に住んでいた。一階がガレージで上階が居室空間になっている車やバイクが好きな人向けのタウンハウスという建築形式の賃貸住宅だ。

 ガレージのシャッターを開けるとそこにその娘は立っていた。

「話は聞いてあげるので、近くのコンビニでお勧めの物を一つ買っておいで、それを食べている間だけ時間を空ける。一つで良いが何を選ぶかもテストだと思って選定すること。長くは待てない。三〇分でタイムオーバーアウトだ」

 ガレージの奥には小さなテーブルとスツールが二脚置いてあった。

「分かりました」というとその娘は小走りでコンビニへ向かった。一番近くのコンビニまでは五分、往復で一〇分かかる。選定するのに一〇分あれば余裕と考えられる。その他のタイムロスに一〇分。特に無理な条件ではない。適当に無理なことをいってあしらうつもりはない。未熟ながら一生懸命なら、こちらも無理のない範囲で真摯に対応しようと考えた。

 何をどれくらいの時間で買ってくるのか、自分の好きな物を選ぶのか、相手の好みそうな物を選ぶのか。こんなことでも、いろいろなことが分かる。

 小走りで戻ってきたその娘は「豆大福とお茶」を選んだ。相手の好みを考えたようだが、相当年配だと思われていると察せられた。お茶は、ホットと冷えた物がありどちらが良いですかと尋ねられた。馬鹿ではないようだった。

 ガレージの奥で面談が始まった。

「弟子になってどうするの?」

「自分も小説家になりたいと思っています」

「それなら、学校へ行った方が良いでしょう、文章の書き方も教えてもらえます」

「学校は卒業しました、次のステップと考えています」

「弟子というのは具体的にどういうイメージを持っていますか?」

「身の回りの世話をしながら、小説家の生活と考え方、具体的な仕事の進め方を学ぶ場だと思っています」

「うちは狭いので、あなたの居場所はありません、通いでうろうろされても邪魔になります」

「掃除も料理も得意です」

 押し問答は埒があかないことは初めから分かっていた。

「分かりました、では弟子にしましょう」

「本当ですか?」

「はい、ただ集中講義をしてすぐに弟子は卒業してもらいます」

「どういうことでしょう?」

「言ったように、こちらにも都合があります。そこで、あなたが弟子として学びたいと思っていることを今教えます」

「そんなことが出来るのですか?」

「教えられることを教えるだけです、それであなたが小説家になれるかどうかはあなた次第です。保証などありませんし、弟子になった以上、師の言葉は絶対です。弟子が師匠に逆らうことは許されません。弟子が自分の意思で選ぶことが出来る選択肢は、弟子を辞めることだけです」

「わかりました」

「これから教えるのは、何を書くか、そしてどう書くかということです。知りたいのはこの二つですね」

「ハイ」

「まず、図書館をイメージしてください。具体的に知っている一番大きな図書館に本がずらっと並んでいる様子をイメージしてください」

「ハイ」

「ちなみに、何処の図書館をイメージしていますか?」

「県立図書館です」

「結構、県立図書館に何万冊本があるか分かりませんが、その中に書いてあることを書いては駄目です。当たり前ですが、まだ誰も書いていないことを書く必要があります。誰かが、過去に書いたようなことを改めて書き直しても小説家には成れません」先生はここで豆大福を食べて、お茶で流し込んだ。

「次にどう書くかですが、読みやすく分かりやすく書けば良いだけです。それが全てです。もう少し具体的に教えます。読みやすい文章とはリズムのある文章です。人間は一定のリズムで呼吸しています、ですから息継ぎもさせずにやたらと長い文章は読みにくいことになります。また分かりやすい文章とは、映像イメージがしやすい文章のことです、文字が頭の中で自然な形で映像に変換されることが分かりやすいという意味です。これで、何を書くか、どう書くかの教授は全てです。教えられるのは基本だけです、応用は自分でつかむしかありません。私の真似をしていても、私以上には成れません。そしてもう一つ小説には大切な物があります。その本にしか無いことを読みやすく分かりやすく書いても、読者が読み進めてくれるとは限りません。それにはドライブ感が必要です。先へ先へ引っ張っていかれる引力のようなものをそう呼んでいます。このドライブ感をどう作るかを教えることはできません。まだ、私自身掴み切っていないからです。多分皆それで苦しんでいるのだと思います」これで終わりだったが、ダメ押しが必要だと先生は考えた。

