29:二人の特権
あの夜――スヴァルトの髪は、酔って浮かれる同僚によって、もみくちゃにされていた。
そんな乱れた頭や、耳まで赤くなった顔があまりにも可愛くて。
更に人生初めての告白が、とても嬉しくて。
彼を自室に引き入れ、キスをしたのだった。
かなり強引に、押し倒してまで。
そしてキスの雨を降らせた後、スヴァルトに
「貴女が欲しいです」
と乞われた。
真っ赤な彼のこの嘆願に、ますます嬉しくなったクシェルは
「うん、いいよ。あげる」
と、お菓子を分け与えるような気軽さで、了承したのだった。
――これは一体、どこの痴女の話だろうか。ああ、自分のことであったか。
記憶が一気に蘇ったことで、クシェルの全身も真っ赤に染まる。
「その節は……本当に、ごめん。何やってるんだろうな、私」
大慌てで、スヴァルトは首を振った。
「いえ! 僕もそのまま、ずるずると関係を結んでしまったので……!」
「いや、そりゃ、告白した相手に押し倒されて、しかもキスまでされたら、誰だって手を出すよ。私だって、そうする」
「ですが、貴女は巫女でした。自制すべきでした」
「いやいや、でも――」
抗弁しようとして、ぐっとこらえる。
これでは駄目だ。平行線ではないか。そう考えたのだ。
それにお互い、この一件で謝罪はしないはずであった。
その約束事も思い出し、クシェルは少しぎこちなく笑う。気恥ずかしさが、そうさせた。
「それじゃあ、共犯というのはどうだろう?」
「共犯……?」
この提案に、スヴァルトはキョトンとなる。
「うん、共犯。私は君の告白が嬉しくて、キスした。君もそれが嬉しくて、その……したわけだから。お互い様の共犯だ」
真っ赤な顔のスヴァルトは、落ち着きなく視線をさ迷わせたものの、ややあってうなずいてくれた。
「……そう、ですね……貴女さえ、お嫌でなければ、ぜひ」
「嫌なもんか」
即座にそう言ったクシェルは、一瞬ためらったが、彼の右手を取った。スヴァルトも拒まず、くすぐったそうにそれを受け入れる。
戦う者特有の、無骨で荒々しい手を撫でながら、クシェルはぽつりぽつりと続けた。
「グラナス殿下に抱きつかれた時は、気持ち悪かった。反吐が出るかと思った」
「そう、でしたか……申し訳ありません」
「ううん。君は悪くないし、大事なのはそこじゃないんだ」
クシェルは声に力をこめる。
「殿下はそんな有様なのに、君に触っても気持ち悪くない――どころか、ドキドキするんだ。嬉しいんだ」
「クシェル殿……」
「私もきっと、君のことが好きなんだと思う」
そしてスヴァルトの、鋭い青い瞳を見上げた。見上げながらつい、へへ、とはにかんでしまう。
見つめ合った途端、スヴァルトは泣き出しそうな顔になった。
その表情の意味を問う間もなく、クシェルは彼に抱きしめられる。背中に回った、温かな手が、心地よい。
「……夢、みたいです」
かすれた声でささやく彼に、クシェルはつい微笑んだ。
「夢オチにされると、私が困ってしまうよ」
「すみません。友人になれただけで、本当に満足しておりましたので」
謙虚すぎるだろう、とクシェルはまた笑う。
「君は欲がないんだな」
「いえ……その、そうでもないんです」
「え? ――わっ」
両腕を、クシェルの脇の下に回し入れたスヴァルトが、彼女を自分の方へと引き寄せる。そして、膝の上に乗せた。
真正面にある彼の顔と、至近距離で見つめ合い、クシェルは再び全身を赤く染めた。
しかし彼女を抱き寄せた張本人も、同じく真っ赤になっている。なのでその強引さを責める気には、到底なれない。
赤い顔のまま、二人はこつん、と額を合わせた。伏し目になったスヴァルトがつぶやく。
「本当はもっと、貴女に触れたいんです。殿下のことを、上書きできるぐらい」
クシェルはその願望に、はにかんだ。
これは、いわゆる嫉妬というものであろうか。
案外彼は、ヤキモチ焼きなのかもしれない。
だが、そんなところも好きだと言えた。
「うん……触って?」
だから言葉と共に、自ら彼の頬に手を添えて、その気持ちを伝える。
スヴァルトはおずおずと、自分の頬を撫でる、クシェルの手を取った。二人の指が絡まる。その指先に、クシェルはきゅっと力を込めた。
どちらともなく、互いに目を閉じる。そして、唇が触れ合った。
最初はためらいがちに、しかし、徐々に口づけは深くなっていく。背中に回されたままの彼の左腕が、彼女の背中を撫でる度に甘い吐息がこぼれた。
それすらも、スヴァルトに絡めとられていく。
しばらくして、二人の唇が離れた。クシェルは茹だり、とろける頭のまま、間近にあるスヴァルトを見つめる。
いつも鋭い瞳が、歓喜と口づけの余韻で潤んでいる。もっともクシェルも、似たり寄ったりの表情である自信があった。
その余韻が少しずつ遠ざかるにつれ、気恥ずかしさがこみ上げてくる。
クシェルはおもむろに、スヴァルトとつないでいない左手を持ち上げた。次いで彼の黒髪を、がしがしとかき回した。完全なる照れ隠しである。
青い瞳が、驚きで丸くなる。
「クシェル殿っ?」
ぼさぼさ頭になって、目を白黒させる彼の額に、クシェルはそっと唇を当てた。そして笑う。
「スヴァルト君は、髪を下ろしてもかっこいいと思うんだ」
頬をうっすら赤らめて、スヴァルトもはにかむ。クシェルの大好きな笑顔だ。
「ありがとうございます……でしたら、いつも下ろしましょうか?」
「うん――いや、やっぱいい」
即座にうなずき、しかしすぐに首を振る。
「へ?」
矛盾だらけのクシェルに、スヴァルトがぽかん、と口を開けて呆ける。
平素になく腑抜けた顔へ、クシェルは真面目くさった顔を作って、力説する。
「この無防備なスヴァルト君を見られるのは、私だけの特権にしておきたいんだ」
「……そんなものが、特権になるんですか?」
「なるよ」
自信満々にうなずくと、スヴァルトはむずがゆそうな表情を浮かべた。そしてぽふん、と彼女の肩にあごを乗せる。
「でしたら、僕にも特権をください」
「いいよ。どんな特権だい?」
「貴女の恋人を名乗る特権です」
きちんと筋を通したいらしい。それにしても……やはり彼は、クソ真面目だ。
「今更だなぁ」
そうつぶやいて、スヴァルトの濡れた髪を撫でて、クシェルは笑った。
「たしかに、今更かもしれませんね」
彼女の肩に顔をうずめたまま、スヴァルトも笑う。
二人の手は、今もつながったままだ。




