23 ジェーンの相談
クラースさん達が研究所に戻ってきた日、定時になったところで、私は先にジェーンを帰宅させた。私だけが承認出来る書類の確認が溜まっていたし、彼の仕事は全て完了していたらしいので、その為だけに彼を残すのも、かわいそうだったからだ。
なので現在、この夜の研究所には私と、調査部が持ち帰ってきたヘドロの分析を、徹夜覚悟で取り組んでいるタージュ博士しか居ない。
やっと執務が終了すると、私はタージュ博士に一言声をかけてから、研究所を後にした。もう既に外は真っ暗で、街灯が灯っていない箇所もあり、人気が無く静かだった。夜空には、星がキラキラと輝いていて、海の音や、風が心地良い。私は誰も見ていないのをいいことに、両手を広げて歩いた。
「ああ……いい夜だ。」
今夜は、ミリアム食堂のパインソテーを買って帰ろうと意気込んだ。あの店は、この帝国でも珍しく、夜間でも営業をしているので、こんな遅い時間でも、購入することが出来る。以前、今ぐらいの時間に仕事を終えた私は、ヘトヘトでその日の晩ご飯を作る気になれず、ネットで調べて、ミリアム食堂の名を知ったのがきっかけだった。
パインソテーなんて、甘そうでご飯代わりになるか、不安だったが、焼いたパイナップルに、ナッツのあんかけが添えてあり、以外にも、食べ応えも味も満足で、それ以来、ご贔屓になっているのだ。想像しただけで、あの味を早く口にしたくなった。シャッターが閉まったお店が連なる中で、ミリアム食堂の入り口からは明かりが漏れていて、迷わずに入店し、ソテーを購入した。
このソテーを食べるのが楽しみで、自然と笑みを漏らしながら、サンセット通りを歩いていき、自宅の前に着くと、一階の電気が消えていた。ウォッフォンを見れば、もう二十三時。流石に、あの人でも眠りについたのだなと、忍び足で、二階への階段を上った。玄関のロックを解除して、真っ暗な部屋の中に入り、玄関横のスイッチを押して、部屋の電気を点けた。
「あー、ただいま。」
小さい頃に、家族という家族を全て失っている私は、いつの間にか部屋自体を、家族だと思うようになった。誰もいないけれど、部屋に向かって挨拶をした私は、買ってきたパインソテーの袋を、木製の小さな正方形のテーブルの上に置き、同じ基調のテーブルの椅子に座って、脱力した。
カバンを床に置いて、じっと窓の向こうの、遠くの星空を眺めていると、袋から、パインのいい香りが漂ってきて、私の食欲が呼び覚まされた。
「ああ、もうダメだ!」
早く食べたくなった私は、椅子から立ち上がって、大急ぎでシャワーを浴びた。シャンプーついでに身体も洗って、全身の泡を一気にお湯で流した。それからキッチンへと戻って、戸棚から大きなお皿と、フォークを取り出して、テーブルに並べ、パインソテーの入った容器をひっくり返して、豪快に盛り付けた。血肉を目の前にしたゾンビの如く、もう我慢出来ないのだ。
「ふっふっふ……いただきま」と言いかけたところで、玄関の木の扉が、コンコンと音を立てた。この時間に来客か?と、疑問に思ったのも、つかの間。またコンコンと叩かれた時に、卵の殻でも突いているかのような繊細な叩き方で、扉の向こうに誰がいるのか分かった私は、湯気を放つパインソテーにため息を吹きかけつつ、席を立って、扉を開けた。
やはり、と言うべきか。そこには部屋着姿のジェーンが立っていた。その格好は、私が最初彼に貸した上下セットのジャージだった。彼が気に入ったらしいので、あげたものだ……。
「嘘でしょ、嘘だよね。そうだよね?ジェーン。」
「嘘とは?何のことでしょう。お帰りなさいキルディア。今の叩き方で、私だと理解しましたか?ソーライ研究所では皆、独自のドアの叩き方があるようなので、私も考案致しました。」
そう言ったジェーンが、私がまだ許可していないにも関わらず、部屋の中に入ってきてしまった。仕方なく扉を閉めて振り返ると、あろうことか彼は、私が先ほどまで座っていた椅子に着席していた。どうしてこうも、我が家のように振る舞うのか。また、ため息を漏らして、彼の方へと向かった。
