28:お風呂上がりの
後に知ったことだが、スヴァルトはクシェルと別れた後、一度マルツ亭に引き返していたのだ。
翌日は電話当番だったことを思い出し、来店が遅れる旨を伝えようとしたらしい。
しかしそこで、クシェルが未だ店に戻っていないことに気付き。
おまけに、地面に転がるバスケットを見つけ。
またその時、店の裏手からクシェルの大声が聞こえて来たため、慌ててそちらへ向かった、ということだった。
短気は損気とよく言うが、案外怒ってみるものである。
――などということを、クシェルはシャワーを浴びながら考えていた。
そして冷静になればなるほど、グラナスに触れられた部分がじわじわと、毒か何かに侵されているような感覚を覚えた。
服越しとはいえ、肌にあの男の手の温度や感触が残っており、ひどく不快なのだ。
「うう、バカ王子め。一度死んでしまえ」
思わず不敬度満点の愚痴をこぼし、背中や腰を、タオルでごしごしこする。こすり過ぎて、若干皮膚がひりついたものの、痛みが不快感を覆い隠してくれているような気分にもなった。
そして、浴室を出た。着替えはラータが用意してくれていたので、ありがたく着る。
タオルで髪を拭いながら、二階の居間をのぞくも無人だった。ラータは下の店舗にいるのだろうか。
リズミカルに階段を下り、食堂を見る。
そこにもラータの姿はなく、代わりにスヴァルトが、所在無げに椅子に座っていた。風呂上がりのためだろう、前髪も下ろされており、普段より幼い。
また服も、いつもの青い制服ではなく、農家のおじさんが着ていそうなオーバーオール姿である。
クシェルはとりあえず、スヴァルトに尋ねた。
「スヴァルト君、ラータさんは?」
「自分がこちらへ来るのと、入れ違いで出て行かれました。グラナス殿下へ、お灸をすえて来ると仰っていました」
「なるほど。ところで、なんだけど」
じっと、使い込まれたオーバーオールと、赤いチェックのシャツを見つめる。スヴァルトは、そんなクシェルのどんぐり眼を見た。
「はい」
「その服は――」
「お風呂をお借りしたお宅で、用意していただきました」
「そっか」
「……似合わないのは、重々承知ですので」
「……そうだね」
否定しようかとも思ったが、本当に似合っていなかったので。素直に首肯する。
すると、スヴァルトは苦笑いになった。
クシェルも笑い、彼の隣に椅子を運ぶ。そして、そこに座って彼を見上げた。
「君も無茶するよな。一緒に、水路に落ちてくれるなんてさ」
スヴァルトは何も答えず、無言だった。
しかし怒っている様子はなく、何かを深く考え込んでいるようだった。クシェルも黙って、彼の反応を待った。
視線を手元に落とし、ようやく彼は口を開いた。
「自分は……貴女のことを、ずっと想っておりました。だから、クシェル殿に何かあってはと思い、咄嗟に動いてしまいました」
頬杖をついて反応を待っていた、クシェルが目を見開いた。
彼女はそのまま、石化したかのように固まる。スヴァルトも、緊張によって強張った顔で反応を待った。
時計の秒針が三周したところでようやく、クシェルは我に返った。
「え……冗談、ではなく?」
こくり、とスヴァルト。
「はい。冗談ではなく。いくら据え膳をされても、好きでもない方を抱くほど、僕は馬鹿ではありません――いえ、恋い焦がれた方を、酔いに任せて抱いたんです。こちらの方が、よほど馬鹿ですね」
後半は、自嘲混じりだった。
「そう言われれば、そうかもな」
クシェルもつい笑った。そして、二人で顔を見合わせて再度笑い合う。
「それだったら、変に『責任を取りたいから』なんて言わずに、プロポーズしてくれたらよかったのに」
ちょっと恨みがましく、そんなこと言ってみると。
スヴァルトは困ったように眼鏡を押し上げて、眉間のしわを深くする。
「すみません。素直に『ずっと好きだった』と伝えても、本気と捉えていただけないかと思いまして」
「ああ。それは、言えてるかも」
言われてみればそんな気もするので、大人しく同意した。
彼はクシェルのことを、よく見ているし把握している。
本人よりも、彼女のことを分かっているかもしれない。
「それに実は……その、告白したのは、初めてではないんです」
それこそ初耳だ。クシェルの大きな瞳が、ぱちくりまたたいた。
「え、いつの間に?」
「あの夜、貴女の部屋の前で、つい」
それは覚えていないわけだ。
なにせ未だに、記憶も朧気なのだ。
謝罪の気持ちも込めて、クシェルはがくりとうなだれる。
「ごめんよ……全然覚えてなかった」
「いえ。どさくさ紛れに言った、僕が悪いんですから」
頭を下げ続けるクシェルを起こしながら、スヴァルトはちょっと寂しげに微笑んだ。その笑みに、良心がしくしく痛む。
しかしこの問いも、せずにはいられなかった。
「それでその……私は、なんて答えたんだい?」
ぎくり、とスヴァルトの肩が強張った。
どんな変な返答をしたんだ、とクシェルもびくつく。
「まさか、こっぴどく振った……のか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「それじゃあなんて言ったんだい?」
「言ったと言いますか、その……」
「その?」
スヴァルトの顔と言わず、全身が赤くなる。そしてか細い声を発した。
「キ、キスを……」
「あ」
その一言で、全てを思い出した。




