20:第七王子再び
その日は珍しく、メイリーナが不在だった。
昼過ぎ――いつもメイリーナが出没する時間帯に、マルツ亭を訪れた客が皆、キョロキョロと店内を見渡して彼女を探す。
そして一様に、クシェルへ尋ねた。
「なんだ、なんだ。今日は妹ちゃん、いないのかい?」
「はい。用事があるみたいで」
水の入ったグラスとメニューを渡して、クシェルは肩をすくめる。
「あの子がいないと静かだなぁ」
呟いた常連客に、他の客もうんうんと同意。
「なぁ。嵐みたいだもんな」
嵐――言い得て妙である。
「すみません。いつもうるさくしちゃって」
身内として、妹の代わりに深々と頭を下げる。
しかし客たちは怒った様子も、迷惑がる様子もなく、カラカラと陽気に笑った。
「いや、そんなことはないよ」
「そうそう。見てて楽しいからな」
「そうね。クシェルちゃんが大好きなんだなぁって、見てて思うもの」
にこやかな面々の内、一人が首をかしげた。
「ところで……貴族のお嬢さんは、実のところみんな、あんな感じなの?」
まさか、とクシェルは大きく首を振った。その拍子に、金色の三つ編みが左右に跳ねる。
メイリーナを基準にされたら、世界中の全貴族がたまらず憤死するだろう。
「いえいえいえ。あれは非常に特異な存在なので」
「だよなぁ」
今度はクシェルも混じって、皆で笑う。
それから少し経って、十四時過ぎにスヴァルトが来店した。この時間帯に来るということは、今日は電話当番だったようだ。
事務員も最低限しかいない地方騎士団であるため、騎士たちも電話番や来客対応といった、庶務業務を行うのだ。
スヴァルトも他の客と同じく、三白眼を意外そうに見開いて店内を見渡す。そしてどこか戸惑うように、銀ぶち眼鏡をいじりながら尋ねた。
「今日は、メイリーナ殿がいらっしゃらないんですね」
「うん。母のお友達のお屋敷で、お茶会なんだってさ」
その旨を電話で伝えて来た時の、メイリーナの恨みがましい声を思い出して、クシェルは含み笑い。
お茶会、とオウム返しに呟いて、スヴァルトは目をぱちくりさせた。
「なんだか、貴族のご令嬢のようですね」
「そうなんだよ。ああ見えて、実はあの子、令嬢なんだよ」
ニヤリ、とそう言うと、スヴァルトの口角も持ち上がった。
「それは初耳でした」
「私も最近まで、山賊の娘か何かかと思っていたんだけどね」
そう言って二人、にまにまと笑う。
と、眼鏡を触って、スヴァルトがうかがうようにクシェルを見つめた。
「やはり妹さんがいらっしゃらないと、寂しいですか?」
うーん。クシェルは腰に手を添えて、しばし天井をにらむ。
「……まぁ、ちょっとはね」
物足りなさを感じているのは、事実だ。これは寂しいということだろう、きっと。あまり認めたくないものだが。
「仲がよろしいですよね」
先ほどよりも、スヴァルトの笑みが柔らかなものになる。鋭い瞳も、細められた。
クシェルはそれを見つめ、くすぐったそうに肩を狭めた。
「うちは、親が厳しかったからさ。だから自然と姉妹で協力し合って、悪さするようになったんだよ」
スヴァルトは腕を組んで、ほう、と相槌。
「悪さを」
「そう。子供なんてそんなもんさ」
「なるほど……自分も兄と、よく近所の庭から果物を盗んでおりました」
「スヴァルト君も、なかなかのワルだな」
「恐縮です」
神妙な顔で、お互いしみじみうなずき合う。
彼のお気に入りのメニューである、ビーフシチューとサンドイッチのセットを伝票に書き込んで、クシェルはどんぐり眼をまたたいた。小さな口も丸くなる。
「というか、お兄さんがいたんだね。初めて知ったよ」
「ええ。二人兄弟です」
「そっか。うちと一緒だな」
そう言うと、スヴァルトはほんのりと微笑んだ。
彼のこういう優しい笑顔を見ると、何故だか最近、とても嬉しくなる。
だから後ろ手になって、クシェルも笑った。
この微笑ましい光景を、周囲の客もほっこりと見守っていた。厨房のラータも、にやにや見つめている。
二人のなんてことないやりとりを、こうして密かに眺めるのが、サイジェントの住民の楽しみなのだ。
そんな時だった。
新たな客が、店のドアを開けて入って来た。一人の男性客だ。
スヴァルトの伝票をラータに渡しつつ、クシェルはそちらを向いた。
「はい、いらっしゃ――」
もはや言い慣れた挨拶が、途中でかき消えてしまった。
緑がかった茶色の瞳を大きく見開き、口をあんぐりと開け、クシェルは固まっていた。
彼女の異変に気付き、いぶかしげに男性客を眺めたスヴァルトも、似たり寄ったりの顔になっている。
男性客は、第七王子のグラナスだった。
お忍びらしく、質素な服を着こんでいる。
仰天する二人の様子を楽しそうに眺め、グラナスは微笑する。相変わらずの、身長だけが残念な、完全無敵の美形ぶりだ。
「一人だが、空いているかな?」
「あ、はい……どう、ぞ」
へどもどするクシェルが、いつになくぎこちない仕草で、窓際の席へと案内した。
彼が自分の近くを通る際、スヴァルトは思わず席から立ち上がる。そのまま、騎士の礼を取りそうな勢いだ。
スヴァルトがひざまずくよりも早く、彼の肩をぽん、とグラナスは叩いた。背の低い彼は、わざわざ背伸びをしてスヴァルトに耳打ちする。
「今はお忍びだ、かしこまらずとも結構。それに――」
真っ赤な瞳に、剣呑な光が宿る。しかしそれでも、口元には微笑みをたたえたまま、彼は続けた。
「俺の大事な女性を奪った、君の礼は受け取りたくないものだな」
告げられた瞬間。
スヴァルトの全身が強張った。
言葉と表情を見失った彼の肩をもう一度叩いて、いっそ朗らかにグラナスが笑った。
「おい、そう怖い顔をするなよ。元々お前は、人相が悪いのだからな」
快活な声は、店内に響き渡った。
その声に、店にいた客たちは顔を見合わせ、不思議そうにスヴァルトとグラナスを見る。
グラナスのささやき声が聞こえなかったクシェルも、似たり寄ったりの表情で二人をうかがっていた。




