狂人の裏
玲は目を凝らしながら考える。
じゃあどうするのが正解だ。あの女を振り切るのか。
立会人の効力は彼女が見えている範囲までだ。
死ぬ気で走れば、黒井はともかく、彼女だけは振り切れるかもしれない。
玲は深く息を吐いた。
相手は職業殺し屋だ。しかもあの実験の被験者。
さっき遭遇した時、黒井の足元に転がっていたのは間違いなく死体だった。
昨日だって、すでに人を殺してる。
「…………はぁ、」
しかし逃げることも、不可能に等しいとわかっていた。今の状態で走っても、黒井なら確実についてくる。
さっきだってそうだったから。
結局追いつかれて、殺されるのが落ちだろう。
ここにきて初めて、自分の命を賭けることの実感が湧いた気がした。
今まで戦った参加者は、みな殺すことを躊躇い、このフィールドの外と同じように、一線を引いた戦い方をしていたように思う。
だが、目の前にいるこいつは違う。
「さぁ、続きをやろう! サァ!!」
躊躇いがない。
逃げてもきっとすぐに終わる。
戦っても、それは何も変わらないかもしれない。
どっちを選んでも、奈落の底へ一直線。
ーー……なら、せめて。
玲は着ていたパーカーの内側から、新たに2本のナイフを取り出した。
全て細いシースナイフ。最初のと合わせて、右手に2本、左手に1本。右手の片方は指の間に挟んで鉤爪のような形で持ち、残りの愛刀は普通に握る。
「へぇ、まだ持ってたんだ」
黒井はふっと笑みを浮かべる。
実際はこれ以上に持っている。
でも今使えるのは、多く見積もってこれが限界だ。
玲は静かに前を見据える。
視界は真ん中の半分除いて暗い。
どうにか中心に黒井の姿を置き、ナイフを構える。
「んじゃまァ? レイくんもやる気になったみたいだし、始めますか、ねっ!」
声を合図に、一瞬で距離を詰められた。
振るわれる刃。
剣筋は見えないほどに速い。
よけられるものは最小限の動きでかわし、無理なものはナイフで防ぐ。
何度かそれが続いたところで、玲は左手のナイフを突き出し、黒井の腹部を狙った。
しかしすぐに刀で防がれ、逆にこちらのバランスが崩れる。
その瞬間、玲は右手のナイフを1本、思い切り空中に放り投げた。
そのままの流れで不格好に体当たりをして距離を取る。
タイミングよく落下してくるナイフ。玲はその持ち手部分を身体を回転させて蹴りつけ、刃を黒井の方へ飛ばした。
まっすぐに飛んだそれは、彼の頬に傷をつけて闇に消える。
「ありゃ、当たった」
当然、大したダメージにはなっていない。
それどころか、黒井は満足そうに笑って見せる。
「あはァ、久しぶり! オレに傷くれた奴、マーじで久しぶり!!」
表情から読み取れるのは、歓喜だけだった。
次の瞬間には黒井はさらに刀を振るうスピードを早め、その身体は壁や空中を跳び回る。
玲はそれに対抗し、また使うナイフも補充しながら、どうにか攻撃を防ぎ続けた。
ただ、展開自体は一方的だった。
手数だけは黒井より多いが、どうしても攻めあぐねてしまう。
玲は意識を、黒井の刀の動きにだけ集中させる。
刃の輝き、風を切る音。
どんな些細なものも見落とさぬように。
しかし防ぐので精一杯なのは変わらない。
攻撃に転じることもできない。
防戦一方。
そしてどうしようもない限界も訪れる。
視界の狭まりが一瞬急激に酷くなった。
玲が反射的に目を細めた瞬間に、黒井の刀が頬をかすめる。
チリっとした痛みが頬に走った。
血が流れて飛んでいく。
右手のナイフを黒井に向け、空中に上げたナイフに左手を伸ばす。
だが掴もうとしたその時、さっきよりも酷く視界が歪んだ。
遅れて玲の目に入ってきたのは、ナイフの刃の部分を握ろうとする、自分自身の手。
「っ!!」
反射的に手を引いた。
ナイフが落ちる金属音が無情に響く。
その時だった。
「ここまで、か、なっ!」
「っ! がっ……ぁっあ゛!」
容赦ない蹴りがみぞおちを直撃する。
そのまま背中を壁に叩きつけられ、右手のナイフも手から離れた。
立っていられず、そのままズルズルとへたり込む。
光が視界を覆い、やがて戻る。
その時見えたのは、落ちた刀を片手にニヤニヤと笑う"死"そのもの。
「なかなか、楽しかった、よっ!」
今度は頭を蹴飛ばされる。
脳が揺れた。
鈍い音が重く響き、玲は地面に倒れ伏す。
意識が飛んでいないのが不思議だった。
必死に立とうとする玲を見ながら、黒井は刀を鞘に収める。拾ったナイフを興味深そうに見つめると、それをクルクルと回し、感触を確かめるように握った。
「あーあ、案外あっけなかったね」
玲は濁った瞳を揺らした。身体に力が入らず、手も足も、まともに動きそうにない。
黒井は玲の目の前でしゃがみ込むと、どこか懐かしそうに目を細めた。
「というか、キミ本調子じゃないでしょ。
たまにあるよねーそういうこと。あ、ついでだし、さっきのレイくんの質問に答えようか」
首筋にナイフの切っ先が添えられるのを感じる。
独特のひんやりとした感覚。愛刀に牙を剥かれて、指先が震えた。心臓を、死神が弄んでいる。
腕を上げようとしても全く上がらず、すぐそばにいる男を殴りつけることもできない。
自分のことが情けなかった。
「俺も同じだよ」
黒井は静かに口にする。
「お前と同じ、目の強化と、運動能力の強化。
だからお前に今何が起こってるのかも、俺は大体はわかってる」
ーー…………?
その時、玲は一瞬、言い表せないほどの強烈な違和感に苛まれた。
黒井の話し方が、さっきまでと違う。
話す声も、あの独特の間延びしたものじゃない。
彼の口の端は三日月型から真一文字になり、ニヤニヤとした笑いは、いつの間にか消えていた。
表情もなんだか、真剣なものに変化している。
それももう、薄っすらとしか見えないが。
「眼球、だいぶ濁ったな。つーかそもそも知ってるか? 副作用の時は瞳の色が濁るってこと」
「……っ、ぁ」
黒井は玲の前髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「赤いの、綺麗だったのに。もう光もなくなったな。
見えてないだろ、お前。こんな近くにある俺の顔も」
玲は痛みに耐えながら目を凝らした。
黒井の息遣いは本当に近い場所にある。
しかしすぐ間近にある黒井の姿も、その目はぼんやりとしか映さない。
わかるのは、黒井は何故か、憐れむように笑っていること。
「ついでに教えてやるよ。
視力の喪失は、眼の能力と運動能力の強化、その両方の実験が成功した奴にしか起こらない」
「っ、……?」
「能力面で他の被験者に勝る俺たちの唯一の弱点だ。
最も、他の奴らはもっと酷い副作用が出てるからな。感覚不全が常態化していないだけ、俺たちはまだ、マシな方だよ」
能力面で、他の被験者に勝る……?
「どういう、こと……だ」
玲はどうにか喉を震わせる。
黒井はふっと笑みを浮かべた。




