狼
相変わらず、玲の視界は真っ暗だった。
何も見えていないのだから、無闇に武器を構えることもできない。
壁の方に後ずさって、玲は静かに身を強張らせた。
「そんなに警戒しないで」
柔らかい、男の声がする。たださっき自分を助けたのとは明らかに違う人間の声だった。
「僕は君に危害を加えるつもりはない。君自身が僕の攻撃対象になっていないのは、わかってるよね?」
そんなこと、言われなくとも承知の上だ。
だけど、そうだからと言って警戒を解く気にはなれない。
こんな状況で一体何が信じられると玲は思った。
「僕はロウ。狼って書いてロウって読む。26歳。よろしく」
「……なにしに来た」
タグか。殺しか。
このゲーム内にいて、プレイヤーが接触してくる目的なんて明白だ。聞く価値もない。
なのに今の自分は相手がどこにいるかも見えず、かすかに音を拾う以外に何も確かめることができない。
玲は悔しさに顔を歪めた。
「怪我してる? 立てないの?」
「…………」
「いや、まず目が見えてないね。焦点があってない。ああ、首からも血が出てる。痛い?」
「っ、来るな!!」
足音が一歩近づくのが聞こえて思わず叫んだ。
玲は壁に手をついて立ち上がろうとするが、足がすくんでなかなか立てない。
無様に床に崩れながら、玲はそれでも足掻こうとした。男の足音はそこから動くことはなかった。
宥めるように彼は言う。
「いいよ。大丈夫だから無理に動かないで。僕は君に攻撃しない。立会人もいないんだ。戦闘ができない状況なのはわかるだろ?」
それはそうだとわかっている。ーーだけど信じるなんて、
「……信じろ、なんて言っても無理かもしれない。だけど僕は君を助けたい。少しの間、いや、僕が君を中立地帯まで運ぶまででいい。一度だけ、信用して欲しい」
「嫌だ。俺は誰も信じない」
こいつの攻撃対象になっていなくても、こいつに仲間がいるかもしれない。中立地帯に運ぶと言っても、本当はどこに連れていかれるかなんてわからない。
誰かを信用できる理由なんて、どこにもない。
玲は濁った瞳で相手を睨んだ。
「随分と、警戒心が強いね」
「当たり前だ。こんな状況で他人を信じられる方がどうかしてる」
「あー、それもそうか……。なら、ちょっと待ってて」
ロウは言った。直後なにかものを探るような音がして、次に鋭く、キンッという音が響く。
この音、聞いたことがあるなと玲は思った。なんとなく、折りたたみナイフが開く音とよく似ている。
「5秒、だよね」
「……っ?!」
何が起こるのかわからなくて、玲の身体は萎縮した。
沈黙すること数秒。静寂を破ったのはいつもの無機質な機械音声。
[半径100m以内に、あなたを攻撃対象とするプレイヤーが侵入しました]
それは玲のパーカーのポケットからではなく、相手のいる方向から聞こえていた。
驚いて声を失う玲をよそに、男はまた音を立ててナイフを収める。
「これで、少しは信用してもらえるかな」
彼が言いたいのはつまり、自分は自らこちらの攻撃対象になることを選んだのだから、それを踏まえた上で、自分のことを信用しろということ。
攻撃権をこちらだけに持たせた意味を考えろ、ということだ。
彼は続ける。
「どうしても信用できないなら、悪いけど無理やりにでも中立地帯まで連れていくよ。暴れてもいいけど、それが今の君にとって得策だなんて考えないで。
言っておくけど、人一人ちゃんと守って戦う技量は、僕にはない」
そこまで言われて、玲はもうどうしようもなくなった。
彼は多分、自分を放って立ち去ってはくれないだろう。意地でもこちらを動かすつもりだ。
「……目的は、なんだ」
「確かめたいことがある。僕が引き受けた仕事の内容に、君が関わっているかもしれないから。話がしたい。可能な限り内密に」
「ここじゃダメか」
「ダメだよ。ここで話していて誰か来たらまずい。さっきも言ったように、正直僕の戦闘力じゃ、君を守りながら勝つような自信ない」
それに、とロウは続けた。少し間が空き、ボソッと、こんな声が降ってくる。
「それに、こんな汚いところにいたくないんだよね」
「は?」
「埃っぽいし汚いし、てか君よくそんなとこに座ってられるね? あ、ごめん見えてないんだっけ。でも僕ならこんなところにとどまってるなんて生理的に無理。てか君を探すためじゃなかったら入らなかったよこんなボロいビル。そもそも何さこのゲーム。仕事とはいえ血は見るし品のない奴らばっかだし。いや、別に美人のお姉さんの血とかなら喜んで見るけど。てかむしろ喜んで」
「やめろ……!」
玲は思わず叫んでしまった。
「っ……信じりゃ、いいんだろ」
「うん。そうして?」
嬉しそうな声を出すロウに、玲は無言で唇を噛んだ。
冷静でいるつもりだったのに、ついやけくそになってしまった。というか、彼がノンブレスで吐く言葉をあれ以上は聞いてはいけない気がした。
よくわからないが頭が痛くなってくる。
「じゃあ、中立地帯まで肩貸すから」
そう言って、ロウは玲を立たせて歩き始めた。
真っ暗なせいでどこに向かっているのかわからず、玲の警戒心は歩いている間もなかなか抜けることがなかった。
しかしロウはそんな玲の気持ちを知ってか、今はどこを歩いている、と口頭で築一説明しながら歩みを進める。
玲からすればもちろん完全に信じられはしなかったが、気休めになっていたのは否めない。
そうしてしばらくすると、
[中立地帯に侵入しました]
と2つのスマホがそう伝えてきた。
その瞬間、玲は無意識にホッと息を吐く自分の存在に気がついた。
様子がおかしかったのか、ロウは笑いながら口にする。
「本当に警戒心が強いんだね」
玲は黙り込んでしまった。ロウは気を害した様子もなく言葉を続ける。
「とりあえず、ホテル入るよ? 部屋はとってあるから、そこで話を聞かせてくれるかな」
口調は疑問系でなく断定系。
ここまでしてくれたのだ。まだ若干の警戒はあれど、ここで断るのは失礼だろう。
玲は思い、少し彼に付き合ってみることにした。




