22 海底のヘドロ
自分のオフィスに入った私は、机にカバンを置いて、振り返る。するとオフィスのドアのところで、じっとクラースさんを見つめるジェーンと、気まずそうに目を逸らして立っているクラースさんが、突っ立っていた。私の知らない間に、いきなり険悪な雰囲気になっている。私は苦笑いしつつ、その謎な状況の打開を図った。
「まあ、座ったら?……はは。」
二人の気分を盛り上げる為に少し笑い声を入れたけど、多分、効果は無かっただろうね。はは。
彼らがオフィスのソファに向かい合って座ると、また同じ現象が起きた。ジェーンがじっとクラースさんを見つめる、いや睨んでいるのかもしれない。
無表情だから分かりづらいが、ほんの少し、彼の眉間に皺が寄っているように見えた。それを察しているのか、クラースさんは首の後ろを掻きながら、どこを見るべきか落ち着かない様子で、しきりに頭を動かしていた。
何があったのか?と、正直に聞こうとした時に、オフィスのドアがトントトンと、変なリズムで叩かれた。この研究所の職員は、ドアの叩き方でアイデンティティを表現しようとしているのか、皆、叩き方のパターンが違う。まあ、そのお陰で誰が来たのか、一瞬で分かって便利だけど。今の叩き方はきっと、あの人だろう。
私がドアを開けると、やはりそこにはタージュ博士が立っていた。研究開発部の古株で、肌は黒く、髪の毛は無いが、お洒落な雰囲気の男性で、いつも黒いシャツの上に、原色の赤や緑、黄色のネクタイを合わせるスタイルをしている。今日は赤のネクタイだった。
太ってもいないが、痩せてもいない体格で、背は私より少し高い。普段は裸眼だが、仕事に没頭していると、段々と視力が落ちるらしく、その時は丸眼鏡をかけるのだが、それがまた似合う。今も丸眼鏡を付けている。
「クラースが戻ってきたと聞いたよ。その調査報告を聞きたいんだが、もう良いかな?」
「ええ、どうぞどうぞ。呼ぶの遅くなってしまって、ごめんなさい。」
「いいえいいえ。おお、みんなお揃いだね。ああ、部長もここに、いらっしゃった。」
オフィスの中へと入ったタージュ博士は、ジェーンに一礼をして彼の隣に座った。私もクラースさんの隣に座ると、クラースさんはテーブルの上に、彼の黒いパソコンを置いて、画面を皆に見せながら、説明を始めた。
「今回、ユーク市から調査を依頼された、アクロスブルーラインの橋の原因不明の振動の件だが、現場の動画を、タージュ博士に確認してもらったが、何も問題は無かった。そこで俺とロケインは、橋の足元の部分、海底から調査を開始したのだが……そこで気になる点があった。ここだ。」
クラースさんが海底で撮影した写真を画面に映し、それを拡大して、タージュ博士とジェーンに見せた。しかしジェーンはパソコンの画面よりも、クラースさん自身のことを、じっとまだ見つめているのだ。無表情だが、いつも以上に冷たい目つきだった。この数分間の間に、この二人が険悪になる要素があったか、思考を巡らしたが、何も思いつかなかった。
「これだ。この写真を見て欲しい。この海底のゴミが、動作の邪魔をしていたと判明した。これは先日、タージュ博士にも報告した通りだが。だから俺とロケインは、まず海底のゴミと思われる、この黒い泥を除去する作業をしていた。まだ、この支柱一本だけにしか付いていなかったから、良かったものの、専用の機械を使っても、台所の油汚れとは比較にならないぐらいに、頑固な汚れでな……それで作業に手こずり、報告も遅れてしまったのだ。すまない。」
そのヘドロは、橋の支柱を飲み込むように、こびり付いていた。機械を使用したとはいえ、これを取る作業は、二人では大変だったろうに。人手を増やそうにも、今はまだこれ以上の人件費が割けない。二人に負担を強いてしまったことに、申し訳ない気持ちを込めつつ、私は発言した。
