SCENE-004 >> フェイジョア
大きな建物をあとにして、次に連れて行かれたのは、こぢんまりとした一軒家。
「この街での仕事のために借りた家だ。寝に帰るだけだったから何もないが、今日のところは我慢してくれ」
そう言いながら、私を抱えたままのジルが向かった先は浴室で。
「言っておくが、ロリコンではないからな」
ジルの腕からようやく下ろされた私の体から、服の代わりに巻きつけられていた布が取り上げられる。
「わたし、きたない。わかる」
「怖がらせるつもりはないが、若かろうと老いていようと関係ないんだ」
素っ裸に剥いた私をシャワーの下に押しやると、ジルも上着を脱ぎ捨てた。
(今、フィオレならなんでもいいって言った?)
タイル張りの壁にぴたっ、と背中をつけた私を、苦笑いしたジルがひっくり返して壁と対面させる。
後ろでかちゃかちゃと音がしている間、どうすればいいのかわからずタイルの目地を見つめていると、ブーツを脱いだジルの裸足の足音がひたりと間近に迫った。
「もう少し上を向いて、目は閉じていた方がいい」
顔の横を通って額に当てられた手の平が、私の首を仰け反らせる。
言われたとおりに目を閉じると、私の額から離れていった手が壁に伸びて、シャワーのコックを捻る音がした。
融通の利かないシャワーが私の頭よりずっと高いところから吐き出す水は最初から温かくて、冷たさに身構えていた体からほっと力が抜ける。
(気持ちいい)
打ち付けるお湯に体が温められていくのと、甲斐甲斐しく髪を洗ってくれるジルの手が気持ち良くて。立ったままうとうとしはじめる頃には、素っ裸ですぐ後ろに立っているのかもしれない男のことなんて、すっかり気にならなくなっていた。
ぬるめのお湯でふやかした体から、一皮剥がす勢いでたまった垢をこそぎ落としていったジル。
それまで淡々と、あくまで作業的に私の体を洗っていた男の手が、ふと止まる。
「ジル?」
相変わらず、壁の方を向いたまま。体の前の方を自分で洗っていた私が肩越しに振り返ると、びしょ濡れの色男と視線がかち合った。
水も滴るなんとやら。
普通に立っていても人目を惹くような美丈夫が、傷一つない紫水晶をそのまま嵌め込んだような紫眼にどろりと欲を灯して私のことを見下ろしている。
今まで普通にしていたのに、いったい何がジルの琴線に触れたのか。
はて、と首を傾げた私の体に、ジルの筋肉質な腕が巻きついた。
「すまない」
収まりよく抱きかかえられると、身長差のせいで私の爪先はぷらんと宙に浮いてしまう。
「あやまる、なに」
「あなたに無体なことをするつもりは……だが、あなたから他の雄のにおいがするのは耐え難い」
機嫌の悪い獣のよう喉の奥でぐるぐると唸るケダモノの舌が、剥き出しのうなじを狙いでも定めるようべろりと舐めた。
体を支えていない方の手が膝近くから太腿の内側を撫で上げて、足の付け根に触れてくる。
「こんなに洗ってもにおいがとれないんだ。ここから――」
恥丘をなぞり、溢れた蜜にまみれた男の指を、これまで散々いいように使われてきた下の口はすんなり呑み込んだ。
「全部掻き出して、俺のにおいを上書きしてしまいたい」
(切羽詰まった顔で、何を言い出すかと思えば)
脳が痺れるほど甘い声で最低な言い訳を吹き込まれたのがおかしくて、思わず笑ってしまう。
「わたし、どれい。すき、つかう」
「違う。あなたは俺のフィオレだ。奴隷として扱うつもりは――」
「ごしゅじん、わたし、つかう。わたし、ごはん、もらう。ごしゅじん、つかう、ない。わたし、ごはん、ない。……もうなれた」
奴隷紋の契約があってもなくても、ごはんをくれる人に逆らっていいことはない。
(手足をもいだ魔物とヤらされるより、よっぽどいいわ)
用が済んだらごはんが欲しいと浅ましいお強請りをして、私はいつものように、どうぞお好きなようにと体から力を抜いて目を閉じた。
「違うんだ……」
いい歳した大人が泣き出しそうな声を出したって、知らん顔。
存在を主張するよう押しつけられていた熱が離されて、濡れた体を拭き上げられても、抱きかかえて運ばれた先がベッドのある部屋だったから、「ジルは奴隷を寝床に上げても平気なタイプなんだ」としか思わなかった。
ベッドの上にそっと下ろされて、されるがままに投げ出した手を持ち上げられる。
「慣れたなんて、哀しいことを言わないでくれ」
私の手に額をつけて項垂れる男の姿は、ついさっきまでと別人のよう小さく、しょぼくれて見えた。
「俺のフィオレ。この愚かな獣を許してほしいとは言わない。ただわかってくれ。あなたはフィオレで、俺はあなたのベスティアだ。あなたではなく、俺こそがあなたの奴隷なんだ。愚かな獣が何を口走ろうと、あなたが気にかける必要はない。あなたはただ、自らの望むところを口にするだけでいい……」
すっかり冷たくなって震える手に握られた指先は、私がほんの少し手を引く――そういう素振りを見せた――だけで、簡単に解放される。
「…………」
私がよいしょと体を起こしても、ベッドの下に跪いたジルは背中を丸め、項垂れたまま。
「ジル」
シャツを引っ張られてようやく顔を上げたジルの目は、深い後悔に沈んでいた。
「こっち、くる」
「だが……」
「いうこと、きく、ない?」
さっきの今で、私の要求をはねつけられるはずもない。
戸惑いも顕わにおそるおそおるベッドの上へ乗り上げてきたジルの前で、私は着せられて間もないシャツの裾をたくし上げた。
今更羞恥もなく晒した下腹部には、導師の元へ奴隷として売られて間もない頃に施された魔法刻印と焼き印が、今でもくっきりと残っている。
「どれい、やきいん、よぶ、ばんごう、ナナ。わたし、なまえ、ない。むかし、なまえ、わすれる。ジル、わたし、なまえ、つける」
私のたどたどしい言葉にじっと耳を傾けていたジルが、はっと息を呑む。
「俺が、あなたに名付けを……?」
久し振りに話しすぎて、そろそろ口が疲れてきた。
私はうんと頷いて、たくし上げていたシャツを戻した。
「ジル、なまえ、つける。わたし、ジル、ゆるす。ジルの、フィオレ、なる」
正面からひたと見据えたジルの瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいる。
「だが、それは……」
「ジル、わたし、フィオレ、いる、ない?」
次の瞬間、私の体は目にも留まらぬ速さでジルの胸に抱き込まれていた。
「ジルっ、くるしい!」
ぎゅうぎゅう締め上げてくる腕が緩んでほっと息を吐くと、ベッドの上でばっさばっさ、忙しなく揺れる尻尾の音が耳につく。
「あなたを、フェイジョアと……そう呼んでもいいだろうか」
すんなり出てきた名前の響きは、不思議と耳に馴染んだ。
「フェイジョア、いい。ジル、よぶ、わたし、フェイ」
「我が花。フェイジョア。――俺のフェイ」
「大切にする……」
絞り出すような震え声に、是非そうして欲しいと頷き返す。