SCENE-003 >> ジルベルト
壊れやすい硝子細工でも扱うよう気遣わしげに運ばれているうち、だんだんと瞼が重くなってきて。
「眠れるようなら眠ってくれ」
俺があなたを守るから、と吹き込まれた言葉を鵜呑みにしたわけではないけれど。
抗いがたい眠気に、気付けば眠りに落ちていた。
「それでそのまま連れてきたっていうのか!?」
びりびりと空気を震わせる、誰かの怒鳴り声で目が覚めた。
(今日は不機嫌な日だ)
いつもと同じ、憂鬱な目覚め。
八つ当たりで蹴り飛ばされる前に自分から起き上がろうとした体が、思うように動かせなくて。どうしてしまったんだろうと強張る体を、誰かの手が宥めるように撫でさする。
「大丈夫だ」
落ち着いた男の声に、そういえばそうだった……と、力が抜けた。
(あの男はもういない)
だからもう、大丈夫?
――そうだよ。
すっかり脱力した体を抱え直される。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい私の体は、相変わらず男の腕の中。ソファに腰を下ろした男の膝へ横向きに乗せられ、大きな布に包まれた足を座面に投げ出していた。
(裸足でも土足っていうのかな)
伸びきっていた膝を曲げ、足を引き寄せて居住まいを正そうとすると、私よりも後出しで動いた男の腕がさっと膝裏に回り、そのまま体を持ち上げられる。
「報告は以上だ」
私を抱えてすくっ、と立ち上がった男の視線の先には、大きな机を挟んでもう一人、別の男が座っていた。
「おい待て、ジルベルト!」
書類が山と積まれた机の向こうで、見知らぬ男が声を荒らげる。
その剣幕に思わずひぇっ、と首を竦めた私のことを庇うよう、ジルベルトと呼ばれた男はもう一人の男に背中を向けた。
「追加の仕事を受けるつもりはない」
引き止める声をぴしゃりとはねつけて部屋を出る。
行儀悪く足で閉められた扉をもう一度開けてまで、部屋の中に取り残された男が後を追いかけてくることはなかった。
もたれていろとばかり押しつけられた肩口に遠慮なく齧り付いて、男の肩越しに後ろを眺めることしばし。
廊下の角を曲がり、出てきた部屋の扉が見えなくなったところで私はようやく体を戻し、後ろを見ている間もしっかりと体を支えてくれていた腕の中でくてっ、と体を脱力させた。
「怖がらせたか?」
怒鳴った本人でもない男から心底すまなそうにされても、困ってしまう。
めいっぱい首を横に振ってから顔をあげると、紫水晶をそのまま嵌め込んだような紫眼が心配そうに私のことを見下ろしていた。
(本当に大丈夫なのに)
ただ少し、驚いただけ。
「なまえ、ジル? ジル、よぶ、いい?」
「あぁ、もちろん」
しっかりと目を合わせてお伺いを立てると、私が怖がっていないことに納得がいったのか、余所見歩きをしていたジルの視線が前へと戻る。
ジルの足取りは迷いなく、大きな建物の中をどんどん進んでいった。
「ジル、まつ、ない、いい?」
「……あぁ、ハイゼンのことか。必要な報告は済ませてあるから、大丈夫だ」
「ほうこく、なに」
「調査を依頼されていた、本当は奴隷ではないのに奴隷として売られた子供たちの行方について」
子供だからと適当にあしらうのではなく、まともに取り合ってくれるジルが不思議で、その横顔をじっと見つめていると、綺麗な紫眼がもう一度、気遣わしげに私を見下ろす。
「みんなしんだ」
ほんの短い間とはいえ、同じような立場に置かれていた同朋。
たった一人、私だけを残して皆殺しにされた子供たちへの複雑な感情なんてものはない。
「あなたが生きている」
ただ一人、生き残ったことへの喜びや安堵さえ。
「わたし、さがす、ない」
「確かに、あなたと特徴が一致する子供のことはリストになかった」
「かえる、ない。……かえりたく、ない」
どう考えても、あのまま死んでおくのが一番簡単で、楽だったのに。どうして逃がしてくれなかったのか。
これから先のことを考えるだけで憂鬱になった私がふて腐れて足を揺らしても、私のことを両手に抱えているジルは小揺るぎもしなかった。
「それなら、ここにいればいい」
「ここ?」
「俺の腕の中に」
まだ成人してもいない子供相手に何を言っているのだろう、この男は。
「……ロリコン?」
思わず胡乱な目つきで見上げると、ジルは苦笑い。
「俺はベスティアで、あなたはフィオレだ。それはわかっているのか?」
正直に首を横に振る私を見下ろして、「まずはそこからだな」と目を細めた。
「ベスティアと呼ばれる俺のような獣人は、他の獣人とは比べものにならないほど強い。その代わり気が狂いやすいんだ。それを哀れに思った花女神の慈悲がフィオレ。あなたという花を守ることで、俺という獣は力に狂うことなく、いつの日か人として死ぬことを許される」
誰ともすれ違わないまま廊下の端まで行き着いて、大きな窓から身軽に建物の外へと飛び出したジル。
暗い路地に音もなく着地して、なんてことないような顔で寝静まった夜の街を歩き出す男の頭には、立派な三角耳が生えている。
「ジル、わたし、ひつよう? すてる、ない?」
「俺にはあなたが必要だ。絶対に捨てたりしない」
その耳はどう見てもイヌ科のそれなのに、甘ったれた猫のよう頬をすり寄せてくるジルの後ろでは、ふさふさの尻尾が揺れていた。
「だからどうか、この哀れな獣を見捨てないでくれ」