6:転職しました
退任直前に、そんないざこざはあったものの。
おおむね平穏に、クシェルは猶予期間を終えた。そして神殿長自筆の紹介状と地図と、少量の荷物を片手に神殿を後にする。身に着けている服は、過去に両親から贈られたドレスのため、少し動きづらいが。
それでも、クシェルの足取りは軽やかだった。
汽車を乗り継ぎ、彼女がたどり着いたのは。
国の西部にある地方都市の、サイジェントだった。
河川が近く、水路が市内を縦横無尽に走っており、水質は豊富。それを活かし、街の南部には綿花畑が広がっている。
また隣接都市では繊維工業が発展しており、その街のベッドタウンでもあるという。
つまりは、どこにでもありふれた、何の変哲もない田舎だ。
こんな地方の食堂の主と友人なんて、神殿長の人脈は広い。広すぎる。
ほぼ神殿で暮らしているはずなのに、どこで広げているのか。
一方のクシェルは、十三歳まで伯爵家で、厳しくもぬくぬくと育ち。
そして十三歳から現在までは、神殿で慎ましくもぬくぬく育ったため。
田舎とはいえ、街の雑然とした空気に少し酔ってしまった。
四方八方から人が歩いてくることに、まず脳が追い付かない。
そして人混みを避けてふらふら歩くと、今度はいつの間にか車道に躍り出ており、あやうく轢かれるところであった。
しかし元来がめげない上に物怖じしないクシェルであるため、自分を轢きそうになった運転手に道を訊き、どうにかこうにかお世話になるマルツ亭にたどり着くことができた。
「お嬢ちゃん、ひょっとしてここで働くのかい?」
道を教えてくれた上、なんと送ってくれた運転手のおじさんに、クシェルはこっくりうなずく。
「はい。前職でお世話になった人に、紹介してもらって」
「そうかい。俺もよく、この店来るんだよ。ビーフシチューが特に美味いんだよな」
「お、いいですね!」
クシェルは肉好きだった。思わず声のトーンと声量が持ち上がる。
うきうきした彼女の姿に、おじさんもにんまり。
「そうだよ、いい店なんだよ。ま、頑張れよ。お嬢ちゃんに、精霊様の加護があるよう祈ってるよ」
「はい、ありがとうございます。おじさんにも、ご加護がありますように」
おじさんの激励を受け、クシェルは笑顔を返して車を降りた。
そして店に向かう。
マルツ亭は、黄色いレンガ造りの二階建てだった。緑の三角屋根との、コントラストが色鮮やかだ。
飴色の扉を、三度ノックする。すぐさま、奥から
「はいよ」
と威勢のよい声がする。
そこから数秒置いて、がちゃり、と扉は開いた。
開いた扉から顔を見せたのは、スヴァルトと甲乙つけがたい眼力の女性だった。
茶色い髪を一つに束ねたその女性が、じろりとクシェルを見据える。
「なんだ、やけに礼儀正しい客だと思ったら……ネリエの寄越した子かい?」
ネリエとは、神殿長の名前だ。
はい、とクシェルは臆することなく首肯。
「クシェルと申します。ここのご主人の――」
「ああ、ラータだよ。それよりあんた、顔色が悪いね」
目を細めて、ラータは低い声でうなる。怒っているのだろうか。
しかしやせ我慢をしても仕方がない、とクシェルは再度素直にうなずいた。
「はい。人混みに慣れていないもので、ちょっと人酔いしちゃったみたいです。でも、お仕事は問題なく出来ますから」
ふん、と鼻を鳴らして、ラータは扉を大きく開けた。そしてあごをしゃくる。
「初日から働かせる気はないよ。今日はゆっくりするといいさ」
あれ、いい人なのかもしれない。
いやいい人だろう。気が付けば荷物だって持ってくれているのだ、いい人に違いない。
「私の荷物です、持ちますよ」
「体調悪いんだろ、無理すんじゃないよ」
前言撤回。めちゃくちゃいい人だ。
さすがは神殿長の友人である、としみじみクシェルは納得した。
「ありがとうございます」
だから、素直に礼を言った。再び、ふん、とラータは鼻を鳴らす。これは照れ隠しだろうか。
「ところでお嬢ちゃん」
「クシェルで構いませんよ」
「じゃあクシェル。昼飯時からちょっと過ぎたが、腹具合はどうだい?」
肉の薄い腹を撫で、クシェルは考える。
そういえば初めての長旅に浮かれていたため、途中で食事をするタイミングを失していた。
「言われてみれば、減ってるかもです」
「顔色悪いが、食欲はあるのかい?」
「はい、それなりに」
「なんだ、なかなかタフな子だね」
そこでニッとラータが笑った。無愛想な上に人相も悪いが、その笑顔は力強く魅力的だった。
「残り物のシチューでよけりゃ、食べるかい? といっても、巫女で貴族のお嬢ちゃんだった子には、雑な味かもしれないけどね」
「いえ。ぜひ、食べたいです。さっき車に乗せてもらったおじさんからも、ビーフシチューが美味しいと聞きました」
笑顔でそう応じると、ラータが目を見開いた。きょとんとしている。
「車って、誰のだい?」
「通りがかりの、私を危うく轢きそうになったおじさんに、乗せてもらいました」
クシェルの回答にぶはっ、とラータが噴き出した。
「タフなうえに大胆だね、あんた! 気に入ったよ!」
そう言って笑いながら、バンバンとクシェルの背中を叩いた。どちらかというと、彼女の方がタフネスの塊である。
ちなみにおじさんが力説した通り。
厚切り肉がとろけるまで煮込まれ、たっぷりとチーズの乗ったビーフシチューは、絶品であった。
その味に舌鼓を打ちながら、クシェルは確信した。
神殿長がラータと顔なじみになったのは、きっと、このビーフシチューがきっかけであろう、と。
神殿長もなかなかの食い道楽なのだ。