誤算
仮宿に使ったのは中立地帯の廃ビルの一室で、玲は軽く息を吐く。
本当はホテルに泊まっても良かった。
タグ1枚で2日宿泊可能という格安料金だし、現状その程度なら負担にもならない。
プレイヤーに与えられる部屋はそれなりに立派なものらしく、少なくとも、普通に外で生活するよりはずっと良いもののはずだった。
ただ、いつの間にか床で寝ることに慣れていた身としては、ほんの少し気が引けて。玲は迷った末に、結局そこにいくことをやめてしまった。
昨日の夜は、発表されたリザルトをもとに上位のプレイヤーの顔や定義を把握しようと、そこそこ遅くまで起きていた。フィールドの構造を把握するためにかなりの距離を移動していたこともあり、まだ疲れも残っている。
正直眠い。
「何時だ、今……」
欠伸を噛み殺しながら確認したスマホの時計は、朝の8時を少し回っていた。ホーム画面には、夜間を明けてから中立地帯に滞在している間の経過時間が表示されている。
夜間は19時から翌朝の6時までを指すので、今の経過は2時間ほど。これが1日で5時間を超えると、問答無用でゲームオーバーになる。
玲は60%ほどになったスマホのバッテリーを眺めた。
この調子なら、今日一日は充電も持つだろう。なくなりそうになったらタグを使って充電するしかなく、ホテルに入れば充電はその料金に含まれるらしいが、それはまた別の機会でいい。
ちなみに食糧は1枚でおよそ3食分と噂で聞いた。
外も次第に賑やかになってきている。
そろそろ外へ出ようかと思い、玲はスマホをポケットにおさめて立ち上がった。
しかしその時、不意に視界がぐらりと揺れる。
ハッとした時には視野が狭まり、ぐるぐると世界が回り始めた。
そうして一瞬、何も見えなくなる。
まずい、と思った時にはふらつく身体を壁に手を突くことで支え、頭を壁にそっと預けた。
ひんやりとした感覚が肌を刺すようで、一気に意識が覚醒する。
「あー……」
しばらくそのまま目のあたりを抑えて立っていると、失っていた平衡感覚が返ってきて、映る景色もいつもの通りに明瞭になる。
呼吸を整え、壁から頭を離してあたりを見回す。
今は特に問題はない。が、
「よりにもよって、こんな時にか」
これから起こるであろう事態を思えば、苦笑いが自然と溢れた。
ーー運のない。
昨日火狩に対して口にした言葉が蘇る。とんでもないブーメランだ。
玲が昔いた研究所で行われていたのは、人間という種の持つ潜在的な能力を強化することを目的とした、いわば人体実験だった。
全体的な内容は大して聞かされていないからよく知らない。しかしおそらくそれなりに被験者がいて、瞬発力や聴覚、動体視力などを向上させるための実験が行われていたと察してはいる。
実際にどれくらいの人間が強化能力を得たのか。具体的な人数やその能力を、玲は知らない。
ただ、そんな実験に成功した玲の肉体は、運動能力と目に関する能力が、通常の人間よりも大幅に強化された状態にある。
おかげで昨日やったようなビルからビルへの飛び移りも楽々。パワーはそうでもないのだが、身体のバネと柔軟性、特にスピードの面に関しては、人間の枠を超えた力を出すことができる。
昨日の分配フェーズの時もそうだった。
実験によって動体視力が強化されているおかげで、めちゃくちゃなスピードでも問題なく追うことができた。視力が2.0以上なのも、目の能力を人工的に高められているからであって、生まれつきの視力は実はあまり良い方ではない。
そんな身体だ。メリットは計り知れない。
しかし反対に、能力に対する副作用のようなものもいくつかある。
例えば身体は、成長の過程で悲鳴を上げざるおえないほど強烈な痛みを発した。一時期は立つこともままならず、ずっと廃墟の片隅でうずくまっていたほどである。
そちらはここ数年でようやくおさまり、今では基本的に影響もない。
ただ目の方はそうもいかないらしい。
玲の瞳は時々、一切の光を失ってしまうことがあった。
ある時になると不意に視界が狭まり始め、視力が弱る。
じわじわと世界が暗くなり、結果的には何も見えなくなったのち、半日ほど経つとやがて元に戻っていく。
