同種の確信
さっき通ろうとしていた直線路を突っ切れば、中立地帯は目の前のはずだった。だが黒井がいた以上、そのまま通ることなどできるはずがない。
全力を出して走りながら、玲はどうにか別の道を探すために頭の中でマップデータを呼び起こす。
街の構造は円形。
西洋の広場を中心にして広がる街を想像するのが最も適当と言えるだろう。この街の場合は広場が中立地帯に当たる。
別の長い直線路を見つけられれば、おそらくそこを走り抜けて安全圏までたどり着ける。
今はとにかく中立地帯だ。
あそこに入れば黒井だって攻撃できない。
できる限りの全力疾走。
コンクリートのひび割れすら命取りになりかねないが、そんなことも言っていられなかった。
景色が、自分でも見たことがないぐらいのスピードで流れていく。
肺は悲鳴をあげていた。
息が苦しくてたまらない。
玲は心臓が異常な強さで鼓動を打つのを感じていた。
でもそれは、死ぬ気で走っているからというだけの理由でこうなっているわけではない。
強化された自分の速度には、普通の人間はまずついて来れない。だが確実に、足音が一つ、後ろを追ってきているのがわかるのだ。
目を弱らせた玲はあちこちで躓き体勢を崩しながら走ることしかできない。転倒はどうにか免れるが、確実にスピードが落ちていく。
「速いねぇ、レイくん!」
聞こえた声に、息を呑んだ。
「いいなぁ! いいなぁ〜!! オレと一緒じゃん!!」
黒井はまるで、逃げる獲物をあざ笑っているようだった。
玲は悔しさに奥歯を噛む。
ーーこっちは必死だっていうのに……!
黒井はさながら鬼ごっこを楽しむ子供のようにキャラキャラと笑い声をあげている。
そな声があまりにも恐ろしく、玲は走りながら顔を顰めた。
なんとなく、可能性は考えていた。
確信に近い推測で、それがこうして対峙し走り始めた瞬間に、本当に確信に変わってしまった。
元々、分配フェーズの時から怪しくは思っていたのだ。
あの3人は、自分と同じ人体実験の被験者ではないのかと。
そんな予感もあって、情報を見て以降彼らには近づかないようにしようと思っていた。
特に黒井は、嫌な予感ばかりがしてとにかく関わりたくなかったのに……!
自分の現状にばかり気を取られて周囲への注意力が鈍っていた。この後に及んで反省もクソもない。
ナイフを握る手に力が籠る。
ひたすら焦りだけが募っていく。
路地を抜けると、やっと視界が開けて道が直線になった。
暗がりの中に中立地帯の明かりが見える。
ここをまっすぐだとそう思って、角を曲がろうと踏み切ろうとした瞬間。
ーー目の前に、漆黒の瞳が現れた。
「まてよ」
狂気的な笑みが間近に見える。
「っ……! ーー、ぁっ!」
気がつくと玲は空中にいた。
唐突に腹に走った衝撃に、意図せずくぐもった声が漏れる。
ーー蹴られた。
そう認識した直後には、重力に従って背中を地面に打ち付けられる。
衝撃で口の中が切れ、血の味が滲んだ。
「っぁ、!」
呼吸ができない。
腹を抑えて咳き込めば、コンクリートが血で汚れる。
顔を上げれば、黒井は少し距離を取った場所に飄々とした態度で立っていた。
「な・ん・で・逃げるんだァ? おれはさァ、レイくんと戦えるのをたぁのしみにしてたのにさァ」
ふざけた調子で黒井は言う。
追撃はない。
なんとか呼吸を取り戻した玲は、やっとの思いで上体を起こし、ようやくその場に慎重に膝をついた。手に触れるコンクリートの冷たさが妙に恐怖を増長させる。
まだ、立ち上がるのは辛い。
膝が震えて力が入らない。
一撃の重さは今までに味わったことのないほどで、少し動くだけで骨が軋むような感覚がした。受け身が取れていなかったらと思うとゾッとする。
ーー増してあの刀でやられていたら。
玲はぐらつく視界の中で黒井を捉えた。
「レイくんさぁ、結構強そうじゃん? てか普通じゃないよね? オレさァ、ホールでキミを見つけた時にピントきちゃったんだよねぇ」
「…………」
「なァ、お前なんの能力貰った?」