「ところで、コンビニでくじをやっていたでしょう。当たりましたか?」

「いえ、ハズレでした」

「どうやって引けば当たるか知っていますか?」

「いえ、そんな方法があるのですか?」

「ありません」

「ですよね」

「ただ、当たりの確率を上げる方法はあります。くじを引く箱の一番底にあるくじを引き出せば当たりの確率が上がります」

「そうなんですか?」

「理屈があります、あなたがコンビニの店長だったとして、くじを仕込む手順を考えてください」

「はい」

「当たりくじと、ハズレくじがあります。これをどのような手順で箱に入れると思いますか?ハズレくじを箱に入れた後、当たりくじをその上に入れる人はいません。トランプのカードを切るように、当たりとハズレを丁寧に混ぜてから入れるのは手間がかかり面倒です。大抵当たりを入れて、その上からハズレを放り込み箱を振って混ぜます。しかしこの方法ではくじは混ざりません。当たりは底にあります。先にくじを引く人が手で混ぜてしまうことはあるので必ず当たるわけではありませんが当たりの確率は高くなります。世の中のことには仕組みがあります。その仕組みを小説の中で考えるのが小説家の仕事です。読者を気持ちよく踊らしてあげなければなりません、一緒に踊っていては話になりません。以上です」

 その娘は真面目な学生のように一生懸命ノートを取っていた。先生は立ち上がり「ゆっくりしていって構わないから、それを食べたら帰りなさい」そういい残して二階に上がってしまった。しばらくしてガレージに降りてみると、テーブルの上は綺麗に片付けられていた。関わってみると悪い印象はなかった。ガレージのシャッターを下ろして弟子騒動は終了した。

 このときの娘がサイン会に現れた女性だ。随分時間が経っていたのによく顔を覚えていましたねと先生に訊くと、特徴的な見覚えのあるアクセサリーを身に着けていた。あれは偶々ではなく一種のアピールだろう。それに、弟子は弟子だからなといった。

 様子がおかしいことも、すぐに分かったのですかと訊くと、さらに説明してくれた。

 まず、目つきが普通ではなかった。上手くいっていないのだろう、元々不器用な感じの娘だった。

 不器用な人間が夢を見るのは残酷なことでもある。夢以外が全て色あせて見え、日常から浮いてしまう。夢など叶ってしまえば、すぐに日常に埋もれていくものにすぎないのに、今ある日常とは違う何かがあるように思いこんでしまう。初めから間違っている。間違いから始まると、時に狂ったり壊れたりする。そういう危うさが、夢にはある。

 そしてその先に、弟子が弟子を辞めないで師匠に逆らう方法がもう一つある。師匠を殺すことだ。もちろん意味がない、辞めれば済むしあの娘の場合辞める必要すらない。ただ、辞めてしまうと小説家にもなれず、小説家の弟子であることもなくなってしまう。冷静な判断ができないとき、この後に起きるパターンはそんなにはない。最悪刺されると思った。でもあの娘が持っていたのは爪切りのような小さなナイフだった。ひょっとすると、脅かすつもりで本物の爪切りを持っていただけなのかもしれない。何がしたかったのか、自分でも分かってはいなかったのだろう。脅かされる方はたまらないが、こちらが大騒ぎすればそれはそれで終わる。

 あの娘は名前も覚えていないが、弟子であるには違いない。そして小説家は究極人が好きでなければ務まらない職業だ。一人書斎にこもり、人生の大半を自分の頭の中を見つめて時間を過ごすなら、その底流に人間への思いがなければ意味などない。