いつ視力がなくなるかは、その日になるまでわからない。
だが今までの経験からして、さっきの視界の狭まりはその前兆のように玲には思えた。
前回同じことが起きてからそう時間は経っていない。
だからこのゲームの最中には起こらないと踏んでいたのだが、どうやら目測が甘かったらしい。
ーー……どうするか。
玲は灰色の天井を睨んだ。
中立地帯にいられる時間は、今日に限って言えば残り3時間もない。夜間に入るまで、まだ10時間は残っている。
これまでの経験上、視力が完全になくなるまでにあと半日ほど猶予があるはずだ。だが、目の使用の強度によっては早まったり遅くなったりするため。油断もできない。
1つだけ確実に言えるのは、今日は戦闘行為を避けた方が良いということ。
それと、なるべく中立地帯からは離れないでいるべきだろう。
内部にいられる時間は、まずい状況になった時の保険として置いておきたい。咄嗟に逃げ込める場所がなくなると、状況として苦しくなる。
となると、今は早く中立地帯を出るべきだ。
そこまで考えると、玲はすぐさま身支度を整え世話になった廃ビルを出た。
外の水道で顔を洗って、ついでにそれを口に含む。冷たく澄んだ水が気持ち良く、つい何度も喉を動かした。
水道は中立地帯をはじめ、フィールドの各地にひっそりと整備されている。食糧の交換手段がなくなっても、万が一の場合水だけはそれなりに手に入る。
このあたりのインフラはよく整えられたものだと思う。この設備の一端でも街の外に与えたらなら、少しは助かる人間もいるだろうに。
無駄な思考をしていることに気づき、玲は出しっぱなしにしていた水道の蛇口を急いで閉めた。
その場で一度伸びをしてから、ぐるりと大きく肩を回す。
そうして気持ち早足になりつつ、中立地帯と戦闘フィールドの境界線を超えた。
だがまあ、こんな日に限って面倒事はわんさかと湧いてくるもので。
「見つけたで~、暫定2位のにいちゃん」
中立地帯近く。
後ろから声をかけられ玲がチラリと振り返ると、そこにはスキンヘッドの男の姿があった。手に持ったバタフライナイフをくるくると回しながら、ヘラヘラとした様子で近づいてくる。
しばらくは逃げるために走っていたが、辿り着いたのは行き止まり。ところどころ入り組んだ作りをしているこの街は、土地勘が得られていない今、適当に走っているとよくビル壁に行く先を阻まれる。
目の前にそびえる壁に、さすがに飛び越えられる高さじゃないかと玲は思った。
「鬼ごっこは終わりや。あんた、【警告】入って直ぐわいから逃げたやろ」
「…………」
めんどくさい、と口からは思わずため息がこぼれてしまう。
確かに【警告】はきた。
何回も何度も。そこかしこから山のように。どれだけ全速力で逃げても、どこへいっても【警告】通知のオンパレード。諦め悪く追いかけてくる奴が一体何人いたことか。
おかげで腰のチェーンはジャラジャラ状態だ。
ノーマルのタグだけでも15枚近くにはなっているんじゃなかろうか。
今日は戦闘しないと決めたはずなのに、どうしてこんなに溜まってしまっているのだろう。別にどれだけあっても困る物じゃないが、不本意なことにも変わりはない。
「……あんたも?」
一応、尋ねる。でも返ってくるのは当然、
「あったりまえやろ! にいちゃんの特定タグ、渡してもらうで!」
という威勢のいい声。
こんなことになるのなら昨日、草壁のタグなんて取らなきゃ良かった。
あのレベルならいつでも取りにいけたのに。
だが、後悔してもすでに遅い。
全数字の特定タグを集めるつもりではいたが、これは少し考えた方がいいかもしれないと玲は思う。そうは言っても、どんな種類にしろタグの数が揃っていけば、必然的に狙われるようになるのは避けられないか。
それならとっとと、覚悟を決めた方がいい。
まあ今日を乗り切れば、残りの期間で視力がなくなる可能性は限りなく低くなるはずだ。むしろ勝負の佳境で起こらなかっただけ良しとするべきか。
そう思って、玲はまっすぐ相手に向かって地面を蹴った。




