183 私と黒い水面
「この戦の前夜に、二人してお腹を掻きながら、何を話していたのでしょうか?」
クラースは気まずそうに前髪をかき揚げ、キルディアはそれまでの笑顔を消して、お腹をボリボリと掻きながら、私から目を逸らした。ですから、お腹を出さないで頂きたい。私は彼女のTシャツを掴み、下ろして、お腹を隠した。
クラースがこの静けさを、切り裂いてくれた。
「い、いやあ古傷が痒いと思ってな。疼くものもあるが、ちょっと掠ったような切り傷は、特に痒くて痒くて、気になるんだ。なあ?キリーもそうだろ?」
「うん、そうなんだ。すっごく痒くてねえ、思いっきり掻きたいの。」
私でも分かるほどの、彼女の棒読みの発言だった。そうまで嫌われたか。私は残念な気持ちを持ちつつ、彼らに言った。
「古傷が痛むとはよく聞きますが、お二人の場合は痒いのですね。確かに、天気の影響かも知れません。我々が気付かないだけで、身体は何か察しているのかも知れませんね。湿度、気圧、様々な要因があります。」
クラースとキルディアが同時に言った。
「明日は雨だ。」
私は驚いた。二人は、「ですよね!」「だよな」と盛り上がっている。クラース、後でまた、背中を軽く殴って差し上げましょうね。しかし明日が雨だとすると……。
「……予報では晴れですが、それなら明日は、キャンプ場に陣を置いた後は、その場に待機するしか無くなります。雨の山道は危険ですからね。でしたら、進軍予定も取り止めなければ、ならないか。」
私は腕を組んで、じっと考えるフリをした。雨なら雨で、待機、それは変わらぬ決定事項だが、そんなことよりも、どうしてキルディアは私を嫌う?長髪のB型は私だ。あれは過ちだったというが、私が既婚という事実、それだって、訳を知っているはずなのに。
「そうだ、ジェーンは何をしにここに来たの?」
切ない質問、この世は地獄だ。反抗的な気持ちになった私は、つい、くだらない発言をした。
「ああ、テントの準備が出来たので、あなたを迎えに来ました。」
するとクラースが、ふっと笑いを漏らした。
「今日は、同じ部屋で寝るのか?そうだ、キリーだって何で最近はジェーンに冷たいのか知らないが、この男はお前に、こんなに懐いているんだ、ちょっとは一緒に過ごしたらどうだ?」
キルディアは表情を曇らせた。「いやあ、別に」と、呟いた彼女が、本当に困った様子だったので、私はそれに心が動揺して、ついクラースに八つ当たりをした。
「おやおや、どうやらあなたも今日もケイトと同じ部屋で寝るようですね。あそこにあったのは、あなたのテントなのに、その中でケイトが準備を整えているのを見かけました。あれは一体どういうおつもりですか?ただの友人にしては少し、妙だと考えますが。」
私の発言に、クラースは苦虫を噛んだ顔をした。キルディアが目を見開いて、クラースに問い詰めた。
「そうなの!?最近クラースさんさあ、結構頻繁に、ケイト先生の部屋で寝泊まりしているよね?それって、何?二人の関係って、新展してるの?」
「……知っていたのか、キリー。」
「そりゃ住んでる場所も二階と一階なんだから、ちょっとした時にクラースさんがチラチラ見えるし、見張りって、訳の分からないポジション作ってるし。最近だって、人前でも平気で微笑み合ってるもの。」
キルディアがじとりとクラースを睨んだ。そうだそうだ、私も同調して、腕を組んでクラースを睨んだ。するとクラースはお腹も頭も忙しそうに掻きながら、遂に自白した。
「そ、そうか。まあ、見張りは、大事だろう?……ぐっ、なんだ、その、迷惑はかけないつもりだ。も、もう言うしかないのか。し、仕方ない。そう、俺たちはそう言う関係なんだ。つまり、ケイトは俺の、恋人だ。」
おやおや、めでたい事だ。私は拍手をした。するとキルディアも拍手をして、笑いながらクラースの肩を摩った。
「そっか、ふふ……クラースさんおめでとう。別に、迷惑じゃないから、気にしないでよ。そっかそっか、私も早く相手を見つけたいよ。」
クラースがチラッとこちらを見た。私の反応を気にしたようだった。まあ確かに、私は少し眉を痙攣させてしまった。そしてキルディアは先ほどから、私を見てはくれない。段々と、拗ねる気持ちさえ生まれてきたところで、キルディアが私に質問した。
「ジェーン、私と一緒のテント作ったの?」
実は作ってはいないが、今からでも作れる事は作れる。まあ、今日も一緒にいられるのは無理だろう、と諦めの気持ちのまま、私は答えた。
「おや、ご不満ですか?」
「不満じゃないけど……。」とキルディアは空を眺めて、すぐに何かを閃いたのか、クラースを見た。「あ!そうだ!私、今から行ってくるよ!」
「今から?もしや、かの地に?」
それほど私が嫌なのか?衝撃を受けながらも、それを抑え込んで、彼女に言った。「しかし、もう辺りは暗いですし、平原にいるモンスターも夜行性で危険です。」
「うん。でも明日は雨かも知れない。ブレイブホースで雨の草原を行くのには慣れているけれど、どうしても進行速度は遅くなるし、それなら今、晴れている夜間の方が走りやすい。インジアビスまで結構距離あるから、今から行ってくるよ。大丈夫。」
確かに一理ある。彼らによると明日は雨なのだから。クラースと目が合った。私は、何度か頷いた。
「そうですか、そうですね。私は従います。お気をつけてください、キルディア。」
キルディアは私に微笑んでくれて、私の肩を一度ポンと軽く叩いた。
「ありがとうジェーン、あとは総指揮をよろしくお願いします。クラースさん、早く寝てね!それじゃあ、行ってきます!」
総指揮を頼むから、私に微笑んでくれたのだ。業務的な行動に過ぎない。キルディアは地面に置いてあった制服のコートを羽織り、ブレイブホース置き場の方へと走っていってしまった。すぐにエンジン音が聞こえて、馬の蹄が地を蹴る音が、徐々に遠く遠くへと吸い込まれていった。
気がつけばクラースは消えていた。彼女のとった行動は、理に適っている。明日は雨なら、確実に明日の夜に間に合うように行動するならば、今夜此処を出たほうがいい。
しかし、どうしてもその行動が、私に関連していると思えた。私が過去の人間だから、私が既婚者だから、彼女はきっと、私とこれ以上仲良くなることを恐れているのやも知れない。
私だって、彼女といたい。しかし過去の世界で、私の友人、イオリの為に、してやりたいことがある。あの友人だった男にもう一度、少しばかりの感謝を、行動に移したいのである。
イルザ、可愛い我が妹よ。君は、この星空の下にはもう存在していない。もう海に沈んだあの街と共に、眠っているのだ。私の育ての父、母、彼らと共に。私は、失格者の兄だっただろう。イルザに何をしてやれた?何も人間らしいことをしてやれなかった。笑って欲しいが、今、この時ばかりは、君の存在を、私は求めている。優しく抱きしめて欲しいのだ。
湖の辺りで、わあわあと兵達が語っている。肩を組み、歌う者もいれば、明日に備えて手合わせをする者もいる。私はこれより、此処にいる、勇敢な彼らを束ねる指揮官だ。それはキルディアから依頼されたこと。情けないことに、今この地で、一番失意を抱いているのは、きっと私に違いない。
湖面に揺らめく月が、風前の灯のようだった。




