186 嵐の到来
「こりゃあまた、酷い雨だな……、朝なのに夜みたいな暗さだ。」
テントから顔を覗かせて空を眺めていたクラースが、テントの中に戻ってきた時に、雨に濡れた前髪を手で拭った。彼が覗いたのは、ほんの少しの間だったが、前髪からはまだ水がポタポタと垂れている。雨音からして、土砂降りだとは思っていたが、ここまでとは。これでは……。
クラースは戦闘スーツの隙間から古傷を掻いた。それを見ていたケイトは、彼のスーツを思いっきり脱がして、鍛え上げられた見事な身体に軟膏を塗り始めた。ああまでなれば、キルディアも私に夢中になるだろうか。この痩せ細った我が身では、魅力は無いだろうか。
つい、他に意識がいってしまった。それではいけない。私は二人に言った。
「思ったよりも酷い天気になりました。この雨雲の様子だと、今後嵐になる可能性さえあります。ヴィノクールの排水機能のおかげで何とかなっているものの、このままここに居れば、湖が増水して危険です。陣は予定通り、河川キャンプ場に移動させましょう。」
「だが、あそこにも川がある。危険じゃないのか?ジェーン。」
「ナディア側の上流には、水位が上がっても氾濫しないように、水捌けのシステムが備わっていると、ヴィノの長であるジェームスが仰っておりました。話を聞けば、この一過性の豪雨は、この地ではよくあることのようです。ですので、あのキャンプ場はここより安全です。我々は陣を後退させる訳にはいきません。」
「そうか、それじゃあ用意する。」
装備を整えたクラースは、最後にLOZの兜を被り、テントの外へ小走りで出て行った。私とケイトも防具を装着し、LOZの兜を被り、テントの外へ出た。バケツをひっくり返したような雨とはよく言ったものだ。私にとって、久しぶりの豪雨だった。空は分厚い雲で蓋がされており、辺り一面が暗く、皆は兜についているライトを点けて、前を見ている状態だった。
『それでは、テントを回収してください。』
私が兜のスピーカーにそう伝えると、兵達が急いでテントを畳み始めた。隣で立っていても声が聞こえない程に、雨音が地面を激しく鳴らしている。それで私は兜のスピーカーを使用した。キルディア、この雨の中を急いで走ることがなくなって、良かった。昨夜の彼女の判断は正しかった。
ああ、いけない。ボサっとしていられない、以前など、こんなに心を奪われることは無かったのに。私はクラースのテントを、ケイトと一緒に畳み始めた。クラースはブレイブホースの方で整備をしている。すると一人の兵士が私の隣に来て、私からテントを奪った。
『ジェーン様、俺ですよ!久しぶりですね!んふっ!ほら、ちゃんとスピーカーで会話してますよ!偉いでしょう?』
『……スコピオ。』
兜のシールドの奥の顔が、私を見つめて気味悪く笑っている。そう言えば貴様もいたな。私は持っていたテントの端を彼に持たせて、その場を去った。
『待って、ジェーン様!』『あとはお願いします』『はい!』
その会話は、滝の流れように迅速に完了した。それでいい。私は他の兵のテント回収を手伝い、そうして我々は、荷物をブレイブホースの荷台に積んで、徐行しながらキャンプ場へ向かった。
私のブレイブホースは、マクレガーが運転した。私は例によって彼にしがみついた。すると隣を行くクラースとケイトの二人が、私を見て笑ったのか、肩を震わせた。……仕方のないことでしょう。
『……しかし、この兜が無ければ、呼吸さえも困難な豪雨ですね。キャンプ場で陣を整えたら、明日、天候が元に戻るまで警戒しながら、待機をしましょう。この雨です、彼らもまさか、坂下りでもして、打って出てきたりはしないでしょう。この雨が過ぎ去った時、その時が、我々が攻勢に出る時です。』