 あの娘は、狂気の淵で皮一枚踏みとどまった。ナイフは私が防いだのではない、持ってはいたが突き刺したりはしなかった。

 ならば守ってやらないと、淵の先に突き落とすことになる。

 先生はこんな説明の後「本当に狂ってしまうと、刃はおまえに向くぞ」と恐ろしいことをいって笑っていた。まさか何で?と思っていると「モテない奴は呑気で良いなぁ」と今度は軽くからかわれた。

 どちらにせよ、そこまでの情熱は私にはなかった。


 その後先生の元を離れたので知らなかったが、この話には後日談がある。私がそれを知ったのは何年も後のことだった。

 その女性は作家になって、何冊か本を出していた。彼女のエッセイ集の中に「ガレージの師」という話がある。

 世話になった小説家が地元でサイン会をするというので手土産を持って出かけた。並んでサインの順番を待っている内に、いろいろなことを思い出し、思い出に浸っているうちにふと、小説のアイデアが浮かんだ。ちょうどいいので先生に意見を聞こうと、ディティールを詰めて先生に話すと、何だかひどく怒られてお土産も渡さないで逃げ帰ったという話だった。

 そのアイデアは爪切りで相手を刺す真似をして、相手が大騒ぎするのを面白がって復讐するという内容だった。どこを探してもナイフなど持っていないので、騒いだ相手が窮地に追い込まれていくというアイデアだったが、夢中になり過ぎてロクに説明もしないで、やって見せたのが悪かったと破天荒なエピソードになっていた。逆に、二発も殴られた、というのが落ちになっていた。最後に「豆大福を見ると、今でもその先生のことを思い出す」と書いてあった。

 違和感があった。先生がこれを読んだらどう思うのだろう。先生は守ったのではなく、勘違いしたのだろうか?

 そして今更ながら火事のあと、なぜ私を助けてくれたのだろうか?と考え始めた。冷静に考えれば、こちらの話にも違和感がある。


 あの火事に事件性はなかった。老朽化による漏電火災。人的被害がなかったので特に捜査もなかった。消防による調査で終了している。

 作家の想像力は、それで納得したのか。

 ショートショートを読むうちに目の前の若者には才能のないことが明らかになる。引導を渡すほどの間柄ではないのでフェードアウトしようとするが、粘られる。その矢先に火事が起き、不幸に見舞われた。救いもなく呆然としている人間は、一人では立ち直ることは困難な場合が多い。自暴自棄になり更に状況は悪化する。それで、救いの手を差し伸べた。

 何か違う。

 薄々自分の才能に気づいた若者が、それを認めることにもがくうちに、訳もなく放火する。逃げようとしたのか、隠そうとしたのか未熟な人間の未熟な行動が惨事を生む。その可能性を疑ったのではないか。

 しかしこの場合、そんな危ない他人を内側に取り込んで助けようとするのだろうか?

 振り切れた行動をとる人間のその後に興味があったのか?

 そして、私は自覚のないまま犯罪を犯したのか?

 それらの可能性はどちらもなかった。前後の記憶もはっきりしている。ただ、確かに、才能がないことは薄々気づいてはいた。

 焼け出された後親元に帰り、もともと折り合いの悪い肉親の視線の中で、決定的に壊れた可能性は高かった。

 先生には、私が漠然と考えていた以上に助けられていたことを改めて知ることになった。先生はどう思っていたのか訊いてみたくなった。そして御無沙汰していた先生に無性に会いたくなってしまった。

 電話するとちょうどいいので次の日曜の午後に尋ねてこいという。

 その日に飛んでいくと、玄関先で小奇麗な身なりの小柄な女性とすれ違った。

 穏やかな笑顔で会釈したその女性は無言のまま帰っていった。

 入れ変わるように、私を迎え入れた先生は、持参した手土産を見ていった。

「お前も豆大福か、俺は別に豆大福が好物というわけではないんだぞ」

「先生は甘いものが好きでしょ、虎屋の豆大福ですよコンビニのじゃないですから」

「そうか、なら食べるか」

「そうですよ、今お茶を淹れてきますから」 私はそういって台所へ向かった。勝手知ったる師の台所だった。そして先生は先生だった、会ってみれば、昔のことなどどうでもよくなっていた。

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