「ファーー……そうなんだ、それで、あの叩き方だったんだね。何となくジェーンだとは分かったけど、何の用があってここに来たの?急用?」
私も、もう一つの椅子に座って、パインソテーをかじりながら彼の返答を待った。しかしジェーンは何も言わずに、ただじっと、私がソテーを頬張るのを見つめている。
「嘘でしょ?」
「何がです?」
「お腹空いてるの?」
「まさか。例え、貯金をホテル代に注ぎ込んでしまった私が、前払いの給料を切り詰めて生活している中で、夕食がヤモリの唐揚げの冷凍食品のみであったとしても、そのようなことで、ここにいる訳ではございません。」
「だぁーう、分かったよ……。」
キッチンからフォークとお皿を持ってきた私は、それらを彼の前に置き、自分のフォークでパインソテーを豪快に、ぶつ切りにして、彼のお皿へと乗せた。彼のソテーには、私がかじった跡があるが、別にそのままでいいやと、気にしないことにして彼に渡すと、本当にそれを気にしていないのか、彼はそれを受け取ると微笑んで、ソテーの乗った皿を鼻に近づけて、匂いを嗅いだ。
「ありがとうございます、悪いですね。ああ、甘い匂いがします。」
「いいえー。それ結構、美味しいと思うよ。よく、このミリアム食堂のパインソテーを買って帰るんだ。」
ジェーンはフォークで一口サイズに丁寧に切ってから、口に入れたと言うのに、私はソテーにフォークをぶっ刺して、それを持ち上げて、噛り付いた。食べ方にも育ちの差が出てしまっていることに、多少の羞恥心を感じたが、色々と遠慮しない彼に合わせて、私も彼の前では素でいいやと思い、品のある振る舞いをすることを諦めた。
「はい、美味しいです。見た目によらず、食べ応えがありますね。ナッツが効いています。」
「でしょう?頭使って糖分欲している日に、これを買って帰って、かぶりつくのが堪らない。それで、どうしたの?用件はもしや、お夕飯をご馳走になるためだった?」
「いえ、違います。」と言った彼が、フォークを一旦お皿の上に乗せて、背筋を伸ばして座り直した。改まった様子の彼を見て、私もフォークをお皿に置いた。
「本日は……何でしょう。何と申せば、宜しいのでしょう。何とも形容のし難い、いえ、つまり。ですから、あ、そうですね。いや、少し違います。」
「え?」
珍しい、彼の吃った様子に、最初はわざと私を笑わそうとしているのか疑ったが、口元に手を当てて、何やら話す内容を考え込んでいる、彼の真剣な表情を見ていくうちに、これがわざとでは無いんだと理解した私は、少し笑いそうになった口元を、咳払いで誤魔化した。
「……整いました。今日は、あなたと距離を……どうしましたか?風邪ですか?キルディア。」
「あ?え、いや。ちょっと喉が乾燥しただけ……。それで距離って、何のこと?物理的な距離?」
「いえ、」と彼が首を振った。「それ以外の距離です。」
「それ以外って何?物理以外って何?」
「物理以外のものが何なのか、私も些か疑問を感じていたところなのです。対義語で考えれば、物理の反対は論理、または化学。物理的と形容詞に変えて、その対義は理論的、もしくは精神的……いや、まさか。」
「え?何だって?対義語を考えて、さっきの、その意味が分かるの?つまりジェーンも、よく分かってないってこと?」
「ええ、まあ。兎に角、それ以外の距離です。」
「それ以外って何?」
「分かりません。」
「何それ」
「ですから分かりません。」
何だろうか、もうこんなに夜遅い時間だし、今日は本当に忙しかったので、この全く持って見えてこない話を、じっくり考えるための糖分は、もう私の頭には残っておらず、パインソテーを再び食べ始めた。それを見ていたジェーンも、また食事を再開した。彼は一口頬張ったところで、私に話しかけてきた。
「この件については私の方で、もう少し見解を深めた後で、報告致します。ところで話題を変えます。アリスの件です。」
「アリスの件?」一体どうしたのだろうか。




