最悪
ほっと一息つく頃には時計は15時を回っていた。
現在地は、中立地帯から東へ2.5kmほどの場所にある5階建てのビルの中。もとはオフィスビルらしいワンフロアが広い建物。その4階の一室に、玲は腰を落ち着けていた。
殺風景なコンクリート壁を眺めながら、息をひそめて休憩をとる。
位置は街の外周に近く、当初の予定よりもだいぶ離れた所まで来てしまった印象は否めない。それもこれも、大勢のプレイヤーから逃げ回りつつ、度々戦闘を繰り返してきたせいだった。
やばくなったら戻ろう、と思っていた中立地帯は、時間をケチっているうちにいつしか遠く離れてしまった。
今日はもう散々である。
しかし中立地帯から離れたことで、自然と周りにいるプレイヤーも減ってはいる。むしろ人口密集地である中立地帯こそ、なるべく離れておくべき場所だったのかもしれない。
ーー……ならもうしばらく、ここにいよう。
玲は思わず額を抑えて天井を見上げる。
昨日からずっと動いてばかりだし、そういえば睡眠時間も少なかった。いい加減腹も減ってきている。昨日なんて、服に入れてきた簡易固形食を二つ口にしたくらいだ。
水は水道で事足りるが、やはり昨日のうちに少しでも食料を交換しておくべきだったかと思う。
そんなことを漠然と考えていると、玲の身体からは次第に力が抜けていく。
へなへなと床に沈みながら、いつの間にかあくびを1つ。
戦闘が続いたあとで気が緩んだのかもしれない。
急激に強まった睡魔がぐらりと頭を揺り動かす。
そうして数分経った頃には、いともたやすく、玲の意識は刈り取られた。
ふわふわとした浮上感に眉をひそめる。
しばらくぼーっとしていると、今度はだんだん、遠のいていた意識が戻ってくる。
「ーー……っ?!」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
玲は慌てて跳ね起きると、高鳴った心臓に息を乱す。
慌てて身につけていたものを確認する。何も取られた感じはない。周りに異変もなく、ひとまずはほっとした。
どうも疲れて寝てしまっていたらしい。
いくらプレイヤーが少ない場所だったとは言え、まるでいないわけじゃない。下手したら死んでいたかもしれないのに。
思った可能性に身震いをしながらスマホを開けば、画面に時計が表示される。
[ 16時57分 ]
かれこれ1時間以上、意識を飛ばしていたということだ。
玲はほっと息を吐いた。眠りは浅い方なので、なにか音が鳴れば基本的にはすぐに分かる。おそらく【警告】も鳴らなかったのだろう。
一応あらためて【ソナー】も見たが、少なくとも近く300メートル以内にプレイヤーは一人もいなかった。その事実に安堵を覚えて、玲はガシガシと頭を掻く。
半径3キロの円内に、プレイヤーは500人程。それでここまで人に遭遇しなかったのは、果たして運が良かったのか。それとも普通のことなのか。
どちらにせよ、これからどうしようか玲は思う。
昼間の経験で分かったことだが、中立地帯周辺には、安全圏を離れないように動くプレイヤーと、そんな弱気なプレイヤーを狙った奴らがゴロゴロいる。
必然的に人口密度は高まり、だからこそ自分も、こんな辺境まで逃げてくる羽目になったわけだ。
ならばしばらく、中立からは距離を取るのが得策だろう。下手に動いて戦いをふっかけられるのが1番のリスクだ。
いっそプレイヤーの殆どが安全圏に入る夜間帯に切り替わるその時に、どさくさに紛れて中立に入るの良いかもしれない。
考えた末、玲は結局、しばらくこの場にとどまることを選んだ。
定期的にスマホでソナーの情報を確認しつつ、なるべく目を閉じた状態で時間を潰す。
そうして18時52分。
玲は静かに立ち上がった。
だがその瞬間に視界が歪み、すぐ壁に手をつくことになる。しばらくじっとしていても、歪みは収まる気配がない。瞬きをしてもまるで効果はなく、視界は狭まり、僅かだがぼやけても来ている。
まずい、と察した。
眠っていた分開始は遅くなるだろうという予想が外れたらしい。昼間の連戦の影響を舐めていた。
本格的に視力喪失が始まったということだ。
玲はあたりの情報を確認したのち、潜伏していた廃ビルを弾かれたように飛び出した。
こうなった以上、とにかく中立地帯まで走るしかない。
屋上での移動は身体だけを使うように見えて、そこそこ視力の影響も大きいことから今回は避けることにする。
今はミスする可能性も高い分、なるべく危険な要素は排除したかった。
できるのは、全力で地上を走ることだけ。
だんだんと歪んで、狭まっていく視界。
少し走って、残りは1.5キロぐらいか。
それくらいなら、中立地帯まではおそらく2分もかからない。本気で走れば、視界が全て失われる前に安全圏に入れるはずだ。
あたりはほとんど暗くなってきている。
視界の悪い中、下手をすれば躓いてしまいそうな荒れた道を走り続け、中立地帯まであと1kmほどの所までたどり着いた。
ここまで他のプレイヤーとの接触はない。
周りに人の気配もなく静かだった。
それが逆に不気味だが、もしかしたら誰にも出くわさずにいられるかもしれないと淡い期待を微かに抱く。
例え出会ったとしても、無視して振り切るつもりでいた。
道を駆け抜け、目的地へと向かう曲がり道に差し掛かる。
その、時だった。
[半径100m以内に、あなたを攻撃対象とするプレイヤーが侵入しました]
唐突に、抑揚のない声がパーカーのポケットから絶望を知らせた。
角を曲がった先に続いていたのは長い長い一本道だ。
だからその音が聞こえた時には既に、相手プレイヤーの姿は視界の中に入り込んでいた。
距離100m。
それでも玲は気づいた時には、腰のナイフを抜く他なかった。見なかったふりをしようと思っても、交錯してしまった視線はもはやごまかしようがない。
それだけ、嫌な人間にあってしまった。
存在だけで肌がピリつく。筋肉が萎縮し、足が竦んだ。
乱雑に切られた黒髪。
左側が不自然に伸びた不思議な髪型。
黒い服。黒い瞳。
三日月型につり上がった口の端と、手に握られた不吉な赤が滴る刀。
目を凝らして見れば、そいつの足元には大量の赤が滲んでいて。地面に転がっている塊は、ーー息を絶やした、人だったもの。
それをゴミのように踏みつけて、男は不気味な笑みを浮かべている。その眼を爛々と輝かせて。
「よぉ! 暫定2位ぃ!」
興奮した声の中に感じられるのは、ただ純粋な狂気だった。それ以外は感じられない。
黒井オウヤ。
考えうる中でも最悪の巡り合わせだ。
手汗が滲む。
足が動かない。
一瞬遅れて自分の状態に気づいた玲は、咄嗟に自身の唇を噛み切った。
硬直した意識を無理やり動かし、直ぐさま男に背を向ける。
「くそかよっ!」
思わずそう吐き捨てる。
血の味に顔を歪め、全速力で走り出した。