「大丈夫、二人に何も無かったのなら、時間がいくら掛かっても大丈夫。ユークの方は、振動さえ直れば遅れたって納得するだろうし、それに「その泥は一体、どういう泥だったのでしょうか?」
急に、ジェーンに話を遮られてしまった。淡々とした口調で、突然放たれた彼の質問に、クラースさんが気まずそうな顔をしながら答えた。
「それが……泥なのか、ヘドロなのか。海水の中で、どんなツールを使用しても、とにかくこびり付く物体で、自然に発生する様なものでは無い、こんなものは、海の中で見たことがなかった。兎に角、その辺の作業員が使うような、一般的な成分分析機を使用してみたが、何かの廃油のようだった。微細なレベルの成分までは謎だがな。だからそれを、瓶に詰めて、持ち帰ってきたんだ。」
黒いボストンバッグを膝に置いたクラースさんが、その中に手を入れて、感触だけで探し当てると、赤い蓋のついた大きな瓶を取り出した。その中には、どす黒く、液体の中に、うねりの様なものが存在している泥が入っていた。私は思わず言葉を漏らした。
「うわあ……これはすごい。」
じっと見ていたタージュ博士が、クラースさんから瓶を受け取ると、博士は瓶の蓋を開けようとした。しかしその時、クラースさんが、いつものクールな様子から想像出来ない程に、動揺した表情で、素早くタージュ博士の腕を掴んで、叫んだのだ。
「蓋を取るのは、やめたほうがいい!やめた方が!」
クラースさんの鋭い目が、その泥に対する恐怖でからなのか、不安げな色に染まっていた。只ならぬ彼の様子に、我々は相当、この泥と言うものが厄介なのだと気付き、ただ瓶越しに、眺める事だけにした。
「と、兎に角、これがあったので、橋は振動していたんだ。我々が除去すると、橋は安定した。」
「そうでしたか。しかしこれは一体。見たことがありませんが。」
ジェーンが博士から瓶を受け取って、便の蓋の隙間から、匂いを嗅いだり、泥をオフィスのライトにかざしたりして、観察をし始めた。その時にキラキラと泥の中で、ラメの様な細かい光が生じたので、私はジェーンの持っている瓶を指差して発言した。
「それなんだろう、光っているよ。」
「これは……何でしょうね。チラチラ緑色に光りますが。」
「何だろう。」タージュ博士が顔をビンに近づけて、じっと観察している。「エメラルドでも無さそうだし、見たことのない輝きだな。ちょっとこれを持って行ってもいいかい?詳細な分析をしてみるよ。それと時間が欲しいな。」
「はい、お願いします。」と私が答えると、ジェーンがその後に続いて、発言をした。
「分析完了した際は、私にも一報願えますか?彼女経由でも構いませんが、出来れば、分析が終わり次第、直接連絡を頂きたい。気になるもので。」
ジェーンの言葉を聞いたタージュ博士が頷いて、にっこりと微笑んだ。
「勿論ですとも。部長にも、しっかり報告させて頂きます。それに同じ研究者同士、一度興味を抱いた対象を、そっとそのままにしては置けない気持ちになるでしょう。」
「はは、違いありません。ではお願い致します。」
二人は笑いあって会話を終了させた。何だ、ジェーンも普通に笑うじゃないか……きっと彼をそうさせるには、彼の知識の領域の話をしなければならないようで、そんなこと、私に出来るだろうかと少し黙考したが、答えはノーだった。
もっと笑えばいいのにと、先ほど彼に言った私の方こそに、彼の笑わない原因があったのだ。もしもっと私に聡明さがあれば、超俗的な冗談の一つや、それこそタージュ博士のように、研究者同士のあるある的な話題で、いくらでも彼の笑いを誘うことが出来たであろうと気づいた時、ほんの少しだけ、ジェーンとの距離を感じたのだった。




