22:夜の電話
その日の晩、食堂の電話が鳴った。
二階の居間で、ラータと食後の珈琲を楽しんでいたクシェルは、淡い茶色の瞳をぱちくり開閉した。
「今、電話鳴ってません?」
彼女の言葉に、ラータも耳を澄ませる。そして、顔をわずかにしかめた。
「そういや……鳴ってるね。こんな時間に、一体誰なんだい」
「私、行ってきます」
木のテーブルにコップを置きつつ、立ち上がる。
「すまないね、頼んだよ」
彼女を見送るラータに笑顔を返し、小走りで廊下に出て、少し急こう配な階段をリズミカルに下りた。
そして厨房にある電話を取る。
「はい、マルツ亭です」
営業時間外ということで、一瞬迷ったが、屋号を名乗ることにした。
≪あら、ひょっとしてクシェルですか?≫
ほんの数か月前まで、毎日聞いていた声に、クシェルも一拍遅れて反応。
「あの、神殿長ですか?」
≪あ、ごめんなさい。名乗るのが遅れましたね。ええ、ネリエです≫
思いがけない人物からの電話に、クシェルの胸は弾んだ。
「お久しぶりです」
≪ええ、お久しぶりですね≫
「それにしても、どうしてお電話を……?」
グラナスが来たことと、関係があるのだろうか。彼女の意図がまだ読めないため、探るような口調になる。
実は、と神殿長は前置きして言った。
≪グラナスのことで、お電話いたしました。今日、そちらへ参りましたでしょう?≫
当たりであった。己の勘のよさに、クシェルもつい笑う。
「はい。来られましたね」
≪ごめんなさいね、驚いたでしょう? あの子、一度言いだすと聞かなくて……あなたから届いた手紙を勝手に盗み見て、住所を調べたようなんです……≫
ひょっとしなくても、これは犯罪ではなかろうか。
国の象徴の思いがけぬ醜態に、クシェルの顔も引きつった。
「それは……なんだか、すみません……」
≪いえ、あなたは何も悪くないわ。それより、何か変なことは言われませんでした?≫
いつも通りのナルシスト発言の連発であったが、そういう意図での質問ではないのだろう。
クシェルもしばらく記憶を反芻して、首を振る。
「いえ、特には。神殿長には、何かおっしゃっていたんですか?」
≪実は……≫
「はい」
≪あなたを奥さんにしたい、と兄にも懇願しているようでして……≫
「げぇっ」
国王にも直談判しているという事実に、思わずうめき声が出る。
カエルが潰されたような声に、神殿長は上品に笑った。
≪そうなのよ。絶対に断られるから止めなさい、とは伝えたのですけれど≫
「ありがとうございます。確かに、絶対に嫌ですね」
素直にそう言うと、神殿長は一層笑った。そしてどうにか笑いを押し殺して、続ける。
≪そういえば、そちらにスヴァルトさんもいらっしゃるんですってね≫
「あ、ご存知でしたか」
≪ええ、この前ラータから聞きました。ごめんなさいね、きちんと赴任先を確認しなくて≫
やはりうっかりミスであったようだ。
そんな気はしていたので、クシェルもつい、神殿長らしいと脱力した。
「それこそ気になさらないで下さい。今は友達として、仲良くやっていますし」
≪あら、そうだったの……≫
「この前、一緒に買い物も行きましたし」
手をつないだことを思い出し、別れ際のはにかみ笑顔を思い出し、かすかに胸が高鳴る。クシェルはそっと、胸元を撫でた。
電話越しでは、そんな小さな動揺に気付くはずもなく。
神殿長はしみじみと言った。
≪あなたの社交性は凄いわね。グラナスがもっと真っ当な人間なら、ぜひ、甥のお嫁さんに来ていただきたい逸材です≫
「へへ、買い被りですよ」
電話が設置されている壁にもたれながら、クシェルは肩をすくめた。
「それより神殿長こそ、殿下に苦労されてるんですね」
思わずこぼれ出た言葉を、不敬ととがめられるかと思ったが。
受話器越しにうなずく気配があった。大いに同意されているらしい。
≪ええ、そうなんです。今も、巫女見習いにちょっかいを出してきていまして……≫
「それって、ひょっとしなくても」
≪ええ。かなり危うい事態です……神殿を出入り禁止にしても、あちこち抜け道を見つけては、忍び込むのです≫
「なんなんでしょうね、その、女性への執念は」
≪我が甥ながら、その辺りの精神構造が本当に謎なのです≫
「心中、お察しします」
その後も、神殿長もといネリエの、愚痴のような近況報告は続いた。
クシェルもそれにつられ、妹がマルツ亭を急襲したこと。そして、今では常連の一人になったこと。サイジェントの住人から、スヴァルトとの関係を応援されて恥ずかしいことを、赤裸々に語った。
上司と部下という関係が、取っ払われたからか。
なんだか今まで以上に、ネリエと打ち解けられた気がした。
最後に、ネリエから近々遊びに行くという約束を取り付け、通話は終了。
恩師との久々の会話が出来たことに、グラナスへほんのちょっぴりだけ感謝した。
――いや、前言撤回だ。
恩着せがましく来られても困るというか迷惑なので、絶対感謝はしないぞ、と天井をにらんで誓った。




