19:戦う騎士
騎士団長は、無精ひげと書類にまみれ、机に半ば埋もれるようにして仕事をしていた。
目の下のクマも非常に濃い。
絵に描いたような不健康ぶりである。
「あの……大丈夫ですか……?」
物怖じしないクシェルが、思わずおずおず尋ねると、疲れた笑みが返される。
「今はちょっと……大丈夫じゃないかなぁ。ここのところずっと、連続下着泥棒に振り回されててさ」
余裕がないはずなのに、物腰はいつも通りの柔らかだ。
「下着泥棒ですか。なんとも世知辛い」
「そうなんだよ。でも、クシェルちゃんも気を付けてね」
「はい。ご厄介にならないよう、部屋干ししときます」
神妙にうなずき返して、ご依頼の品を差し出す。
「こちらがビーフシチューとパンです。車で来たので、まだ冷めてないと思います」
机に埋没していた団長が、勢いよく立ち上がった。
「わあ、ありがとう! ご飯食べる暇もなくてさ、ひと段落したら絶対マルツ亭に行こうって考えてたんだけど、これが全然落ち着かなくてね……」
「お察しします。ゆっくり食べてくださいね」
「うん、ありがとう」
ビーフシチューがなみなみ入った小鍋と、パンの乗った皿を受け取って、団長はクシェルたちが入って来たドアを見やった。
「スヴァルトは今、訓練所で練習中のはずなんだよ」
「はあ、そうですか」
何故ここで、スヴァルトの名前が出るのか。そう訝しみながらも、一応うなずく。
ここで団長は、にんまり笑った。
「彼氏のいいとこ、ちょっと見てく?」
さすがは井戸端会議集団のボス、噂話にも精通しているようだ。
クシェルの緩やかな弧を描く眉が、珍しくしかめられた。
「いや、彼氏じゃないんで」
「またまた、照れちゃってー。ほらほら、遠慮せずに見て行きなさいよ」
「遠慮してませんよ。私、これから仕事がありますし」
渋るクシェルだったが、ここで団長へ援護射撃が入る。それはメイリーナだった。裏切り者め。
「お姉さま、お姉さま! 田舎騎士が汚泥にまみれて、辛酸を舐めている姿を見ましょうよ!」
純粋無垢な瞳でねだる妹に、クシェルは頬を引きつらせた。
「趣味悪いなぁ……」
露骨に意地の悪さがにじみ出ている主に、しかしエルロもちゃっかり便乗。
「騎士様の訓練とか、普段見れないですし。僕も見てみたいです!」
「ほら。皆こう、言ってるじゃない」
そこに団長が乗っかったので、クシェルは素直に折れた。
彼女だって、全く興味がないわけではない。ただ、スヴァルトとの仲を噂されているため、少しばかり意固地になっていたのだ。
「……まあ、ちょっとだけなら」
「よし来た! 訓練所は中庭の方ね。案内するよ」
さっきまでの疲れが吹き飛んだかのように、足取り軽く団長が先導する。
それに、ウキウキするメイリーナとエルロ、そして困惑気味のクシェルが続く。
中庭こと訓練所は、芝生――というか雑草が生い茂る、野放図な場所だった。
その訓練所の周囲を、騎士団の面々が囲っている。皆、模擬戦闘を行う同僚に、熱い声援を送っていた。
その声援の先――訓練所の中心で剣を交えているのが、スヴァルトとハザフだった。
訓練用の鎧を着込んでいる姿は、新鮮だった。
素人目にも、スヴァルトが優勢であることが見て取れた。さすがは元聖騎士である。
やっぱりすごかったんだな、とクシェルは何だか誇らしい気持ちになった。
二人に声援を送っていた騎士たちは、まず団長に気付いた。姿勢を正し、礼をする。
そして次に彼らは、団長の後ろにいるクシェルたちにも気付いた。
