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悪人の定義  作者: 黒兎
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ストリートファイトの王様


 街のビル群は腐食が進み、経年劣化で少しずつ崩落が進んでいる。路上には酒に酔った老人が倒れていたり、疲れた大人がふらふらと揺れながら歩いていたり。


 親元を離れ行く当てもない子供達は、そんな大人を相手に徒労を組んでスリをして、ある時は成功に喜び、またある時は返り討ちにされて道端に倒れる。


 沢山の人が泥まみれになって働いて、でもその努力も、時々他の誰かに奪われて。


 誰しも生きるために足掻いている。

 時々は、疲れてそれをやめてしまう人だっている。


 どうにかこうにか、もがきながら、諦めながら。

 それでも気持ちのどこかでは、みんなひとときの安寧を探しているような気がしている。



ーーもし、こんな野蛮な真似をしなくて済む世の中だったら。



 氷上ひかみ(れい)は軽いナイフを片手に握り、対戦相手の大男を見据えた。


 開戦のコールが耳に届く。その瞬間、玲は強く地面を蹴りつけた。


 ほんの一瞬、空がとても近くなる。

 見上げた暗闇に月明かりがぼんやりと見えた。星はなく、壊れかけた街灯がくだらない街を照らしている。


 ヒビの入ったコンクリート壁。周囲で見物している野次馬の集団。呆然とこちらを見ている対戦相手の大男。


 そんな中で一際綺麗に照らされていた銀の刃が、クルクルと回転しながら夜を切り裂いて落ちてくる。 


 スローモーションのようにそれを見つめていた玲は、迷うことなく光るナイフに手を伸ばした。


 狂いなくナイフの柄を右手に収める。

 数年連れ添った無骨なそれは、触れた瞬間に手に馴染んだ。



ーーこの国の栄華は、すっかり過去のものになった。


 科学技術にデジタル技術。その他の分野でも他の多くの国々よりも高いノウハウを持っていたこの国は、20年ほど前の世界恐慌をきっかけに坂を転げ落ちるように荒廃した。


 あくまで他に比べてだが、経済が破綻する以前は格差はさほどないと言われていた国だった。しかし恐慌直後、国民は少数の富裕層と大多数の貧困層に分裂し、社会は混沌に呑まれていく。


 高い技術は富裕層が独占し、貧困層は彼らの下で働きながら、最低限の金と食料での生活を余儀なくされるようになった。

 職を失った人々が社会に溢れ、国への抗議で街は徐々に荒れていく。

 対して国の打ち出した政策はことごとく空振りで、学校などの教育機関も、予算も削がれた果てに機能不全に陥ることに。


 そんな状況は、恐慌から時が経っても未だに打破されてはいない。むしろ悪化の一途を辿るばかりだ。

 至福を肥やす富裕層とは対照的に、貧困層の暮らしは劣悪なまま。薄汚れた街で多くの人が肉体を疲弊させて働きながら、労働に見合わない賃金での生活を余儀なくされている。


 当然、こんな状態では民衆の不満は積もるばかりだ。

 かといって、権力も、金も。武力すらも豊富に持つ富裕層に、下位層の人間が刃向かうことは難しく。しかし不満をぶつけられるものもなければ、手軽な娯楽も得られない。


 そのせいか、世の中は弱者に厳しくなった。

 老人や子供への虐待が増加し、街には家に帰ろうとしない少年少女が増えていった。


 そうしていつしか、行き場のない不満を発散させるため、貧困層の若者の間では憂さ晴らしを目的とした小競り合いが頻繁に起こるようになる。

 

