26:あんな男
不思議なものだ。同じ人間だというのに。
スヴァルトの手を握った時も、手を握られた時も――いや、隣で目覚めたあの朝も、嫌悪感など一切抱かなかった。
むしろ先程など、ふわふわと夢心地であった。手から伝わる温度が、感触が、スヴァルトの笑顔が、全てが嬉しかったのだ。もっとずっと、つないでいたかった。
それが今はどうだろう。グラナスには触れられただけで、心底不快になった。ただただ気持ち悪いのだ。
もちろん恐怖心も、あるにはある。
しかし元来が物怖じしないクシェルであるから。
ここで、ただ黙って震えるほど貞淑ではなかった。
代わりにただ黙って、思い切り腕を振りかぶる。歯も食いしばり、息を吸い込む。
グラナスの顔を見据えながら、鋭く息を吐き切ると同時に、その頬を全力でぶった。
パン、と小気味のいい音が、裏路地に響く。
だが文武両道と自画自賛する通り、彼は体を鍛えているようで。クシェルの華奢な腕による一撃など、取るに足らないものだったようだ。平然としている。
痛がるどころか、彼は更にニヤついた。
「さすがは巫女殿だよ。だが俺は、気の強い女を啼かせるのも、好きなんでな」
この不屈かつ、思い上がりも甚だしい精神には、さすがのクシェルもゾッとした。
ネリエが彼に手を焼いていることも、今更ながらに痛感する。これが甥では、心労に事欠かないだろう、と。
恐怖心から思わずしばしの現実逃避をするクシェルを、グラナスは更に手繰り寄せる。
そして彼女の耳元で、甘くささやいた。
「心配するな。あんな陰気な男よりも、もっといい思いをさせてやるよ」
この尊大な言葉に、クシェルの頭は真っ白になった。
漂白された脳裏によぎったのは――
あの朝見た、スヴァルトの焦りに焦った顔――普段とは全然違う、ぼさぼさの黒髪、意外に幼い表情。
初めて手をつないだ時の赤面――手の感触。
デートの終わりに見せた照れ笑い――通りのよい、しかし落ち着いた声。
メイリーナの言動に困惑する姿――腕相撲での、好戦的な一面。
そしていつもじっとクシェルを見つめる、どこまでも愚直な眼差し。
様々なスヴァルトの姿が、一瞬のうちにふと、思い返された。
同時にむくむくと、怒りがこみあげて来る。
彼のことを何も知らないくせに……それなのに知ったかぶりしている、この男は何なのだ? そうか、王子か――王子だからなんだというのだ? 王子は偉いのか? いや、偉いのは偉いのだろうが、だが――
「あんな男、呼ばわりするなぁ!」
クシェルは激怒した。思わずグラナスが怯み、腕の力を弱めるほどに。
その隙をついて、彼女は大きくのけぞる。両足で、地面を力いっぱい踏みしめる。
そして次の瞬間、自分の首が痛めつけられることにも頓着せず、力いっぱい頭を振った。
彼女の額が、グラナスの細く高い鼻に命中する。
「ぶぇっ……」
あるいは「ぐぇっ……」とうめいて、グラナスはたたらを踏んだ。うなだれ、両手で鼻を覆っている。その手の間から、血が一筋流れ出た。
ぱっちり二重でまつ毛の長い赤い瞳には、涙の膜が張っていた。
「この野郎……」
思い切り奥歯を噛み締めながら、グラナスは呻き混じりの声を発する。
「俺の顔に傷をつけるとは、いい度胸じゃないか!」
鼻血にまみれた右手を振りかぶって、グラナスがクシェルへ殴りかかった。
背後には水路があるため、クシェルに逃げ場はない。
無意味と分かりつつも、彼女は腕を胸元に引き寄せて、縮こまる。
しかし、彼の腕は振り下ろされなかった。
それよりも早く、グラナスの首の側面に、剣先が突きつけられたのだ。
「殿下……何を、なさっているんですか」
荒い息混じりに、平素以上に厳しい顔をしたスヴァルトがそう詰問する。
思わず両手を挙げて、息を止め、グラナスは硬直した。鼻血がまた、つぅっと流れ出た。