「スヴァルトの嫁だ!」
誰かがこう叫び、先程以上の歓声が上がった。
「い、いえ、嫁ではないんです、が」
クシェルの困った声は、地を揺るがすような雄たけびに、完全にかき消される。
――この人たち、仕事は大丈夫なのだろうか。団長は過労死寸前だったというのに。
そんな風にクシェルが戸惑っている内に、絶賛劣勢のハザフの耳にも、歓声が届いたらしい。切り結んだ体勢でじりじり押されながらも、彼はクシェルたちの方をちらりと見た。
次いで叫ぶ。
「あ、クシェルちゃんだ!」
彼を押しているスヴァルトは、若干呆れた。
「なんですか、その子供だましの手は――クシェル殿っ?」
しかしハザフの視線を追い、そこでクシェルと目が合ったことで、彼は大いに仰天した。その隙を、先輩騎士は見逃さなかった。
渾身の力を振るい、逆にスヴァルトを押し返して、剣も弾き飛ばす。
形勢逆転、武器を失ったスヴァルトの敗北であった。
こぶしを突き上げ、ハザフは歓喜の声を上げる。
「よっしゃ、初めて一本取ったぞ! クシェルちゃん、マジサンキュー!」
なんとも軽い感謝の言葉に、クシェルもつい苦笑。肩もすくめる。
「そりゃ何よりで」
一本取られたスヴァルトは、三白眼を細めて、ハザフを見た。
「先輩、ずるいです」
「うわっ、顔怖ぇよ、お前! ってか、真剣勝負の最中に、恋人に見惚れるお前が悪いんだからな」
ぶわり、と勢いよくスヴァルトの顔が赤くなった。
「み、見惚れたわけでは! そもそも、自分はクシェル殿とは単なる友人で……!」
「あーはいはい。そんな、真っ赤な顔で何言っても、説得力ねぇから。うん」
そう言いながら、ハザフは赤面するスヴァルトの脇をつついた。その様子にギャラリーが笑う。
クシェルも、可愛いなぁ、とつい微笑んでしまった。再び彼女と目が合ったスヴァルトは、落ち着きなく青い瞳をさ迷わせる。
数秒の逡巡の末、彼はへどもどと一同の元へやって来た。そして、クシェルの前でうなだれる。
「すみません。お見苦しい姿をお見せしてしまい……」
「そんなことないよ。スヴァルト君、やっぱり強いんだな。すごかったよ」
「いえ、自分なんてまだまだです」
口を引き結んで、スヴァルトは眼鏡を押し上げた。そのクソ真面目ぶりに、クシェルは再び笑う。
と、彼が泥だらけの汗だくであることに、今更ながら気付く。そりゃこんな炎天下の屋外で、大立ち回りを演じたのだ。汗と泥まみれになるに決まっている。
クシェルは仕事着のポケットから、ハンカチを取り出した。それをスヴァルトへ、そっと差し出す。
「これ、使ってくれ」
「駄目です。汚れてしまいます」
即座の固辞があったが、なおもハンカチを前へ突き出した。
「汚れるのが、ハンカチの仕事じゃないか。ほら」
彼の目もじっと見つめ、退かないぞとアピール。
結局彼女に弱いスヴァルトが、ほんのり頬を赤らめながらハンカチを受け取った。
「ありがとう、ございます」
「いえいえ」
歯を見せて笑いかければ、はにかみ笑顔が返された。
そんな、そこはかとなく甘い空気を、ふくれっ面のメイリーナが一刀両断にした。
「わたくしの目の前で、お姉さまとのろけるんじゃなくってよ!」
「いてっ」
叫ぶと同時に高々と足を振り上げて、スヴァルトの尻を蹴飛ばしたのだ。
淑女らしからぬその蹴りっぷりに、騎士たちから今日一番の爆笑が沸き起こる。
「クシェルちゃんの妹もすごいんだなぁ!」
その筆頭となったハザフが、目に涙を浮かべてゲラゲラ笑った。