 未だに殺人は厳しく取り締まられる世の中だ。

 だが道端でのいざこざに関しては、経済破綻後まるで機能しなくなった警察……の代わりとして登場した『軍』も口出しせずに黙認している。

 そうでもしないと溜まった不満が爆発してしまうからだろう。


 一時の興奮を求めたストリートファイト。

 使用できる武器は刃物のみ。

 殺しはなし。

 治らないような怪我はさせない。


 そんなルールが次第に暗黙の了解として決まっていき、次第に、勝てば賞品が出るようなトーナメント企画すら現れ始めた。

 一定の参加費を払えば誰でもエントリーでき、優勝すれば金も、その地域での名誉も手に入る。



 しかし氷上玲にとってみれば、名誉はむしろ不要なものだ。


 手にしたナイフをくるりと回す。

 下半身をひねり、相手の顔面を目がけた回し蹴りの体勢へシフト。

 風を切る音が鋭く響く。


 攻撃に反応した相手の身体が後ろへ大きくのけぞったのを確認しつつ、今度は重力に任せて左足を軸に着地。

 間髪入れず、玲は右足で地面を蹴ってまっすぐ相手へ突っ込んだ。


「……っ!」


 反応の遅れた相手が慌てて右ストレートを放ってくるのを身体を低くすることで避け、一度地面に手をつけて足払いで相手を転がす。


 体勢を崩した相手の表情に動揺が走るのが見えた。

 派手な音を立てて男が背中から倒れていく。


 玲は男のマウントを取ると、即座に手足を押さえ込んで、右手のナイフをその喉元へ突き立てた。

 刺さる直前でぴったりと刃先を止めてやれば、相手は、ひっ?! と情けない悲鳴を漏らす。


 あと数ミリ動かせば、このナイフは相手の皮膚を切り裂いて、喉から温かい血を溢れさせるだろう。致命傷にするのは簡単だ。ほんの少し力を加えればそれで終わる。 


 だが、玲にはここで人の命を奪う気など毛頭なかった。

 こんなところで犯罪者になるのはゴメンだと思う。いくら歪み切ってどうしようもなくなった世の中でも、殺人は重い罪に変わりない。


「勝者、玲!」


 審判役に勝者がコールされた瞬間、周囲の人間がわっと湧く。

 玲の耳には戦いの中で遮断していた音がなだれ込んだ。

 歓声、指笛。どれもこれも雑音ばかりだ。

 耳障りで仕方ない野太い声に顔を顰めながら、玲は相手だった男からナイフを外して立ち上がる。


 泡でも吹き始めそうだった男は玲が退けたことで止まりかけていた呼吸を戻し、荒く胸を上下させながら必死になって酸素を求めた。


 死んだ、とでも思ったのだろうか。

 そんなに生きたいと思ったのか。


 玲はよくわからないまま、ぼんやりと男のことを眺めていた。


 あまり強くはなかったと思う。弱かったかはわからないが、特別興味を持てるような存在でなかったことは確かだろう。きっと今後も脅威にはならない。


 ナイフを腰のホルダーに収めながら、玲は審判を買って出ている長髪の男へ足を向ける。


 感情はとことん凪いでいた。高揚感も何もない。

 肌を撫ぜる風が僅かな興奮もなかったことにしていくようで、戦っていた時間のことも、不思議と曖昧に感じられた。


「うへぇ、流石は"(うつろ)"。すげえ戦い方」


 ふと、そんな声が耳に入る。


「あいつ本当に人間か? 見た目も正直変だしさ」

「バケモンみてぇだよな」

「違いねぇよ。案外宇宙人とかだったりして」


 そんな会話の後には茶化すような笑いが続いた。


 玲は思わずそちらに目線を向けていた。それに気づいた2人組は、肩を大きくビクつかせて目を逸らす。

 睨みつけたつもりはないが、周囲から見ればそうだったのだろうか。目つきが悪い、と話されていたのを聞いた記憶を、玲はぼんやりと思い出した。


「おっ、い。もう行こうぜ……」

「おぅ……」


 彼らはそそくさと野次馬に紛れて姿を消す。

 玲自身、特に何か言うつもりはなかった。できるならこの場所からとっとと抜け出したいのが本音である。


 審判の男の前に立った玲は、無言で右手を差し出した。

 ゆうに190センチはありそうな審判に対し、玲の身長は170ちょっとしかなく、必然的に見上げる形になっている。

 しかし玲がその赤い瞳を向けた瞬間、大男はまるで自分が見下ろされているかのように顔を引きつらせた。


「優勝おめでとう」


 ああ、と素っ気なく玲は答える。


「これが、今回の賞品だ」


 そう言って渡されたのは紙袋と薄汚れた一枚の紙。

 袋の中にあるのは、この辺りでバイトしたとしたら大体1週間分はあるだろう額の金だ。いつもならもう少し金額が乗るところだが、今回ばかりは仕方がない。


 今日の目玉は金ではなかった。

 問題はこの紙切れの方だ。


 指先で紙の感触を確かめてみる。存外分厚く、破れにくい仕様をしているのはわかった。

 この時代には滅多に出回らない材質で、少なくとも、お遊びで出回るようなものではない。

 

 しかし念には念を入れて、玲は確認のため審判の男を睨み上げた。


「ホンモノか?」


 尋ねれば、男は慌てたように声を張る。


「ほっ、本当にホンモノだ! 間違いなく、"あのゲーム"の参加証だ!」


 間違いない! と念を入れられ、玲はふっと息を吐く。

 紙に書かれた文字を確認しながら、ひとまず受け取った金をパーカーのポケットに突っ込んだ。

 

 実際、いくらこの男に尋ねたところで、この紙が本物かどうかの判別なんてつかないだろう。

 そもそも"あのゲーム"自体が眉唾ものだ。


 なんにせよ、当面の生活費を手に入れたことには満足した。

 立ち去ろうと踵を返し、玲は人混みの方へ足を向ける。一歩足を踏み出すたび、自然と道は開けていく。


 怯えたように後ずさりされるのは、決して気持ちのいい光景ではなかった。ただ、声を出さずに済むことだけは楽だと思う。


「なっ、なぁ!」


 呼びかけられて玲は振り向く。

 審判をしていた男は何故か緊張したような顔をしていた。


「お前、本当にそのゲーム参加するのか」


 こわばった声で尋ねられ、玲は少し考えるふりをする。

 本当に参加するかなんて、何を今さら言っているのか。そう思うと、少し笑えた。


「まあ、……気が向いたら」


 玲はそれだけ答えて踵を返した。

 吐いた言葉は嘘だった。 


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