『そうだな、』クラースの声が聞こえた。それはスピーカーを通じて、全軍の耳に届いている。『キャンプ場からハウリバー山道とルミネラ山道に分かれる道があるから、その入り口ぐらいは警戒しておいた方が良さそうだ。川は本当に大丈夫なのか?』
それには、ジェームスが答えた。
『ナディア川はこれくらいの雨では、びくともしません。とは言ってもそこは激流です。飛び込めば命の保証はしませんが……。』
確かにそれはそうだと、私は少し笑った。そして言った。
『となれば、この雨の間は、川からも敵が攻めてくる必要がないと言う訳です。キャンプ場に本陣を構えることで良さそうですね。現地まで気をつけて向かいましょう。』
私の言葉に、スピーカー外から「おお!」と、声を上げたのが雨音の奥から聞こえた。
進軍する途中からは、この辺りの地理に詳しいジェームスが先導を担い、程なくしてキャンプ場に我々は到着した。ナディア川はごおごおと音を立てて激しい水流を生んでおり、危険な匂いを放っていた。つい、私は苦笑いした。
ジェームスを信じよう、彼はこの地理に詳しい。彼がもし、帝国の差し金だったのなら、私の人生はここで終了だ。まあ、あの気弱で純粋そうな人間が、平気な顔をして嘘をつけるとも思えない。私は信じることとする。兵に指示をして、予定通りにキャンプ場に陣を置くことに勤めた。
大きめのテントを張り、本部として、その中でPCの設置を終えると、改めて山の様子を確認したくなり、私は外に出て、雨に打たれながら山を眺めた。霧に包まれ、木々の間から水の飛沫が飛んでいる。本当にこの上に山道があるのか、それすらも確認出来ない。
すると、私の肩をトントンと何者かが叩いた。振り返るとクラースだった。彼が何かを言っているが、雨音で聞こえない。私は兜の内蔵マイクを使って彼に注意した。
『何ですクラース、それではあなたの声が聞こえません。』
クラースは気付いた様子で、少し恥ずかしそうに笑ってから、私に言った。
『山の勾配も思ったよりある。今日はこれでは、何も出来ないだろう?そう言いたかったんだ。』
私は微笑み、頷いた。
『なるほど。ええ、そうですね、今あの山を登ることは自殺行為だと考えます。森の中を通ることも、我々には山に慣れていない上に、避難しているモンスターを刺激してしまっては、捕虜奪還どころではありません。ん?』
私は微かに、白霧の森に、何か建物の頭を発見して、それを指差した。
『あれが、収容施設でしょうか?』
クラースも私の指先を辿るように視線を移し、それを発見して、こう言った。
『そのようだな、あの煙突のような箇所は見張り台か?……何だか、これでは本当に、晴れたら我々の陣が丸見えになるな。』
『ええ、相手は高台から我々を見下ろしているようなものです。しかし、我らにはウォッフォンがあり、味方の位置を正確に把握出来る技術があります。誰が、どの部隊と交戦中なのか随時共有し、陣を崩さなければ、勝機は十分あります。後は……援軍ですね。』
『そうか、それなら行けるか……。キリー、何とか、この雨の中、今夜の作戦に間に合うか?だが彼女を信じるしかない。その作戦無しに、この雨が止めば、俺たちは少し厳しいかもな。』
『そうですね……彼女を信じましょう。』
クラースは走って行った。私は施設をその後も眺めた。あの中にリン、オーウェン、そしてあの時、捕らえられた兵達がいる。私が迂闊だったせいで、怖い思いを兵達にも、その家族にも与えてしまった。ニュースの情報でしかないが、処刑された人間がいなかったのは、幸いだ。チェイスにもまだ、優しさが残っていたのだろうか。
少ししてから、私はマイクで、二つの山道に進軍する準備をするよう全軍に指示を与えた。雨に打たれながらも、その場でウォッフォンを操作していると、スコピオからLOZのポータルに着信があった。
『ジェーン様!大変です!ヤバイ!』