へらへらと笑いながら黒井は刀をゆらりと構えた。刃の鋒がわずかな月光を反射し、定まらない視界の中で刀身に付いた血の赤だけが鮮明に見える。
「……そっちは、どうなんだよ」
玲が発した声は掠れていた。
のどが渇く。口の中は鉄の味でいっぱいで、緊張と恐怖が心臓そのものを圧迫した。
息が辛く、肺が痛い。
「オレぇ? おれはなァ、うーん、なんだと思う?」
「…………」
「ぁ、ヒントとか欲しい? まァいらないかぁ。すぐわかるよスグ」
黒井はのらりくらりと言葉を続けた。
的を射ない会話。
だけどそれで良いと玲は思った。
ポケットの中の機械に早く早くと念を送る。
もうそろそろ。
[夜間帯へ移行します]
戦闘制限時間がくる。
スマホはいつだって無機質な声で事実を告げる。最悪な通知の時もあれば、それが救いに聞こえる時もある。
「ありャ、もう夜か」
のんきなことを言う黒井の声を聞きながら、玲は肩で息をしつつ、どうにかナイフを握りしめた。
ここにいるのは黒井と自分、2人だけだ。夜間になれば立会人なしでの勝負はできない。勝負になった場合は、仕掛けた方がゲームオーバーになってしまうはず。
だが、次の瞬間には黒井の姿が視界から消えていた。
目を見開いた玲の耳に、通知の初めの一音が飛び込んでくる。その瞬間、疑問を感じる間もなく反射的に身体が動いた。
気配の方向へ身体を向け、ナイフを瞬時に顔の前へ。
直後に響いたのは金属の特有の衝突音。
キリキリと触れ合うひりついた音が、張り詰めた神経を削っているようだった。
そこに混じって、[立会人ありにつき戦闘を許可します]という機械音声。
体重のかけられた刀の重さは右手だけでは支えられず、玲は慌てて左手を添えて黒井の刀を押し返す。
ただ強く歯を食いしばる。
今は耐える他にない。
「へぇ? てっきり油断したと思ったのに」
目の前にある黒井の顔。
刀とナイフが音を立てるのに合わせ、次第に黒井の歪んだ笑みも色濃くなっていく。
ーーこのままだと、押し切られる。
そう判断した瞬間、玲は身体をそらして刀をいなした。
地面に刀がぶつかり不快な音を立てるのを聞き、それと同時に地面を転がるようにして黒井と一気に距離を取る。
立ち上がって体勢を立て直せば、呼吸はバカみたいに荒くなっていた。
「なんで……」
思わず呟く。
どうして、立会人判定がされる。
近くに誰かいるのだろうか。そうでなければ、さっきの攻撃で黒井はゲームオーバーだ。
どうにかナイフを構えながら考える。
立会人の承認もまた、スマホによる自動判定で行われるはずだ。特別申請などを必要とする物じゃないが、でもなんでこんなタイミングで。
他に誰が、どこにいる。
玲がそう思っていると、その思考をよんだように黒井がニヤリと口の端を吊り上げた。
「残念ながラ、ちゃんと立会人はいるんだよねぇ。なぁ、シオリ」
黒井はそう言うと、目線を元きた路地に向けた。たどってみれば、その先に一人の女性が立っている。
黒井と同じような色の黒髪。女性にしては長身で体型は細め。大人びた印象の彼女は急いで走ってきたらしく、かなり息を乱していた。
「おせぇよ」
「あなたたちが、速すぎるのよ」
落ち着いた声で彼女は言う。
玲はぎりりと奥歯を噛んだ。
「お前の、協力者か」
「ピンポーン。オレの幼馴染の暗鳴シオリちゃん。いやー立会人いて良かったねぇ? これで戦いが続けられる」
どこまでもふざけた態度で黒井は言う。
仄暗い瞳は、こちらの絶望を楽しむかのように輝いていた。
意外にもほどがあるだろう。
こんなクソ野郎に仲間がいるなんて、いったい誰が予想できる。
玲はナイフを握る手に力を込めた。噛み締めた唇からまた血の味が滲んでいく。
立会人を務める者はいかなる状況であれ、対戦中の人間に手出しをしてはいけない。
対戦中の人間も同様に、立会人への手出しは禁止。
黒井の仲間……、暗鳴がこちらに攻撃してくることはないのだけは救いだ。
しかし状況が悪いのは変わらない。
むしろさっきまでより悪くなってきている。
玲は無意識に表情を歪めた。
その視界はもう、通常時の半分以下まで落ちてきていた。




