55 リンの航海日誌
航海一日目。我々を乗せた船は、順調に航路を進んでいる。モンスターとの遭遇も無く、お魚はたくさん獲れた。私、リンは最初の五時間で、既に青い海に飽きてしまったが、今は日も沈み、暗い夜の海が広がっていて、また違う興奮感を与えてくれる。
夜の海を見ていると、少しロマンチックな気分になってくる。嘆くべくは、この船に三十一歳のインテリ科学者と、意外にもケイト先生と同い年の二十九歳だと言うことが夕食中に判明したクラースさん……彼らしか居ないことだ。
ジェーンかクラースさんのうち、どちらかを選ぶしかないとしたら、私は判断に苦しくなって、息が出来なくなって、窒息するだろう。まあ普通に考えて、キリーはジェーンを選ぶだろうから、私はクラースさん……。
「うーん、それもなぁ。」
「リン、タイピングが煩い。」
ランタンの灯火のみの薄暗い室内で、私はベッドに座りながら、この日誌を書いているが、私の下のベッドで寝ているはずのキリーが、煩いと声を掛けてきた。
そう言えば、キリーがまさか水恐怖症だとは思わなかった。誰にでも弱点があるものだ。人間なのだからそれでいい。それに、今日キリーとジェーンが、変な雰囲気でじっと見つめ合っていた。どうも上司と部下には見えないが、二人はただの友だと言い張るので、今はそれを信じであげることにする。
それはそうと、そろそろピア海峡と呼ばれる波の大荒れ地帯に突入する。このペースで進めば、明日の夜か明後日には海峡にインするだろう。そうなれば船は容赦なく揺れ、我々全員の三半規管の丈夫さが試されるだろう。多分一番最初に酔うのは、ジェーンに違いない。
ああ、まずはクラースさんの故郷であるシロープ島に無事に着くことを祈るばかりだ。我々の航海は、まだ始まったばかり、頑張ろう。それにしても、みんなで旅をするとは思わなかった。それもグレン研究所まで。キリーによるとスコピオ博士の依頼は、火山の奥にある古い測定装置が壊れたから、その修理をしてくれと言うことらしい。
その装置はあまりにも古いもので、グレン研究所の研究開発部の人間が総出で直そうとしたが、全く歯が立たない……と言う話をスコピオ博士がキリーにビデオ通話でしていたら、隣で立って聞いていたジェーンが、自分なら直せると言ったのが始まりだ。
その時のキリーの顔を今になって想像すると少し面白い。ジェーンはキリーが来ないなら絶対に行かないと駄々をこねるし、海路で行くなら海に慣れてて船も持ってるクラースさんが必要だし、勿論私も必要だ。そんなこんなで我々四人が向かうことになったのだ、この依頼、何としても遂行してみせる。そう、我々はリーフの村を救い
「リン……結構カタカタするね。」
「うん」
救うことが出来たのだ。これくらいの依頼は、朝飯前である。私のボスがタイピングがうるさくて眠れないのは可哀想なので、もうこの辺でおひらきとする。あ、そうだ。明日の夕飯の時に折角なので、ちょっとみんなの初恋の話を聞こうかなと思う。旅行のノリで色々と話しちゃうに決まってる!それは面白そうだ!
「リン……」
「わあああ!」
気が付けば、ベッドのはしご部分からキリーが顔を覗かせていた。その無表情に、私は一瞬、無念にも海で亡くなった女性の幽霊かと思って叫んでしまった。これはタイピングではない。繰り返す!これはタイピングでは無い!
そして突然ドアがバタンと開かれて、その音にビクッとしてしまった。
「なんだ!どうした!?モンスターか!?」
「わああああ!なんだクラースさんか……。」
また叫んでしまった。あまり驚かさないでしてほしいものだ。少し遅れて、ジェーンが目をこすりながらこの部屋に入って来た。私はクラースさんに言った。
「いや、何でもないの。キリーが覗いているから、びっくりして叫んじゃっただけ。」
ベッドを降りて、クラースさんの前に立ったキリーが、目を擦りながら私を指差した。
「もうタイピングがすごくて……眠れないの。」
「奇遇だな。」
クラースさんの一言に、私達はクラースさんを見た。
「俺も同室の奴のタイピングかなんか知らんが、PCの操作音がうるさくて眠れなかったんだ。今日は仮眠程度と思っていたが、それも出来なくてな。そうだ、お前こっち来て寝ろ。」
「そうだね、そうしよう。」
「え?え?ちょっと……」
そんなことある?私が引き止める前に、キリーはクラースさんの後について、この部屋から出て行ってしまった。ドアのところでジェーンがボーッと立っている。じっと見ていたら、彼と目が合った。
「あ、PC持って来ます。」
と、ドアを開けたまま居なくなると、すぐにPCを脇に抱えて戻って来て、私の下のベッドに入って行った。
何だろうこの展開は。そう言えば男性と同じ部屋で朝を迎えるなんて、いつぶりだろう。もし万が一、変なムードになったらキリーを裏切ることになるだろうか。ごめんね、キリー。
そう考えたのも束の間、下からカタカタと物凄い速さのタイピング音が聞こえて来た。これは私も負けていられない!私はまた航海日誌を書き始めた。やはり自分と同じことをしている人が居ると、作業が捗ると言うものだ。