『どうしました?』
『敵襲です!ハウリバー山道の奥から、雨なのに新光騎士団がゾロゾロやってきた!』
『それは真ですか!?』
『こんな時に嘘ついてどうするんです!俺が帝国の差し金だと!?ああ!それほどに俺はジェーン様の中で、脅威なのでしょうか!?』
確かに、この男が嘘をつくとは思えないが、この霧の中、よく我々のことを攻めようと考えたものだ。するとすぐにまた、今度はクラースからLOZポータルに通信があった。
『こちらルミネラ山道にも、新光騎士団が来てる!どうするジェーン!』
私の周りが一気にどよめいた。はあ。
『……この大雨の中、二つの山道から、挟み撃ちですか。お元気なことだ。』
『はあ』クラースのため息だった。『ジェーン、そんなこと言ってる場合か?もう敵は前方で、一列に並んで、俺たちを射撃する準備に入っているぞ。俺らも一応、真似をして、防弾シールドを立てながら一列に並んでは見たが、どうする、ここで交戦するか?』
私はテントに急いで入り、PCで地図を表示した。テント内では、ジェームスやヴィノクールの人間が、雨風に耐えられるように補強をしていた。PCには、味方の現在地が、青い点々で表示された。知ってはいたが、二箇所とも、このキャンプ場から程近くの地点だった。突破されれば、本陣が危うい。
『なるほど、彼らは下り坂を利用し、予想よりも我々の本陣に近付いてしまいました。しかし、彼らを引き付けておくのもいいと思いました。ですからルミネラ山道をクラース隊、ゲイル隊、それからハウリバー山道をタール隊と、スコピオ隊に任せます。』
『ジェーン様っ!』スコピオの大きな声が耳を劈いた。本当に煩い。『敵をここで引きつけておけばいいのか?まあ、それも出来るかどうか、持ち堪えられるかどうか。』
私は強めに言った。
『引きつけてください。出来るだけこの本陣に近い場所で、それも今日の夜まで。するとキルディア達が行動しやすい。それに明日からその状態が役に立つ時が来ます。今、下手に彼らを刺激すれば、リン達が危険ですから。』
『もおしもし!俺はタールだ!』おやおや、これもまた、煩い。『話は聞いていたが、ちょっと疑問だぜ!敵を引きつけるのはいいが、明日から天気が晴れてさ、そのままこの本陣が危ないってことになりゃあ、これは大変なことだぜ?……それに、いくらキルディアが、あの施設を取ろうと頑張っても、彼女が孤立して危ないんじゃないのか?』
私は言った。
『ええ、その状態でしたら危惧すべきですが、この作戦は、ジェームス隊がキーです。』
『え?』
ジェームスが、私の方を驚いた様子で振り向いた。シールドの奥の彼の表情は、口が開きっぱなしだった。私は彼に微笑んだ。
『今は荒れ狂う、この川の向こう岸は、ルミネラ山道とハウリバー山道が合流する地点、イスレ山道の入り口です。その先をずっと登って行けば、リン達がいるであろう収容施設があり、その先にはイスレ山中腹の休憩地点があります。その地形を生かし、敵の戦力を削ぎます。皆様、どうか私にお任せを。』
『そ、そうか……』クラースの声だ。『まあ兵の数にもよるが、それなら敵を引きつけておこうか。攻めるよりも、防衛する方が、今の時点では容易い。』
『そうだな、』『そうだ。』皆の声が聞こえた。私は周りに立っている皆に、頭を下げた。
『そうです。それでは各員、交戦準備を整えてください。』
『はっ!』
私はまた、テントの外へ出た。先程よりも更に、雨足が酷くなっている。LOZの隊員がそれぞれの山道に分かれて配置につこうと奔走する中、この地を夜に染めている雨雲は、とうとう雷を鳴らした。濁流のナディア川が、一瞬眩い光で照らされた。すぐにまた、上空で雷鳴が轟き、私はつい体をびくつかせて驚いてしまった。
『……これはまた、いい天気ですね。』




